088


 ――そうして記憶は再生される。


 姫は混乱していた。

 街が燃えている。

 邪悪デーモンどもが溢れている。

 神聖なる神殿領域に侵入し、人々と殺しあっている。

「ああ……なんで……こんなことに……」

 姫は混乱していた。

 才気溢れるとはいえ、未だ成人すらしていぬ若き姫では受け止めることができそうにないほどに状況は混沌としている。

 彼女の視界では、世界は悪意と憎悪を煮詰めに煮詰めた鍋釜のような様相を呈している。

 たった一日前までは平和だった世界が、一転して血と悲鳴と屍体とデーモンの世界となってしまっている。

 それに加えて、忠誠を誓っていた筈なのに、裏切り、襲いかかってきた農夫と市民の2人の男。

「どうして……なんでなの……農夫ガーラント。市民エルメス。ふたりとも立派で、いい人たちだったのに……」

 富農ガーラントは周囲の村の顔役とも言える男だった。王国に従属した辺境人の中でも熱心な王国派であり、父王が辺境の様子を知りたい時には必ずガーラントが帝都に呼ばれるほどに影響力を持っていた男でもあった。

 またガーラントはゼウレを信奉する辺境人の中でも一際熱心なゼウレ信徒の一人であった。

 それ故か主神の血を引く王族には並の辺境人より深い忠誠を誓っていた。

 エリザも朴訥な人柄ながらも深い知性と武を持つガーラントには深い信頼を寄せていたし、ガーラントもエリザに対し次代の帝国を担う王族に対する忠を以って接してくれていた。


 筈だった・・・・


 あの日々は幻だったのか、と言えるぐらいにすべてはあっけなく終わった。

 この未曾有の混乱の中、姫を守る為と神殿に入ってきたガーラントは短刀を手に姫に襲いかかってきたのだ。

 武に優れる辺境人。村々の顔役である男が並の腕であるわけがない。押し留める神官たちを無力化したガーラントはデーモンどもに振るうべき武を、あろうことか姫に向かって振るおうとしたのだ。

 農夫ガーラントは、殺意を以って、全力で真正面から姫を殺しに来ていた。

 それも失敗に終わる。

 農夫ガーラントは、この事態でも姫から離れずにいたアルファズルによって斬り殺された。しかし、高位の大陸騎士にも匹敵する体術により苦戦を強いられたアルファズルと姫は彼により誘導され、再びの襲撃に遭遇した。

 まるでデーモンに追われた市民のような風体で剣を持ち姫に擦り寄ってきた男。

 それが市民エルメス。大陸より辺境の大神殿に移住してきた国を憂いる市民の一人……だった。

 何を考えていたのか。市民エルメスもまた姫を害そうとした一人であった。しかし彼もまたアルファズルによって首を落とされ、死んだ。

 死んでしまった。

 何故、どうして、そんなことはいまさらだ。王族を襲うなどあってはならないことだ。殺されて当然だった。

 しかし国を憂いるだけの彼が何故あんなことをしたのか。手で顔を覆う幼い姫は小さく疑問を口にしながら、いや、それよりもと絶望的な視線で乗っている馬車より外を見た。

 馬車はあの混沌とする街を突破し、街門より外に出ていた。

 黒の森とは反対の街道を疾走する馬車。逃げ出せた人はいないのか周囲には人影一つ見えない。

(違う。ここに住む人はデーモンから逃げないのだわ……みんな神殿を、信仰を守る為に戦っているのね)

 理由があるとはいえ、まだ皆が戦っているのに逃げてきてしまった。恥ずべき気持ちを心中だけで押し殺しながら、ひとまずの安全を姫は確かめていた。

 ここは混乱する街中で下等なデーモンを退けながら、ようやく捕まえた馬車だ。

 それはエリザの知己の商人バーナードの持ち物であり、御者はそのバーナードであった。

 バーナードには悪いことをしている、とエリザは顔に出さず心の中だけで悔やむ。

 彼とて神殿街に妻子がいるし、店もあるというのに、身ひとつで逃げる自分やアルファズルに付きあわせてしまった。

 数少ない知己であるバーナードに事情も話さず、ただただ逃げる手伝いを頼むエリザとアルファズルに不審を覚えなかったはずがない。しかしバーナードは、若いころは行商で鳴らしたものですと二つ返事で逃走を請け負ってくれた。

 彼は商人だ。店も財産もあの街にあるのに、すべてを放り出して逃げるなど許しがたいことであっただろうに。

 王族の義務としても、一人の私人としても、せめてこの事態が打開できたら彼には相応に報いなければならない。

 だけれど、と姫は思う。

「もう、終わり・・・なのかしら……」

 この帝国は、と続けることこそなかったが、その唇は恐怖に震え、言葉を発するのを迷うように小さく閉じて開いてを繰り返した。

 大変なことになってしまった。あの混沌とした街にまだ父も母もいるのだ。

 あのまま父も母も死んでしまったなら……。いえ、そもそも。


 なぜ・・自分は・・・逃げて・・・いるのか・・・・


「姫」

 姫の真正面に座る騎士アルファズルは、姫が口にした世迷い言に対して強く否定の言葉を発した。

「姫、そのようなことはありません。我らの帝国は永遠です」

 迷いのない言葉。いつもならば信じられるその言葉だが、今の自分が誰の言葉を信じれば良いのかエリザにはわからなくなっていた。

 そうじゃない、と姫は内心で首を振る。

 まだ終わっていない。こうして商人バーナードや騎士アルファズルが助けてくれている。父や母が死んでいたとしてもまだ自分がいる。ならば自分がしっかりしなければ。

 彼らが信ずるに足る君主として立つのだ。

 まだ何も終わっていない。

 姫は何かと用意の良いバーナードが馬車に置いてくれた香草と蜂蜜入りの水をこくりと飲んだ。香草には気分を落ち着かせる効果があるのだろう、荒れた心がほっこりと暖かくなる。気分が落ち着いてくる。

 アルファズルにも勧めれば彼もこの事態で水の一滴も飲んでいなかったようで、ありがたくと少しだけ口に含むのだった。

 蜂蜜水に口をつけたアルファズルが少しだけ眉をひそめたが、エリザはとにかく先のことを考えなければと口を動かす。

「とにかく一度帝都に戻りましょう。本国の騎士団を呼び――いえ、それよりも先に辺境の諸部族に援軍を要請した方が速いかしら?」

「あ、はい。そうですね。神殿のデーモンを駆逐するにも事態を正常に収めるにも人手が必要です。とにかく近くの砦まで向かい、各所に連絡、を――ごほッ」

 瞬間、信頼に足る筈の騎士の顔が驚愕に震えた。咳き込むように口元に手をやった彼は手のひらに広がる赤色を呆然と見ていた。

 アル? とエリザは首を傾げ、次の瞬間には無双の騎士は憤怒の声を上げていた。

「バァアアアナァアアアアドォオオオオオオオオオオ!! 貴様ぁぁあああ! 裏切ったなぁああああああ!!」

 怒声に悲鳴を上げる姫。しかしアルファズルは憤怒に侵されなお冷静であった。叫びながら彼は小さなエリザの身体を片手で掴み、馬車の扉を蹴破っている。

 アルファズルの超常の筋力で蹴り飛ばされた馬車は横転し、商人バーナードは悲鳴を上げながら倒れる馬車に巻き込まれていく。

 未だ商人の裏切りを信じられぬエリザが助けてあげてと叫ぼうとした瞬間。姫の目の端に何かが映る。

「ぐッ! けられていたか!!」

 アルファズルが空中を蹴って体勢を整えると、腰の銀剣を瞬時に閃かせていた。

 光? 否、それは刃だ。使い手もいない大量の剣が空中にいる姫とアルファズルに向けて空を飛ぶ鳥がごとく襲いかかってきたのだ。

 遠く赤々と燃える神殿街の炎を照り返し、妖しく赤く光る襲撃者の剣刃。それをアルファズルは常人を遥かに超越した剣捌きにより弾き返す。

 しかし襲撃はそれだけに留まらない。

 刃に次ぐ刃。アルファズルがことごとくを弾こうともその数は次第に増えていく。10を超え、30を超え、50を超え、100を越える刃の群れがアルファズルへと襲いかかる。

 ただびとならば捉えきれぬほどの斬撃の海。

 しかし銀の剣を持つ護衛騎士は口の端に血を滲ませながらも涼し気な顔でそれらを捌き続ける。

「あ、アル! だ、大丈夫なの!?」 

「姫。ご安心を。しかしながら息をしばらく止めてください。――刃の欠片を吸わぬように」

 それもあるが、それだけではない。(アル。その口の血は、だいじょうぶなの?)しかし、疑問を考えこむ時間は与えられない。現在進行形で襲われている今、最愛の騎士に対する心配を心中に押し留め、言われたことは守らねばと息を止めるエリザ。

 彼を案ずるなら、我儘を言ってはいけないのだと賢い姫は心得ていた。

「姫。少しのご辛抱を」

 エリザが呼吸を止めたことを察したアルファズルは一呼吸すると銀剣を握る手に力を込め、呼吸。剣を、『構え』、一閃。

 エリザがアルファズルの腕の中で息を飲む。

 刹那、意思持つ100を越える刃、刃、刃。そのすべては微塵と砕け散っていた。


「流石、無双たる銀剣だ!」


 拍手の音。しかし同時に再び襲い掛かってくる意思持つ浮遊する刃。それを銀の剣で再び弾きながらアルファズルはその男を厳しい視線で睨みつけた。

 一体どういう理屈なのか。襲撃者の男の周囲には剣、斧、槍、暗器……無数の刃のついた武器が浮いており、それらはまるで意思を持った生き物がごとくに姫たちに襲い掛かってくるのだ。

 それはこうして襲撃者と対面した今もである。意思持つ刃は姫を抱えるアルファズルへと次から次へと襲いかかり、銀剣を振るうアルファズルの逃走を許さぬようにこの場に縫い止めていた。

「やぁ、アルファズル。姫を連れに来たよ」

「ザルカニウス! 姫は渡さぬぞ! この裏切り者め!!」

「酷いなアルファズルともよ。むしろこの混沌たる事態を収める為にも姫が必要なんですがね?」

 おどけたようにやれやれと両手を広げる長身の優男ザルカニウス。片や姫を抱え苦しそうに銀の剣で無数の刃を弾き返す超越たる剣士。

 ああ、と姫が絶望の吐息を漏らした。

 この男には、見覚えがある。いや、今までの農夫や市民などと比べれば、よくよく見知った相手であった。

 なぜならこの男は父の腹心の一人で、エリザが生まれた頃からの付き合いでもある帝国諸侯の一人でもあるのだ。

 大陸全土を治める大帝国チルド9の大公爵の一人にして、大陸全土に武名轟くチルド9聖騎士たちの頂点4騎士が一人にして、千を越えるデーモンどもを切り刻んできた戦場の暴魔。

 曰く『蟷螂の騎士』曰く『操刃』曰く『刃の災禍』曰く『ブレイドストーム』そして王より賜った名こそが『聖刃大公ザルカニウス』。

 それは、その姿は、まさしく考えぬようにしていたことだ。

 それでも賢く、意思強き姫は現実から目を背けずそれを口にする。

「お、お父様は。やはり私を」

「姫! 考えてはなりませぬ! 今は私を信じて、そのことはッ」

 アルファズルが姫の考えを押し留める言葉を発しながら銀の刃を振るう。そんな忠義の騎士をやれやれと呆れたように見るザルカニウスは『収納』の聖言の掛かったマントよりずるりと10を越える刃を取り出し、如何なる魔技かアルファズルに向けて発射する。そうして主従の会話を遮ったザルカニウスは姫へと穏やかに微笑んだ。

「何故逃げようとなさるエリザベートひめ様。今こそ貴女の役目を果たす時なのですよ」

「い、いや……私……私は……」

「姫! 姫! 考えては! 考えては!!」

「王はあれを貴女の役目と決めていた。我々騎士もそれを支持した。そして、こうして貴女を連れに来た」

「わ、私はッ。私はそれでもッ!!」

 姫の抵抗の言葉。すっと手の平を掲げることで押し留めるザルカニウス。このような場であっても彼の騎士の仕草には妙な気品があり、まるでここが舞踏会か何かの場であると勘違いしてしまうような艶のある所作。

「姫。民もそれを望んでいます。見なさい。彼を。あの商人を」

 ザルカニウスが示す一点。刃を弾くことに精一杯のアルファズルの腕の中で、ゆっくりとエリザは振り返る。

 それは横転した馬車だ。そこから小さく血が溢れているのは、横転した馬車に巻き込まれて商人バーナードが死んでいるからに他ならない。しかし商人の死には全く触れず、ザルカニウスはただ言葉を継ぐ。

「彼がここに貴女を運んできました」

 嘘よ、と姫が呆然とつぶやく。嘘ではありませんよとザルカニウスは言葉を重ねる。姫! 耳を貸してはなりません! とアルファズルが叫ぶ。

 しかし、姫の心は強いが故に、現実から目を背けられない。

 ああして頼み込み、逃走の手助けを快諾してくれた気の良い商人が、裏切っていたなど……。

 ザルカニウスは穏やかに笑っている。彼は賢い姫を説得などしない。彼は姫が賢いことを、意思が強いことを知っている。

 だから、ただ穏やかに事実だけを語っていた。

「姫。彼のアルファズルが、こうしてここに留まっている理由がなぜか。常ならば私の剣刃嵐雨など口笛混じりに切り抜けてみせる彼が。王直々に『無双たる銀剣アルファズル』の名を授かった彼が、なぜ、こうして私ごときに押しとどめられているのか」

 ごときと言うが、100のデーモンを指の動き一つで葬り去れるザルカニウスとて尋常たる使い手ではない。しかし、それを子供扱いするのがエリザ姫につけられた護衛騎士たるアルファズルであったはずだ。

 それをエリザは知っている。

 アルファズルがけして誰にも負けぬ最高の騎士であることを、姫は知っている。

 王が、一番大切・・・・な姫・・に、毛ほどの傷も付けぬようにとつけられた守り手こそが彼なのだから。

 呆然と姫がアルファズルを見上げる。刃の群れを弾き返す不動の騎士アルファズルは、しかし何も応えない。

 沈黙こそが答えなのだと姫は理解している。

 ザルカニウスがにこりと笑う。

「商人バーナード。彼がアルファズルに毒を盛りました。神族たる王族には効かぬ毒ですがね。ただの人たる彼には覿面てきめんでしょう」

 アルファズルの口からは、未だ血がこぼれ続けている。

 まるでお腹の中身を壊されたようだとエリザは思ってしまう。

 それを為したものも、賢い姫ならすぐに思い当たってしまう。

 バーナードが用意した蜂蜜入りの水だ。そして、あれを飲んだ直後にアルファズルが事に気づき叫んだのだとすれば……。

 確かに、姫は裏切られていたのだ。

「なんで。私を、連れていくの?」

 姫の呆然とした言葉にザルカニウスはさぁ、と手を差し出す。

「理由を知っているから逃げたのでしょう? ともあれ、もはや姫様の手を借りる以外に道はありませぬ。なにしろ始めた我らとて事態を収めるにはもはや姫の力を頼る他ないのですから」

 ですから、さぁ、と差し出すザルカニウスの手を、小さく首を振りながらエリザは眺めていた。


 ――せめて……人として……終わりたいのなら。


 それは誰の言葉だったか。

 いえ、もはやすべては遅かった。

 猛毒に侵されたアルファズルが血を吐き怨みの言葉を叫ぶ中、逃げる場所もないエリザは絶望に身を浸すよりほかになく。

 黒の森の方向に目を向けたザルカニウスが「あれは私ごときではどうにもなりませんなぁ」と微笑んでいた。



 ――そして、記憶は終わる。


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