第2話 初デート

 よっぽどの一眼レフマニアだと思われたようで、彼女は僕にカメラのことを聞いてくるようになった。そのたび、僕は得意げに答え、帰るなり、次の質問に備えてネットや雑誌で猛勉強するのが日常になった。

 そんなある日、


「久保くんって、どこ中だったの?」


 彼女の何気ないその問いから、ゴールデンウィークに二人で出かけることになったのだ。

 僕の実家は、高校から電車で二十分のところにあった。駅前も寂れて、何にもないところなのだが、唯一、有名な海浜公園があった。海岸沿いのもて余した広大な土地にぽんと置かれた巨大庭園――僕の印象はそんな感じだ。

 実家から自転車で行ける距離のそこは、普段は人気もなく、小学生の遠足とか、たまに犬の散歩に地元の人間が使うくらいで、寂しいほどに閑散としていた。置いてある観覧車も動いているのか動いていないのか。小学生のころ、友達と遠くからじっと眺めては論争になったものだ。

 だが、一年の中で、ある時期だけ、全国から人が集まり、大賑わいになる。ゴールデンウィークと紅葉シーズンだ。特に、ゴールデンウィークは、開園前から駐車場へと続く道路に車の列ができるほど。地元の人間にとっては道路や駅が混む迷惑な時期でしかなく、僕にとっても『その時期は海岸沿いを避けるもの』という、それくらいの認識だった。

 だから、僕は初めて目にする春の海浜公園の姿に驚嘆した。そして、やっと納得できた。どうして、こんな田舎の海浜公園に全国から人が集まるのか。

 入り口から公園の端まで行くのに、徒歩で一時間はかかるという広大な土地。そこを埋めつくさんばかりに咲き誇る色とりどりの花々。自然界の色を集めた巨大なパレットがそこにあるようだった。

 草花の色と香りに包まれながら、僕は彼女と並んで歩いた。初めて見る私服姿の彼女は、デニムパンツにスニーカーとボーイッシュで、制服姿とのギャップに僕の心は鷲掴みにされた。強い潮風に困った様子で髪を一つに結ぶその仕草に横目で見惚れ、ごった返す人混みの中、転びそうになった子供に自然と声をかける彼女の優しさに心が震えた。


「この時期に来るのは初めてなんだっけ? せっかく、近くに住んでいるのに」


 公園の中を散策してしばらくして、彼女はそう訊ねてきた。


「近いとさ、いつでも行けるしなー、て思っちゃって。それに、この時期、どんだけ混むのか毎年見てるしね」

「そういうものかな。もったいない、て思ってしまう」

「ジモッティーからすれば、そういうもんです。まあ、小学生のときに、遠足で散々来たから飽きた、てのもあるかな。春じゃなかったけど。そのときは、ゴミ拾いばっかりさせられてさ。労働だったよ、労働」


 学校で話すことといったらカメラのことばかりだった。だから、そんな他愛もない話をしながら彼女と歩くのが、僕は楽しかった。

 でも、そのとき、ふと、不思議に思った。なぜ、彼女は写真を撮らないのだろう、と。カメラを持ってきているのかどうかも分からなかった。

 そうして、彼女が写真を撮らないまま、僕らはとある小高い丘に着いた。


「すげ」


 思わず、僕は感嘆の声を漏らしていた。

 それは、真っ青の丘だった。その澄み渡った青は、雲ひとつない青空との境界線を曖昧にしてしまうほど。丘の頂上へと連なる人の行列が、まるで空をのぼっていくようにさえ見えた。

 その丘のことはよく耳にはしていたが、想像以上に幻想的で、そこだけ異世界のような浮世離れした美しさだった。

 丘に近づいていくと、小さな青い花が丘の斜面に絨毯のように敷き詰められているのが分かった。ネモフィラという花だった。

 僕らはぼうっと丘を無言で見上げていた。圧倒されて、気の利いた言葉の一つも思いつかなかった。

 そうして、どれくらい経ってからだろう。さすがに気まずくなって、僕はちらりと彼女を横目で見ながらぎこちなく訊ねた。


「どうする? 丘、登る?」


 すると、彼女はじっと丘を見上げたまま、「うん」と思いつめた表情で答えた。


「登っとこ。もう来られないかもしれないんだし」


 そんな大袈裟な――と思った。

 彼女の実家は高校の近くで、確かに、僕とは違い、公園の近所とはいかなかったが、それでも、電車で二十分。『もう来られない』ような距離ではなかった。

 でも、彼女の雰囲気はそんなことを言えるようなものではなく、さっさと丘を登りだした彼女の背中に僕は何も言えなかった。

 たぶん、それが初めて感じた彼女との『距離』だった。すぐそばにいるはずなのに、なんとなく、遠くに感じる彼女との距離ずれ。それがなんなのか、そのときの僕に分かるはずもなく、違和感だけがしこりとなって心に残った。

 くねくねと蛇行する緩やかな坂を登っていくと、五分ほどで頂上にたどりついた。地肌がむき出しになった頂上はおもしろ味に欠けるものだったが、そこからの景色は格別だった。丘の斜面を埋め尽くすネモフィラや、遠くに広がる青々とした大草原、見頃を迎えた色鮮やかなチューリップ――春の色に染まった公園が一望できた。絶景かな絶景かな、なんて思っていると、背後から強い風が吹き付けてきた。潮の香りのする冷たい風に振り返ると、そこには海が広がっていた。ネモフィラのそれとは違い、暗く澱んだ青だった。

 なんとなく、吸い寄せられるように海の見えるほうへと歩み寄ると、眼下に海岸があらわれた。海岸へと続く丘の斜面には草花もなく、禿山のようで、背にした楽園のような景色とは対照的に、あまりにも味気なく殺風景だった。


「こっちは、何にもないんだね」いつのまにか僕の隣で、彼女も海岸を見下ろしていた。「なんか……生々しいね」


 不気味だな、とは僕も思ったが、生々しい、という彼女の表現は僕には新鮮だった。


「そうだ」とそのタイミングで、彼女は思い出したようにショルダーバッグを開けた。「写真、撮ってくれる?」


 きた、と思った。

 そのときの僕はもう、受け取った『一眼レフ』に戸惑ったりはしなかった。ホワイトバランスをチェックして、アイリスなんかも調整しちゃって、僕は誇らしかった。


「じゃ、撮るよ」と、カメラを構えた僕だったが、シャッターを押すのを躊躇った。


 彼女の背後には、空と海しかなかった。


「こっちのほうが景色いいけど」


 僕は公園のほうを指してそう提案したが、彼女は海を背にしたまま動こうとはしなかった。


「逆光になるから。顔が暗くなっちゃう」

「ああ、そっか」と、言われて気づいた。

「それに」と、振り返り、彼女はひとりごちるように言った。「背景なんてどうせ切り取っちゃうんだし。これくらい何もないほうが切り取りやすくていいよ」


 切り取る、と彼女が言った意味が分からなかった。


「景色とかは、撮りたいとは思わないの?」


 海浜公園に来てからずっと抱いていた疑問を、僕はぽろりとこぼしていた。すると、彼女は責めるような口調でこう答えた。


「景色なんて写真に撮って何になるの?」


 冷たく遠ざけるようでいて、寂しげで。そんな彼女に、そのとき、僕は何も言ってあげられなかった。

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