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 4階までのデーモンのボスはすべて滅ぼした。物語の数からするとこの塔に残るのは恐らく2体。

「あと、少しか……」

 もうすぐここの探索は終わる。塔5階の扉に立つと柄にもなく寂寥感が胸に到来してくる。

 大物のデーモンを次々と倒し、おそらくは軍であっても殊勲賞並の活躍をしているのかもしれないが、デーモンの正体が物語の登場人物だと知っている以上は倒したことの喜びはあれど喝采を上げてという気分にはなれない。

「ふん、清々した、スカッとしたって気分になれるのは全てのデーモンを滅ぼしてから、か?」

 呟く。4階を出てからマスクはとっていた。瘴気の濃い環境において清浄な呼吸を可能とするマスクは未だ有効なものだが、呼吸のできない水中でないなら今の俺には兜の方が必要だった。

 倒し方を熟知し始めているとはいえ、ここのデーモンたちの攻撃は非情に凶悪だ。一撃が致命ともなりかねない頭部への攻撃はなるべく防いでおきたい。

 例えマスクによって呼吸が楽になり、清浄な空気でオーラを練ることが可能になろうとも、不意の一撃を減らすことの方に重点を置きたかったのだ。

「いや、俺の注意力が落ちているだけか」

 思えば4階で手に入れられた道具はマスクだけだ。もう少し注意深く探索すれば長櫃の類が見つかったのだろうが、そこまでの余裕が今の俺には存在していない。

 視野が狭まっている自覚がある。リリーのせいとは言いたくないが……。

「いや、すっぱり言っておくか。リリーのせいだな。あいつが悪い。悪いから奴には文句を言ってやらなけりゃな」

 とはいえ、あの娘の生存は絶望的だ。あれが人である前にどうにかしてやるためにも俺は急がねばならない。

 兜を選んだのはその為だ。死鮫はともかく死魚や死貝程度にビビッてマスクを外してしまっているのは、商人のデーモンから受けた傷が未だ癒えておらず、腕や足に鈍さを感じるからだ。

 休息をとっていない身体は未だ癒えていない。この有様ではふとしたことで致命傷を受けかねなかった。

(考えたくないが、俺もだいぶ消耗している。こんな状態でデーモン蔓延るダンジョンを探索など、正気じゃねぇが……)

 この先の危険度を考えるなら、一度きちんとした休息を挟みたいが、俺が戦士である以上は無理と無茶を承知で命を賭さなければならないだろう。

 最も怪我とて貴重なソーマを使えば即座に癒やすこともできる。だが治療手段の乏しい今、あれは致命傷・・・を受けた時の為にとっておきたかったし、何よりこの先を思えば必要な武器・・だった。

「こうして他のデーモンを倒した上で扉の前に立てば、嫌でも理解できるか……」

 扉越しにでもびりびりと感じる穢れた神威しんい。濃厚な攻撃的神秘の気配が隠されることなく無秩序に放たれている。

「言いたかないが――」


 ――これから先には今の俺では確実に勝てない相手が待っている。


 力量も問題だが、聖衣がないことが問題だった。このレベルの相手ともなると強化したとはいえ鎧じゃ無理だ。聖衣でなければならない。相手の攻撃の種類によってはソーマを使う暇もなく即死する可能性が高かった。

 それでも進むなら、命を消耗品のように使うことでしか敵に勝る手段がない。故に、手持ちのソーマ3本、それを全て攻撃手段・・・・として使う。

(命がけのベルセルクが3発。それで殺しきれるか……)

 無理だろう。だが可能性はゼロではない。決意を固める。手のひらを見る。拳を握る。震えてはいない。大丈夫だ。やるしかないならやるだけだ。言い聞かせる。そしてソーマは3本だが4発目は撃てない。


 生きて・・・帰らな・・・ければ・・・ならない・・・・


 呪いを解く手段を手に入れ、リリーに渡さなければならない。

 故にソーマはただの治療では消費できない。

(時間があればな。この程度の傷、肉でも食ってゆっくりと休めば癒せるんだが)

 今の俺にとってはデーモンよりも時間が最も大いなる敵だった。

 俺とて、本当なら傷ついた身体を癒やしたい。手持ちの道具はすべてを鑑定しておきたい。ガタついてる騎士鎧も直したい。英霊の魂の宿った炎剣を整備し、労り、休ませてやりたい。

 退くだけの理由はこれだけある。未だ力量が不足する俺にとって、その全てはこの先、塔5階へ進むなら絶対に解消しておかなければならないものだった。

 息を吸う。吐く。

 背後で螺旋階段の中心の空洞を、扉の前に立つ俺には目もくれず巨大魚が音を立てて通過していく。

「よし、行くぞ」

 鰓の鍵を鍵穴に差し、邪神の信徒の妄想がごとくに邪悪な文様の施された扉を開いた。

 もうすぐだ。もうすぐ塔の探索は終わる。

(最も、この先にリリーを助ける手段があるとは限らないんだがな……)

 しかし、それでも愚直に進むことしか俺にはできることがない。



 幽閉塔5階。入ってすぐに俺は嘔吐えずくように兜の面頬越しに口を抑える。

「ぉえ……うぷッ……なんだ、こりゃ……」

 5階から瘴気の性質と景色ががらりと変わっていた。

 周囲に漂う瘴気から水の性質が消え去っている。浮力は消失し、地に足がついている。また反転もなくなっている。

 目に映る景色の上下のみ・・世界は正常だった。天井を歩くようなことはない。床が天井であることもない。


 ――それでもここは異常だ。


 足から伝わる久方ぶりの床の感触に一瞬だけ小さな喜びが湧き上がるが、喜びなんてそんなものこの場にいるだけで跡形もなく消し飛んでいた。

 心が正常でなくなる。この場にいるだけで強い穢れが肉体を冒そうとしてくるのがわかる。

 呼吸が荒くなってくる。俺の心が大きな恐怖に塗りつぶされる。

 周囲に満ち満ちている瘴気には神威が混ざっている。まずいと危機感に肉体が怯えている。尋常でない世界に身体の奥底から震えが湧き上がってくる。

「糞、糞、糞、対面すらしてねぇのに恐ろしいって思えるのは幸福なのか不幸なのか……」

 罵倒にすら力が入らない。

 なんなんだここは。嗚呼ああくそ畜生ちくしょう。思ってはならないことを俺は思っている。


 ――絶対にこの階のボスデーモンには挑みたくない。


 恐怖に肉体が萎えている。剣を取り落としそうになるのをあと一歩のところでバラバラになりそうな精神がこらえている。

 先ほどの決意の全ては折れて砕けて欠片も残っていなかった。辺境人である俺がデーモンと出会うことを恐れている。

 道具の不足。肉体の疲労と負傷から来る弱気。そんなものじゃない。ただただこの場にいることが怖い。恐ろしくて仕方がない。

 この場の空気は湿っていた。しかし毒々しく狂っている。漂っている瘴気の全てがおぞましい。ここに生き物がいることを許していない。

 この場にいるだけで俺の魂には恐怖を刻みつけられていた。この世界に顕現してはならないもの・・がここにはいるのだ。命を賭してでも絶対に滅ぼさなければならない怪物・・がいるのだ。

 しかし身体は動かない。

 まるで王妃の前に立った時のようだ。

 まるで狩人の記憶を流し込まれた時のようだ。

(気配だけで壊れる。見るだけで狂う。言葉を聞くだけで殺される。そういう存在がこの奥にいる)

 嗚呼ああ畜生ちくしょう

 周囲には何もいない。そうだ。目の前にはデーモンすらいないんだぞ。それでも、ただ気配を感じるだけで身体が子供ガキが如くに怯えてやがる。

「それに、不気味だ。なんだここは……」

 周囲の景色もまともではなかった。神代の神殿がごとき、闇色で、艶めいていて、腐った魚のような生臭い臭気を発する石造りの通路。

 壁に描かれているのは見るだけで人の心を犯す冒涜的な壁画だ。狂った魚と狂った海、人が無残に殺され、捧げられる様が描かれ、捻れて歪んでいる。害悪と形容することすら生ぬるい膿んだ造形。

 目に映るそれらはただそれだけでこの先にいるのが海洋神の血を引く堕ちた何か・・だという確信を俺に抱かせた。

(やはり王族が元となったデーモン……)

 これだけ禍々しいのはどうあっても堕ちた神の要素を持つデーモンに他ならない。デーモン。デーモンか? 考えたくない思考を拒否感で否定する。デーモンから邪神の一柱にまで昇格しているとは考えない。考えたくない。過小評価は危険だが希望的観測をすることでしかこの場に立っていられる勇気を絞り出すことができない。

 邪神を殺すだと。以前の俺を内心で罵倒する。なんて現実の見えていない浅い思考だ。こうしてこの場にいるだけで死にかけているというのに。

 それでも進もうと、リリーを救うならそうするしかないのだと信じながら足を踏み出そうと――

「――ッ……!!」

 奇妙な音に恐怖に震える肉体が過敏に反応をする。不気味に湿っている通路の先から気配がしたのだ。ぺたぺたと何かが歩く音が鋭敏になっている耳に届く。どくんどくんと過剰に響く心臓の音に紛れ、ぺたぺたと。ぺたぺたと音が届く。

 身体は震えるが、戦士の本能は健在だ。未だ戦闘の態勢すらとれない肉体。それを絞り出した闘争への意思でねじ伏せ炎剣と騎士盾を構える。

「……なん、だ? 何が、いる?」

 口にした言葉が震えている。

 視界は悪く無い。親切にも壁には松明が差されているからだ。闇色の通路は赤々とした炎に照らされている。奇妙にてらてらと薄気味悪く光る幅の狭い通路が目の前には広がっていた。

 光源があるのはこの場においての唯一の幸運というべきだろうか。

 ただ、奇妙なことはある。通路の壁に一定間隔で松明が差されているように見えるのだが、俺を中心とした一定の距離よりその先が闇に切り取られたように光が届かなくなっているのだ。

 実際に通路の先を見れば、壁に差された松明が不自然に奇妙な角度から抉られている。松明が実際に抉られているわけではない。俺の視界を阻害する為だけに、光すら飲み込む闇がそこから先に広がっている。

 震える足を少しだけ先に進ませれば俺の動きに応じたように真っ二つだった松明が輪郭を取り戻していった。だが、松明の炎が先を照らすことはない。如何に光源があろうと、俺の歩みに合わせてしか炎は闇は払われない。

(死鮫が、懐かしくなってきた……)

 吐けば逃げ出したくなるが、弱音を吐きたくなっていた。この場にいるより死鮫の前に立った時の方が億倍マシだった。

 不気味さが身体を悪寒となって震わせる。

 闇の先でぺたぺた、ぺたぺたと何かが歩いている。音は複数だ。ずるずる、ずるずると何かが這いまわる音も聞こえてくる。

 正体のわからぬ不気味な気配。鎧越しに肌をびりびりと刺す瘴気の狂気。奮い立たせた心が早くも折れそうになる。地上に帰りたくなってくる。

「糞、畜生。行くぞ。行くしか無いんだよ俺は」

 情けないことに、発した声は自然と小声となっていた。

 肉体が理解しているのだ。この場は自身の力量を遥かに超えた修羅場だと。それでもそれしかないから足を動かす。盾を構えながらじりじりと歩く。まるで自分が初陣の戦士になったような気持ちだった。久しく感じていない戦うことへの、敵と出会うことへの恐怖が心に溢れていた。

(埒が明かねぇぞ。ここは薬を使うべきか?)

 そうだ。手持ちの薬を混ぜて服用すれば恐怖を取り去る薬を作ることができる。あの王妃のように、出会うだけで恐怖に身体が硬直するようなデーモンがいるとわかった時から再びあれらのデーモンと戦う時の為に用意していたものだ。

(だが探索がどれだけ続くのかわからない以上は、薬を用いての探索は危険だ……)

 薬を用い、恐怖を麻痺させると致死性の高い攻撃への対処ができなくなる。それは薬を用いる以上は避けられないことだ。危険を忘れた肉体があらゆる攻撃を無防備に受ける危険性がある。

(それに、依存はまずい)

 そうだ。いるだけで恐怖で動けなくなる場を探索する以上、常に薬を使い続けていなければならない。薬が切れれば再度の服用。何度でも。何度でもだ。それは、どうやっても肉体と精神に戦士の薬への依存を生む。使い続けることになる。終いには薬がなければ動けなくなる身体になる。そして、そうなれば探索の途中だろうと薬の枯渇と俺の終わりは同義になる。

(ソーマを使えば薬に堕落した肉体を癒やすこともできるかもしれないが……精神はどうなる?)

 壊れた心は神の薬でさえ癒せないかもしれない。それに、ソーマはボスデーモンと戦う時の為のものだ。この場での使用はそもそも考えていない。

 加えて言うなら戦士にとって戦士の薬を使うことは恥ではないが、薬なしで戦えない戦士は死んだほうがいいぐらいに恥だ。

(使いたくないが……糞……)

 揺れる視界が、震える手を見る。震える足を見る。情けなさに心が震える。噴飯物の惰弱さだ。

 それでもこの先には敵がいる。なんとか絞り出した怒りと戦意で震える身体をじりじりと進ませていく。

 不可解な闇によって数十歩先の視界は不明瞭だ。それが俺を赤子のように怯えさせる。糞。糞。糞。俺が恐怖に震えようとぺたぺた、ぺたぺたと音は近づいてくる。俺も歩いているから敵へと近づいている。

 ぐ、糞。なんだ。俺はなんだ。畜生。戦士だ。戦士だろ。戦士なんだよ!!

 情けない。情けない。情けない。情けない。この!! 情けねぇぞ!!

「ええい! 糞! 畜生! 馬鹿野郎! 糞野郎!! ああああああああああ!! どうにでもなれだ!!」

 気づけば叫んでいた。身体は震えていた。それでも心が猛っていた。俺は戦士だった。

 叫ぶ。敵に気づかれようが知った事か。精神を高揚させろ! 走れ! 走れ! 敵へと向かえ!!

 辺境の戦士の心得!! 敵がいるならぶっ殺せ! だ!! この馬鹿野郎!!


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