ファイル002 偽物に追われる男

 エレベーターがなかなか止まらないので、おかしいとは思っていた。

 だが、ここまでやるか!?

 亀田照哉かめだてるやは、マンションの最上階でおののいていた。

 彼は、確かにエレベーターで四階を選んでいた。自分の部屋がある階だし、これまで押し間違えた事など一度も無い。

 エレベーターの操作盤が細工されている。

 これだけでも充分に狂った悪戯ではあるが、亀田には確信があった。

 自分は悪戯に偶然巻き込まれたのではない。この悪戯は、自分をピンポイントで狙ったものだ、と。

 掠れた悲鳴を漏らしてから、亀田は一目散に階段を駆け降りた。

 地上に降り着くまでの間、マンションのそこここに、他の住人の戸惑いや恐慌、怒気がわだかまっていた。

 気持ちはわかる。ここまでやるなんて、犯人は絶対に狂っている。

 そして、これだけの規模で人を巻き込むような奴に、自分は狙われているのだ、と実感を新たにした。

 

 

 

 警察に行ったが、果たしてどれほど解決に向かうものか。犯人が逮捕されない限り、亀田に安息はない。

 自室にも、もう戻れない。

 幸い、ホテル暮らしになっても余りあるほどの資金は持ち合わせているのだが。

 こんな状況下で食欲など湧こうはずもないが、どんな時でもスタミナは維持しないと。ピンチの時こそ栄養をつけないと頭が回らなくなってジリ貧になる。それが亀田の持論だった。

 コンビニで比較的喉を通りやすい、ざるそばを選んだ。

「ぁざっしたー……」

 店員の女に腹が立った。ベリーショートに刈った髪と、どぎついアイシャドウ。亀田好みの、清楚で落ち着いた女像から程遠い。

 レジの打ちかたも、釣り銭の渡しかたも投げやりで、態度が悪い。

 そこまで考えて、亀田は唾を飲んだ。

 今まで、店員の態度くらいの事で目くじらを立てた事はない。

 いかんいかん、冷静さを失えば、もっと悪い方向へ転がっていく。余裕の無さを自覚し、自分を内心で戒めた。

 かつての仲間や、自分もそうだった経験則から、亀田は心をささくれさせない事を強く意識していた。

 

 

 

 借りたホテルの一室で、仕方なく、食べたくもないざるそばのパックを開ける。

 めんつゆを開け、蕎麦に箸を入れ――ようとして、亀田は凍り付いた。

 箸が麺に入らない。

 これは、

「偽物……食品サンプル」

 箸を放り出し、偽のざるそばをテーブルからはたき落として、亀田はベッドに尻餅をついて――紙質的な破砕音と共に、ベッドが壊れた。

 ベッドだと思っていたものは、段ボールで作られた偽物だった。

 亀田は、身動き一つ取れなくなった。

 無作為に選んだコンビニ弁当。たまたま借りた部屋のベッド。

 それらに先回りして、物を摩り替える奴がいる。それを可能な、いつでも亀田の眉間に拳を叩き込めるような奴がいる。自分を、執拗に追いかけている。

「考えろ、考えろ……」

 冷静に。あくまでも冷静に、まずは敵が誰かを見定めよう。亀田は、この異様事態にあってなお、活路を求めた。

 何日も前から、マンションのエレベーターをいじくられる以前から、この手の嫌がらせは受けてきた。

 今までされてきた事の共通点、つまりキーワードは既に掴めている。

 偽物、だ。

 敵は徹頭徹尾“偽物”というテーマをもって自分を攻撃して来ている。

 何のために? 

 可能性が高いとすれば、意趣返しや復讐だろう。

 亀田には心当たりがある。ありすぎる程だ。

 偽のブランド品を無数に売りさばき、大勢の人間を欺いて巨額の富を手に入れてきた。

 被害者の数も被害総額も数知れず……と言う事は、容疑者の候補が多すぎて見当がつけられない、とも言える。

 だが、それで諦めてしまえばおしまいだ。

 幸か不幸か、今、彼を脅かしている相手は究極的にイカれている。数万人に一人の逸材とすら言える。

 これまで出会った中で、やりかねないと思える人間と言えば……、…………。

 ……、まさか。

 おぼろげに、一人の女が浮かんだ。

 どうせ不特定多数のうちの一人。細かい顔立ちすら忘れていた。

 いや、忘れたかったのかも知れない。

 何一つ手を加えていないくせに、やたら綺麗な黒髪。それだけは、鮮明に覚えていた。

 男としての手管を使い、カモにした覚えもある。と言うことは、抱くにあたって見苦しくない体型、ルックスだったのは間違いない。自分にだって仕事を選ぶ権利がある、と亀田は信じて疑わないからだ。

「やばい」

 唇が、震えだした。

 もしあの女だとしたら……確かに、これくらいはやりかねない、と。

 逃げなければ。こんな、ホテルの部屋だなんて袋小路にも等しい場所に居てはいけない。

 息を殺してドアを開けて、

「テルヤ君」

 廊下に、細身の女がいた。長く艶やかな黒髪。ほっそりとスレンダーな体つき。そして。切れ長で、清涼で、虚ろな双眸。

「あ、あ、ぁアアァあ!?」

 窮鼠猫を噛む。火事場の馬鹿力。女の横を凄まじい馬力で駆け抜けて、亀田は逃げ出した。

 だが。どこへ逃げられると言うのだろう。

 

 

 

 それから三日。

 ホテルに泊まることも出来ず、亀田は公園の隅で、浮浪者のように震える事しか出来ない。

 開けた場所でなければ駄目だ。あの女が、あるいはあの女の仲間が近付いて来てもすぐ逃げられるような、屋外でなければ。

 おにぎりを齧る。

「あがっ」

 また、偽物だった。この三日間、コンビニや飲食店で買った食べ物が本物だったり偽物だったりした。

 最初のうちこそ、手触りなどで見破ったりもしていたが、こうも回数が多いと一つ一つに神経を使っていられなくなってくる。

 もう、何が本物で何が紛い物なのかがわからない。なまじ本物である事が多いので、齧ってみるまでわからない。毎食毎食がギャンブルだ。

 コンビニだろうとスーパーだろうと飲食店だろうと、どこの店に行ってもそうなる。

 あの女には、一体何人の協力者が居るのか!?

 食べ物だけではない。寒さをしのぐために買った上着は雨に溶けたし、買い物で返された釣り銭が偽造硬貨で、危うく逮捕されかけた。

「ここまで、するかよ……」

 もう、限界だった。そして、立ち上がる余力すらない彼の前には、当然のごとくあの女が。

「テルヤくん」

 一つだけ言える事がある。

「私が、助けてあげる。そうすれば、また一緒に居てくれる?」

 この女だけは、正真正銘の本物だ。この女に従えば、もう偽物に怯える心配は無くなる。

「わかった、わかったからもう勘弁してくれ――えっと、」

 名前が、出てこなかった。

 用済みと思って、記憶から抹消してしまっていたらしい。

 亀田はそれを、心底悔やんだ。

 忘れるべきでは無かった。いや、そもそも、他人を騙しては忘れるような生き方こそが間違いだった。

 だが、今更悔やんでももう遅い。

「俺は、殺されるのか」

 半ば観念した亀田に、女が歩み寄って、

「私の名前は琴音ことね。もう忘れないでね」

 

 

 

 彼を取り戻して一週間経過。

 未だに疑心暗鬼の気はあり、社会復帰の目処も立つか心配だが、琴音に対しては人が変わったように素直になった。

 一度自分を捨てた亀田と、またやり直したい。それは、琴音が切に願っていた事だったが。

「琴音先輩」

 鈴やかな少女の声が、琴音の背後から投げ掛けられた。

 宝石のように透き通って、冷たくて、容赦のない硬さをも孕むこの声。忘れもしない。

「あんた……」

 黒を基調とした、自分をお姫様か魔法少女だとでも思っているかのようなコスチューム。

 ただ。

 同性すらも羨む、夜の清流のようだった黒髪が、ベリーショートに刈られていた。

 それでも、最低限度の化粧だけを施した面差しは、変わらず女性的であり知的であった。

「亀田さんとは、上手く行って居ますか?」

 琴音は、無意識に半歩後ずさった。

「なんの、つもり」

 訊きながらも、答えは既に悟っていた。

 この数日、亀田に執拗な偽物攻撃を仕掛けていたのは、この、女――琴音の高校時代に可愛がっていた後輩の少女だ。

 彼女は何のためにそんな事を?

 知れている。亀田は結婚を餌に琴音を騙し、捨てた。琴音はそれでも彼を諦められなかった。だから彼女は、それを元に戻すために、やったのだ。

 琴音はかつて、この後輩の事を亀田に会わせた事がある。彼女の顔は、亀田に割れていた。だから彼女は、宝とさえ言えるあの黒長髪を、躊躇無く刈り上げた。

 報酬等に対する下心は皆無だろう。

 ただひたすら、琴音と亀田の幸福を願い、彼女は最適解を演算。そしてついに、やってのけたのだ。

 いつ暴かれるとも知れない悪事から解放され、自分を想ってくれる女性と添い遂げる。亀田には、最大級の幸福が与えられた。

 琴音自身は。

 亀田への気持ちに整理がつき始めていた頃合いではあった。諦めて、他の道を歩み出す未来を行こうとしていた矢先だった。

 だが、愛した男に騙され捨てられた経験則を持ったまま、琴音は果たして幸せになれたろうか。

 偽物に怯え、心の折れた亀田の姿は、琴音の末路だったのかも知れない。

 いや、サイコオニキスが演算した未来は、十中八九そうだったろう。

 彼女は、恩人だ。彼女が居なければ、琴音の心は人生は死んでいた。亀田だって、真っ当な生き方をするようにはならなかったろう。

 後は琴音と亀田次第だが、二人には再びチャンスが与えられたのだ。

 それでも。

「あんた、気持ち悪い」

 そう告げずにいられない。

 最低だ。恩を仇で返している。理屈の上ではわかっている。それでも。

「他人の人生を掌で転がして、あんた、まともじゃないよ」

 噂では聞いていた。

 この後輩はとても良い娘なのに、何かが決定的におかしい。

 噂に流されず信じようと、そう思っていたのに。

 彼女はただ、黒瑪瑙オニキスのように透き通った漆黒の眼差しを返してくるのみ。

「何故ですか」

「ここでしれっと、そう言えるところが」

 ああ、自分こそがとても冷たい人間だ。それはよくわかるのに、琴音はあくまで彼女の手を取れない。

 そしてやはり、亀田と一緒になれた今はとても幸せだった。

 

 残されたのは、迷子のようにぽつりと立ち尽くす、少女がひとり。

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