第六話 最後のチャンス

 静まり返っていた風が、再び海上に風鳴りを呼び戻した。


 海峡の波が荒々しさを増し、一帯を包んでいた霧と氷が、嘘のように消え去る。

 通常の海峡の光景に戻ったその瞬間、ハンネスの目が驚愕の色に染め上げられた。


「─── リディッ! 罠だッ、海から離れろ!」


 霧と氷に覆われていた個所、そこにはふたりを囲い込むかのように、無数の魔法陣が宙空に浮かんでいる。

 それらは神龍が宙を蹴った場所、全てに施され、隠蔽いんぺいされていたものだった。


(……あのクソトカゲ! 無闇に飛び回ってたんじゃない、この術式を完成させていたんだ!)


─── ドパァ……ン!


 海峡の渦に、飲み込まれたはずの神龍が、巨大な水柱を立てて、再び空へと昇る。


「へっへーんだ♪ もう神気は使わせないよ!

最初っから、これが目当てだったんだもんねーっだ!」


 底抜けに明るい少女の声が、巨大な龍の口から発せられ、ハンネスは困惑する。


「─── だ……め、ハン……ネス……にげ……」


「リディッ!」


 慌ててハンネスがリディに近寄ろうとした瞬間だった。

 真下から突き上げた、紫色の細い光がリディを貫き、黒い稲光がその身を包む。


 爆発的な黒い波動に、ハンネスは半狂乱でリディの元へ突き進もうとするも、軽々と押し返された。


─── 集団詠唱、最初の雷撃の術式は


 超上級魔術を使うように見せ、その裏で比べ物にならない呪術が紡がれていた事に、ようやくハンネス達は気がついた。


 エルフの魔術を甘く見ていたが為の失態。


 いや、大きな術式の気配に隠れ、術式の見えにくい呪術が練られるなど、神龍の高速の攻撃下で誰が気がつくだろうか。


「うああああああああああぁぁぁ……ッ‼︎」


「リディ、リディィッ‼︎」


 黒いいばらがリディの体の中から、ぞわぞわと這い出し、その身を雁字搦がんじがらめにして行く。

 青白い光の明滅と、禍々しい呪力の波動が、海上に吹き荒れた。


─── ガクン……ッ!


 突如、ハンネスの飛翔魔術が乱れ、あわや転落しそうになる。

 リディの加護が封じられ、ハンネスの魔力の器が人並みに戻ろうとしていたのだ。

 魔力の消耗の激しい飛翔魔術が、今の彼には手酷い浪費の根源となりつつあった。


 怒りに任せ、エルフ達に斬撃を放とうとするも、魔剣に注ぎ込む魔力と闘気すら、彼にはもう足りてはいなかったようだ。


 唖然とした表情で落下を始めるハンネス、それを荊の隙間から目にしたリディは、神気の光をほとばしらせた─── 。



【─── な め る な ……ッ】



─── パリィィ……ンッ!


 空に甲高い破裂音を立て、黒い呪力の荊が、粉々に砕け散った。


 全身を朱に染めたリディは、エルフ達を怨嗟の形相でにらむと、不可視の力でハンネスの落下を食い止める。


「─── あれは……まさか、調律の神……!

それじゃあ【神殺しの荊ラードゥ・ドライン】が破られても……仕方がないよ。

……真の神々なんか、想定してないからねぇ……」


「調律の……⁉︎ あれがオルネアの化身だと言うのかラーマ婆!

で、ではあの老人は……勇者……⁉︎」


 人界の調律者にして人類の希望が、あれだけ禍々しい存在だとは、ハロークは信じる事が出来なかった。


「勇者とは……『人々に希望を与える』者ではなかったか……?」


「さあねぇ……。その希望ってのが、人々に相応しいかなんて、分かりゃしないがね……。

─── どちらにしろ、これはマズイ事になったよ。今、向かって来られちまったら、みぃんな犬死さね」


─── グオオオォォォ……ッ‼︎


 神龍が雄叫びを上げ、リディに向かって高速で飛び込む。


 ……だが、その巨大な体は、リディが手を掲げただけで宙に止められ、体に細かいマス目状の傷が走った。


─── カカカカカカカカカカカッ!


「……細切れ……までは……叶わない。

でも、神威は少し……とりもどした……」


 リディは忌々しげに自分の手の平を見つめてつぶやき、続けて空を掴み、下に投げ下ろす動作をする。

 その遥か先で、神龍の体が見えない力に締めつけられ、再び海峡へと放り込まれた。


 その手を陸にいるエルフ達に向ける─── 。


 強烈な殺意と神気に、彼らは身動きすら取れずに、ただ息を呑んだ。


「─── 今回は……わたしたちの……負け

次は……必ず……殺す……」


 ハンネスを抱えるリディ、そのふたりの姿が、音もなく唐突に消え去った─── 。




 ※ ※ ※




 一方、その頃、アルザス帝国と近接した、とある国境付近。


─── ズチャ……ッ


 黒ずんだ泥。

 いや、最早吸い上げる隙間もない程に、血に濡れた砂、その血溜まりからブーツのかかとが引き抜かれる不快な音……。

 窪んだ穴には、ドス黒い血液がどろりと染み出して、もう分からなくなってしまった。


 顔を歪めて後退あとずさった男の気配に、屍肉をついばむカラス達が、一斉に飛び立つ─── 。


─── 中央アルザス隣の小国アルムナ


 たった半日でこの惨状になるとは、この国中の、いや中央諸国の誰もが想像だにしていなかっただろう。

 中央諸国連合、その調査官達は、国境沿いの丘の砂地で声を失った。


 アルザス帝国と隣国のアルムナ王国の戦後処理、その調停に必要な情報を集める為に、彼らは派遣されていた。


 おびただしい数の兵士の死体。


 そのほとんどが原形を留めていない、異様なその現場に、若手の数人が吐いている。


 雨水にすら飢えた、乾燥した黄土色の砂地の景色が、今はどす黒くペタペタとした汚泥へと変貌していた。

 アルムナの領地、その国境付近で戦いは繰り広げられたのだ。


「─── これは……全て、アルムナ兵ではないか」


「報告によれば、アルムナの死者二千三百、生存者は逃げ戻ったわずか百五十。重軽傷者、捕虜は無し。

アルザスに損害無し─── だったかと」


「……どんな戦いをすれば、そうなると言うのだ?

『重軽傷者、捕虜無し』とは、単に逃げた者以外はと言う事であろうに……」


「これは……これは、倫理として……うぶっ」


「オイッ、現場に吐くんじゃない! 現状維持に努めるんだ。倫理だと? そんなものは私達には無用、結果を見るのだ結果を」


「─── ここの将官は何をしていた?

兵力の三分の二も失えば、その場で敗北だと、教わりもせんかったのか……。

この開けた土地で、どうすれば数パーセントの生存者しか残さぬ、殲滅戦になるというのか」


「……それ以前に、何故これ程の激戦が必要であったのか? 未開の蛮族でもあるまいに」


  戦は単に攻め滅ぼすだけのものではない。


 特に二百年に渡って、和平を築いて来た中央諸国にとって、戦争とは外交の最終手段である。

 だからこそ、もし開戦となったとしても、示威しい行動の延長線上にあり、致命的な損害を生む前に停戦に流れるはずであった。


─── 二日ほど前、小国アルムナがアルザスの領地を侵犯、即座に交戦となった


 わずか半日の闘いの末、アルムナ側の降伏宣言により、すでに事態は戦後処理へと進んでいる。

 アルムナ侵攻の動機は、表向きは土地問題と、関税による摩擦だ。


 ……単なる二国間の小競り合い程度にしか、なるはずのない理由である。


 しかし、アルムナ側からは近代外交のセオリーとも言える、警告発表も、中央諸国連合への介入申請もなかった。

 文明国家として、余りにも唐突な戦争としか、言いようがない。


「─── これをどう調査しろと……?」


「私にそれを言われましてもねぇ。まあ、お互い国に報告できるものを、まずは見つけるしかないでしょうなぁ」


 連合会議の調査とは言っても、その人員は各国の代表が派遣され、その報告をそれぞれ持ち帰り調整の上で連合に報告するというもの。

 つまりは、事実よりも、各国の都合の良い方向に流れていくものである。


「……その持ち帰るべき要素が、こう荒れていては、掴みようがない。

この一方的な殺戮に、我が国が、どんな旨味を見出せと言うのか……」


「さあ? それはお上の考える事。

精々、我々下っ端は、お互いの首が飛ばぬ報告を、見つけ出すしかありませんよ」


 起きた事実の報告ではない。

 そこにある内の、どの事実が国益となるかを考え合う場なのだ。


 連合とは、単に『仲良くしましょう』の会ではないと、一定の上級国民であれば、各国のどこに置いても常識である。


─── だが、今回は調査団の誰もが、その惨状に困惑していた


 すでに遺体の多くは、野生動物や魔獣に食い荒らされている。

 冬だから良かったものの、夏であれば異臭とハエの群れに、吐き戻す者も多かっただろう。


 と、ひとりの調査官が首を傾げて、何度も書面と風景とを検め直していた。


「どうかされたのですか? 貴殿は確か……南方諸王国ベルタのキーファー殿でしたな。

何かお気付きの点でも、ございましたかな?」


「ああ……いえ、ちょっと考え難い事が……」


 いぶかしげに書類を見つめるキーファー調査官の元に、部下数名が近づいてメモを手渡した。

 それを確認して、彼は頭を抱える。


「一体どうしたと言うのです? 我々は調査団、こう言う時ほど、皆で協力してですな……」


「わはは、そなたは単に、他人の調査結果が欲しいだけであろうに!」


「「「ははははは」」」


 陰惨な戦場跡に、調査団の笑い声が木霊した。

 国家間の戦争は無くても、小競り合いは起こる。

 彼らはすでに、死体に慣れてしまっているのだ。


 そして、そこに倫理感などは、ただ仕事を遅らせるもので、美徳は任務遂行に求められる。


 頭を抱えていたキーファー調査官は、溜息をひとつ、今判明した事実を告げた─── 。


「……ここにある死体の数が、報告の数の半分にも……満たないんですよ」




 ※ 




「─── ではローフィアス殿、先のアルムナ王国ハーリンド丘の戦、あれは侵略ではなく撃退であった。

それがアルザス帝国の主張。相違ないか?」


 アルザス帝国皇帝ハーリアの右腕とされる男、宰相ローフィアス・ファーレン・ジニア。

 北部民族の特徴的な、彫りの深い造形の顔に、太く高い鼻。

 後ろに撫で付けた、オレンジがかったアッシュブラウンの髪とつながる、豊かなあご髭。


 煌々こうこうと光る、赤味のさした灰色の瞳。


 文官と言うには余りにも大きな体躯たいくを誇り、眼に宿る光の鋭さは、死線を幾度も越えた叩き上げの強者そのものだった。


「─── その通り」


 ただ一言。

 しかし、その大きく構えた風格ある体から、明確に告げる低音の声に、それ以上ない説得力を持たせた。


─── 中央諸国連合会議


 シリルの西に位置する、中央諸国連合の運営する中立都市ワルテラ。

 今、そこに証人として呼ばれた男の一声で、中央諸国の重鎮達が、明らかに動揺していた。


「先のローオーズ領ホーリンズでの出兵も、国際的なテロリストの捕縛に、条約に則って踏み切ったと主張しておられたようだが」


「そうだ。

だが、その一件については、話がついている

そして、アルムナの件も先程決着した。諸国連合会議で議決した議題は、物言いを入れる事は、禁じられていたはずでは?」


「……物言いではない。

確かにアルザスの主張は、条約に則った正当なものであると、私個人もそう思う。

─── しかし、大国の横暴だとする者も、ちまたには増えておるのだ」


 議長の言葉に、ローフィアスは肩をすくめ、真っ直ぐに見つめ返した。


「議長、それは我が国への非難かね?

私はここに、他国からの侵犯と、その交戦に掛かった損害。その当事者たるアルムナ王国との、協議の為に参じたつもりだ。

そして、それらはアルムナ側とも納得のいく結果が出ている。

我が国がとやかく言われる筋合いはない」


「非難では……ない。

これは個人の裁判では無いのだから。

ただ、余りにもアルムナ王国の被害が大きく、やり過ぎだったのではないかと、諸国連合として確かめておるのだ」


 調査団の報告によれば、関税の交渉が決裂した後、アルムナ王国は突如兵を立て中央アルザスからその領内へと進軍させた。


 即座にアルザスはこれに応じて派兵。


 アルザス領内で開戦の後、アルムナ王国は後退しつつ、その手を止める事は無かった。


─── 結果、アルムナ王国領、国境付近のハーリンド丘までに、二千三百もの犠牲を払う戦いとなった


 アルムナ王国側は、その事実をすでに認め、関税に関する条件の許容も含めて、賠償に応じると宣誓している。

 両国間の協議は決着しているものの、中央諸国会議は、その異様な紛争の内容に疑問を呈していた。


「当事者同士が解決したと言うのであれば、その争いに悶着するつもりはない。

しかし、この戦いには、余りにも疑問が残る点が多過ぎる!

─── 中央諸国の安寧をかんがみれば、たった半日の間にひとつの戦争が起き、二千三百もの犠牲が出ている事自体が問題なのだ」


 最後に中央諸国で戦争が起きたのは、実に二百年以上も前の事である。

 しかし、この短い期間にアルザス帝国は、ローオーズとアルムナ、ふたつの国と交戦し打ち破っている。

 そのどちらも、速やかに賠償と謝罪に応じ、紛争の顛末てんまつが滲む程の、早期解決となっていた。


─── ここに何らかの密約があった事は、疑われても仕方のない事だ


 そこに開戦の原因となる問題が起きた事は確かだが、取ってつけたようにも見え、また解決の速度が速過ぎる。

 まるで戦争が起こり、集結するまでが、予め描かれていた事のような不自然さ。


「アルムナ王国とて、四百年の歴史を持つ国家、その軍がこのような無謀な失態で兵を壊滅させるとは思えん。

……何故、逃亡した百五十の兵しか生存できなかったのか、この調書からは見えて来ぬのだ!」


「…………」


「それにだ、如何に強大国アルザスとは言え、中央アルザスの端から、アルムナまで戦いながら進んだ。それで半日での決着とは、余りにも速過ぎる」


 諸国の重鎮が騒めく。

 余りにも取って付けたような、この騒動に疑問を持たぬ者などいない。

 しかし、それを真っ向から責める事を、どの国もしようとはしていなかった。


 それは余りにも、アルザス帝国という存在が、巨大なものだからである。


 軍事力もさる事ながら、経済的に支配している国は、マールダー全土に点在している。

 膨大な数の特許、高水準の技術力、そして『栄光の道』を始めとした貿易ルートの使用権。

 アルザス帝国は、中央諸国のみならず、マールダー全土で大きな依存を生み出していた。


─── 誰が表立って、対立しようとするものか


 だが、議長がアルザスの動向に、深く立ち入ろうとするのも、ただの無謀とは思われてはいない。

 最近のアルザス帝国の動きは、余りに軍国化に性急であると、誰もが不安視しているのだ。


 中央諸国連合の議長とすれば、この問題定義は、国家間で直接言いにくい事を叶えた勇気ある仕事である。

 それまで静かに目を閉じて、議長の言葉を聞いていたローフィアスは、フッと口元を緩めた。


「何故、アルムナが撤退も、投降もせずに、わずか半日で敗北するに至ったか。

それをここで我が国から公表するのは、彼の国の名誉を、著しく下げる事にはならんかね?

……戦場とは、何が起こるか分からぬものだ。

─── それはを守る国として、戦を見つめ続けて来た我々だからこそ言える」


 魔界への盾。

 永く続いた平和がそのアルザスの存在意義を薄れさせているものの、勇者伝によって広められたその意義は、人々の根底に刻み込まれている。

 それはこの議長も同じ事だった。


 だからこそ、ローフィアスの敢えてのこの宣言に、皆が口をつぐむ事となった。

 ローフィアスは、ゆっくりと各国の代表者達を見回し、雄々しく胸を張って語る。


「では、我々が如何なる戦術で、短期終結に導いたのか。それも、我々の軍事機密に他ならない」


 会議場の片隅で、南方諸王国ベルタの代表者と、その調査官キーファーが固唾を飲んで議会の流れる先を注視している。

 帝国に関して、いくつかの情報を得た彼らは、その発表の必要があるかどうかを見極めているのだ。


 もちろん、それはどの国も同じ事で、ここでの発言が如何に優れていようとも、それが世界の流れに沿ったものかが問われる。


 一種興奮にも似た、人々の深い集中の中、ローフィアスは朗々と謡うように声を響かせた。


「世界の調停者─── かつて、我が国を帝国へと伸し上げた、賢公マルコ二世はそう世界に約束された。

しかし、今の世界はどうか? ただ、魔界を押さえるだけで、人々は幸福足り得るか?」


 聖魔大戦以降、世界経済は急速に発展を続けた。

 それは一重に、アルザス帝国の力が大きく影響して来た事も、周知の事実である。


 しかし、時代の流れとは、同じ方向に進めば良いというものではない。

 人は変化する。

 世界は変化する。


 「魔術と学問の普及により、出生から成人までの生存率は、遥かに向上した。

貧困に喘ぐ人々の数は、経済の発展によって、充分とまでは言えずとも、広く富を流せるようにはした。

─── では問おう、この先に待ち受けるは、人類にとって真の幸福か?」


 議場は静まり返る。

 ローフィアスの言う通り、人口は増加の一途を辿り、弱き人々の生活も向上してはいる。


 しかし、世界の誰もが、その事に気がついていた─── 。


「……行き詰まり。ここにおられる各地の諸侯は、そうお感じではあるまいか?

人類は進んで来た。

しかし、方々で頭打ちが起こり、今まで伸びて来たはずの経済も、生存率もここに来て世界的に転落を始めている。

これは幸福ではない、今ここにあるのは─── 緩やかな死、だ!」


 経済に普遍的な成長は、あり得ない。

 それらは新たな技術や、資源の発見でしばしの延命を生む事はある。


 それでも、多くの国が成長して行けば、資源も富も薄まって行く。

 その上、全体的に成熟が進めば、必要とされる富も資源も、等しく需要が下がり供給過多に陥って物の価値が低下してしまうだろう。


 どこかで必ず歪な手立てが求められるのは、最早必然だとも言える。


「……これまでの道に綻びが起これば、不満分子も出よう、異端に走る者も出よう。

世界は地域単位で、富を確保する事に駆り立てられるようにもなり、己が世界の末端の血管である事も忘れてしまうだろう。

血は、巡らなければならない。巡らなければ、やがて全てが腐って落ちる」


 ローフィアスは大きく手を広げて、ゆっくりと間を持たせて、議場を見回した。


「我々アルザス帝国は、常に三百年先を見据えて歩んで来た。

かつて勇者がこの世に示した、勇気と知恵、それを是として、彼の残した希望を担う調停者を名乗ったからだ。

─── 今、世界は変革を迎えようとしている。

いや、世界が望み始めた時、変革が必ず起こる」


 ローフィアスの言葉に、誰もが口を動かす事を禁ずる程の、問題意識の揺さぶりを掛けられていた。


─── 変革……それが今、正に世界に起ころうとしているのだ


 ローフィアスは、関係国の名誉を踏まえ、議長の問いに直接答えてはいない。

 しかし、彼の言葉には、それらの答えのヒントが散りばめられている。


 そして、今回の侵攻には、間接的に『個』として帝国が利を求めての事ではないとも主張しているように聞こえた。


「だが、案ずることは無い。

神々は、苦に対し適切な努力を積み重ねる者にこそ、進むべき場所をお示しになられる。

……近く、それを公布出来る日が来るだろう。

我々はすでにを、掴みかけている」


 静まり返っていた議場に、小さな拍手が起こると、やがてそれは満場の拍手へと変化した。


  会議場の片隅でとある書類を用意していた、南方諸王国ベルタの調査官キーファーは、この流れを前に己の主張を隠す事にした。


─── アルムナ王国の行方不明遺体と、交戦中の不可思議な目撃証言の資料である


 議会の雰囲気は、最早南方の小国ベルタが、どうこう出来る形では無くなっていた。

 彼の持つ資料は、アルザスを責める流れになった時、使う為の材料だったのだ。

 その手筈は、複数の関係国とも打ち合わせ済みであった。


 だが、今やそれはベルタにとって、何ら良い結果を生む為の物ではない。

 だから、彼は主張を諦めた。

 各国の調査官とは、そう言うものなのだ。


 ……たが、しかし……


─── 後にキーファーは、この判断を後悔する事となる


 いや、世界がこの時、するべきであった事を見逃してしまったと、絶望する事になるのだ。

 人類が……アルザス帝国を止められるのは、この時が最後のチャンスだったのだから─── 。




 ※ ※ ※




 ふと目を覚ますと、自分は夜の海に浮かんでいたのだと思った。


 何故そう思ったのかと言えば、独特な浮遊感の中、仰向けになった自分の体が、ゆらゆらと揺れて空を見上げていたからだ。


 寝ぼけているのだろうか?


 空には満月がふたつ、目がおかしいのか、頭が覚醒し切っていないのか……。

 ただ、月明かりに照らされる雲の様子は美しく、ふたつの月の周りに、別々の形で浮かんでいる。


 どうやら、月がぼやけてふたつに見えているのではなくて、本当に月がふたつ存在しているのだとボンヤリ思った。


─── なわけあるか……ッ⁉︎


 跳ね起きると、それは水面ではなく、白く太いロープで組んだ放射線状の床。

 その床が俺の動きで、大きくぼよんぼよんとたわんでいた。


「…………く、蜘蛛の巣……?」


 親指程の太さの糸、あのベタベタする粘着質はないが、紛れも無く蜘蛛の巣だ。

 ようやく跳ね起きた時の揺れが収まるも、風も無いのに、時折ゆらゆらと上下する。


『やあ─── ようやくお目覚めだね』


 巣を揺らして近づいてくる気配。

 ただ、明らかに糸をきしませて歩く音が、二本脚のそれじゃない。

 複数本の脚で、一定のリズムで糸を軋ませる、いやに正確な間隔の歩幅。


 これは巨大な蜘蛛だ。


 捕食される? いや、恐怖心は無かった。

 巣に粘着も無く、ぐるぐる巻きにされてるわけでもなければ、毒で寝かされてるわけでもない。


─── それ以前に、その声には何処か聞き覚えのある、柔らかな雰囲気があった


「……お前…………か?」


「くすくす。嬉しいな、僕の名前、知っていてくれたんだね」


 『石像の迷宮』で最後に見た時とは、だいぶ見た目の印象が違うが、彼に間違いはないようだ。

 

 フワッとした印象の、柔らかなくせっ毛は、体毛と同じ銀色。

 穏やかな微笑みを浮かべる顔は、あの時の落ち窪んだ痩せぎすの印象はなく、思慮深い繊細な青年のそれだ。


 何より、すらっとした上半身を支える、白い体毛に包まれた、蜘蛛の下半身。

 アラクネ族の民は、彼しか知らない。


─── 俺に『蜘蛛の王』の加護を預けた、運命を諦めた守護神、ミトンだ


 彼は俺の前に立つと、目の端に小ジワを寄せて、ニコニコと嬉しそうにしている。

 彼を挟むように、背景には大きな満月がふたつ、ただ煌々こうこうと辺りを照らしていた。


「これは……夢か……?」


『いいや、違うよ。これは君の精神世界、夢ほど浅くなくて、深層ほどは深くない場所だよ』


 精神世界……?

 そう言われて、自分の体を見回してみると、おおむねいつもの俺だ。

 ただ、左腕の肘から少し下から先が、薄っすらと光る透明の腕になっている。


 思う通りには動かせるが、その部分に触れる事が出来ず、手首にはティータニア作、が着いていた。

 角度によっては、腕輪だけが浮いているように見え、何とも不思議な気分だ。


「─── これは……何だ?」


『……ごめんね。身体の事は、起きてから近くの人に聞くといいよ。僕にはちょっと、分からないから』


「ふーん。あれ? 俺って、今、何してたんだっけ……?」


 ふと、自分が現実でどうなってるのか、とんと思い出せない事に気がついた。

 ミトンの言うことには、どうも俺は大変な目に遭って、今は眠っているらしい。


 それも、もうすぐ目覚めると聞いて、妙に安心してしまう辺り、これは現実ではない世界なんだなぁと実感した。


「ミトンは……どうしてここに? 今まで一度だって、現れた事ないのに」


『ん? いや、何度かは会ってるよ。ただ、僕が余りにも曖昧な存在だから、アルは起きたら忘れちゃうんだけどね。

今日はね、大事な話があって来たんだ……。

─── 下を見てごらん』


「……下? …………?

…………うあ……ッ⁉︎」


 蜘蛛の巣の遥か下で、誰かが闘っている。


 そこには、血塗れで倒れる俺とスタルジャ、そして身動きひとつ取れないソフィア達。


 闘っているのはロジオンと─── 勇者ハンネス!

 その近くには、黒いドレスを着た、スキンヘッドの女神が、冷め切った目でソフィアをにらんでいる。


─── そうだ……俺は……


『アル、君たちはね。

─── ハンネス・オルフェダリア……勇者に勝てなかったんだよ……』


 血だらけのスタルジャが見える。


 大事な人を守れない……。

 その事実が腹の奥底に、冷たくえぐりこむ感覚は、刃物が体内を滑っていく感覚に似ていた。


─── 勇者に斬られた、あの時のように


 急に酸っぱい物が込み上げ、俺は嘔吐した。

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