30、あの国は今、どんな状態になっているのでしょうか

「いや、あの、殿下。いくらエルヴィラ様が大事と言っても……それは大事にしすぎでしょう」


トゥルク王国の訪問ための打ち合わせをしていたルードルフは、なぜか腹心の部下、フリッツにそうため息をつかれた。


フリッツが、念のため、ご懐妊の可能性を考慮して計画しましょう、と申し出てくれたので、フリッツにだけと厳重に口止めした上で、その可能性はまだないことを打ち明けたのだ。


非難がましい目で見られたルードルフは、思わず反論した。


「大事にしすぎてはいけないか? どんなに大事にしても足りないくらいなのだが」


フリッツは、手にした書類をルードルフの机に、パサ、と置いた。仕事から離れて発言したいときの癖だ。


「殿下、ここからは友人として申し上げてよろしいですか」


案の定、フリッツは真面目な口調とは裏腹に、ルードルフに、ぐい、と顔を近づけた。

執務机に座っていたルードルフは、その距離のままフリッツを見上げる。


「ああ、なんでも言え」

「賭けてもいいです、今頃エルヴィラ様は悩んでいらっしゃいますよ」


ルードルフは、座ったまま腕を組んだ。


なぜエルヴィラが悩むのだろう?


フリッツはやれやれと言わんばかりに、もう一度大きなため息をついた。


「皇后陛下や皇帝陛下の覚えがめでたいだけあって、皇太子妃様は、真面目で責任感が強く、さらに人望の高い方です」

「ああ、美しいだけではないのだ」

「そんな責任感の強いエルヴィラ様のことですから、いずれその状態を変えようと思われるではないですか」


そうか、とルードルフはそこに思い至らなかった自分の思慮の浅さをすぐに悔いたが、腹心の部下であり、昔馴染みであり、乳兄弟でもある友人のドヤ顔が悔しかったので、顔には出さなかった。

フリッツは、さらに畳みかける。


「殿下のエルヴィラ様を大事にしたい気持ちは、この先も変わらないでしょう」

「もちろん」

「ということは、現状を変えるためには、エルヴィラ様の方から積極的にならなくてはなりません。深窓のご令嬢だった人にはそれは、難しくないですか」

「ぐうむ」


ルードルフは低すぎる声で頷いた。フリッツは続ける。


「さらに殿下、これだけは覚えていてください。男と女の間には、真意が簡単に伝わらない呪いがかかっていると思うくらいで、ちょうどいいことを」

「さっぱりわからない。どういうことだ?」

「これくらい言わなくてもわかってくれるだろう、という甘いお考えはお捨てください、ということです」

「ぐ……なるほど」


ルードルフはまた唸った。


「さすが、結婚六年目となると言うことが違うな」


 恐れ入ります、とフリッツは頭を下げた。こう見えてもフリッツは、情熱的な一目惚れを成就させた愛妻家だ。


「結婚生活も、うまく回すコツというものがあるのです。大事にしすぎるだけでなく、ちゃんと、思っていることを伝えてください、言葉で、ときには行動で」

「……エルヴィラのためによかれと思っていたのだが」

「あ、『よかれと思ってやったんだ』は、相手にとってよくない場合がほとんどなので、特に気を付けてくださいね」

「そうなのか?!」

「はい」




「エルヴィラ様、こちらは準備が整いました」

「ありがとう、クラッセン伯爵夫人」


いよいよトゥルク王国を訪問するときが近づき、わたくしは侍女たちと準備に追われておりました。

ルードルフ様は、あれ以来、同衾してもただ一緒に眠るだけで、その問題もやはりどうにかしなくては、と思います。


そんな心配が顔に出たのでしょうか、クラッセン伯爵夫人が、ふと、声をかけてくださいました。


「エルヴィラ様、どうかされましたか」

「なんでもありませんわ」


そっと笑って答えましたが、クラッセン伯爵夫人には通じませんでした。


「いいえ、何かありますね? どうぞ仰ってください」


わたくしは、今度は心から微笑みました。

クラッセン伯爵夫人はわたくしより八歳年上。頼りになる侍女です。

荷物を詰める手を止めて、わたくしは聞きました。


「クラッセン伯爵夫人は、結婚してもうどれくらいですか?」

「十年です」

「その……参考までに教えていただきたいのですが、クラッセン伯爵に自分の気持ちを伝えるのに、なにか、その、工夫はされていますか?」


質問してから、わたくしは思わず後ろを向いてしまいました。


なんでしょう、この質問は。

わたくしがルードルフ様に気持ちを伝えたがっていることが、お見通しではないですか。


しかし、クラッセン伯爵夫人は、笑いませんでした。わたくしが恐る恐る振り向くと、何かを思い出すように、頷きながら言ってくれました。


「気持ちを伝えるどころか」


何を思い出したのか、うんざりした顔をします。


「結婚生活を始めたばかりの頃は、エドが何を考えているか全然わかりませんでしたわ」

「そうなのですか?」

 

エドとはクラッセン伯爵のことです。わたくしは思わず、聞き入ってしまいました。


「はい。エドは無口なので、何か話しかけても、ああ、とか、そう、としか答えなくて。新婚の頃は毎日イライラしてました。今思い出しても、あれはひどいです」


そんなことを話しながらも、クラッセン伯爵夫人は幸せそうに笑います。クラッセン伯爵との睦まじさが伝わってきました。


「イライラは治ったのですか?」

「はい」

「どのようにして?」

「そうですね……エルヴィラ様に対して、僭越な言い方になりますが」

「お願いします」

「覚えていていただきたいのは、男性の言葉を待っていては、埒があかないということです。彼らは、言葉に重きを置いていないのです」

「そ、そうなのですか?」

「はい、あと、なぜか言わなくても伝わるはず、と重要なことほどなにも言わない傾向があります。これはいろんな方から聞くことです」

「勉強になります……」


さすが独身の頃は社交界の花と言われたクラッセン伯爵夫人です。

でも、それではどうしたらいいのでしょう。


「やはりこちらからあれこれ言葉をかけるしかないのでしょうか?」

「それも一つの方法ですが、男性によっては女性の話を聞かない人もいらっしゃいますのでね……」


なんということでしょう。

わたくしが、どうしていいかわからず黙り込むと、クラッセン伯爵夫人はにっこりと笑いました。


「ですから、エルヴィラ様、妻が心がけておくことは、言葉かけではありません」

「なんなのですか?」

「観察です」

「観察?」

「はい。私の独断ですが、男性の気持ちは、言葉ではなく、態度に現れることが多いようです。普段から観察しておくと、いざいつもと違うとき、それが何を表しているのか、わかります」


もう、先生、と呼びたいくらいでした。

クラッセン伯爵夫人は、艶やかに言います。


「トゥルク王国で、お二人の仲が深まることを願っておりますわ」


わたくしは、ありがとう、とお礼を述べました。


「できるだけ、楽しんできてくださいね」

「ええ」


そのためにも、トゥルク王国が落ち着いた平穏な状態であってくれたらいいのですが。

わたくしはそっと窓の外を見上げます。


あの国は、今、どんな状態になっているのでしょうか。

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