第22話 暗闇
「お帰りなさい」
出迎えた母に泣き顔を見られないよう、ケイシは俯いたまま、急いで靴を脱いだ。診療所には明かりがついている。父は、まだ診療所にいるようだった。
「お父さん、今日、診療の合間に試合、見に行っていたのよ」
2階に上がろうとして、ケイシは足を止めた。父が来ていたなんて思いもしなかった。そんなことは、はじめてだった。きっと、確認しに来たのだろう。息子がどんな風に、自分と向き合っているのか。
「どうせ出られなかったんだから、来なくてもよかったのに」
目を合わせなくても、母の表情がどんどん曇っていくのがわかった。ケイシは、そのまま母の顔を見ることもなく、2階へ駆け上がった。自分の部屋に飛び込んでドアを閉めると、部屋の中は真っ暗だった。まるでその世界は、今のケイシの心の中と同じように思えていた。
父はあの時、ベンチに立ち尽くしていた息子のことをどう思ったのだろうか。情けない息子を持ったと、きっと呆れているに違いない。だから塾に通えと言ったじゃないか、顔を合わせれば、そう言われるに決まっている。倒れ込むように、ベッドに横たわる。ポケットからは、スマホの振動を感じた。取り出してみると、ダイチとユウマから何度も着信が入っていた。すべてを吐き出してしまえば、すっきりするだろう。そう思っていたはずなのに、ハルトの捨て猫のような瞳がケイシの頭から離れないでいた。
次の日、ケイシは、朝からベッドに潜り込んだまま、お腹が痛いといって学校を休んでいた。なぜだか、今日は母も無理に学校に行かせようとはしなかった。
朝からずっと布団を被ったままベットに横になってると、お昼を過ぎたころに階段を上ってくる音がした。様子をうかがうようにして、部屋を覗き込んできたのは、母だった。
「少しは食べなさい」
母は、ケイシが気付いたことを確認すると、机にそっと食事を置いた。ケイシは、ろくに返事もせず、母が部屋から出ていくのを待って、ゆっくりと体をベッドから起こした。机に置かれていたのは、多分、お粥だ。小さな頃から、体調が悪くなると、こうやって母はお粥を作ってくれた。体は思うように動かない。泣きはらした瞼は腫れぼったく、鏡を見なくとも顔全体がむくんでいるのがわかった。蓋を開けると、白い湯気が一気に広がっていく。お粥を茶碗に入れて手に取ると、ケイシはそのままベッドに腰を掛けた。お粥を口に運ぶと、温かい湯気が体全体を包み込んでいくようだった。
部活が終わった時間が過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。母が、慌てたように返事をしながらドアを開けた。
「こんにちは」
聞こえてきたのは、ダイチの声だ。昨日から、ダイチは何度も連絡をくれたいた。ケイシは、電話もメッセージにも返信もせず、無視をし続けていた。迷惑をかけている自覚もある。心配してくれている気持ちもわかっていた。ただ、今は一人でいたい。これ以上、壊れていく自分を受け止めるだけのエネルギーは残っていなかった。
「ごめんなさいね。わざわざ来てくれて」
「いえ」
「ケイシ、ダイチ君が心配してきてくれたわよ!」
玄関から聞こえてくる母の声に、ケイシは、咄嗟に布団を頭まで被って寝た振りをした。返事が返ってこないとわかると、母は、何度も「ありがとうね」と、口にし、「伝えておくわね」と、言った。
「また来るからな。ケイシ、元気出せよ!」
ダイチは大きな声でそう叫ぶと、「失礼します」と、帰っていった。
それから、ケイシは足の調子が悪いと言って3日も部活を休んでいた。ハルトとも口を聞くことはない。ハルトの瞳は、捨て猫のままで、ケイシに向けられる視線はとても悲しいものだった。
「なぁ」
ダイチが、ケイシの尻を軽く叩いた。ダイチのちょっかいにも、素っ気ない態度で接することしか出来ないでいた。
「なぁってば」
「何だよ」
「ケイシ、今日も部活休む気なのか」
黙っていると、ダイチは呆れたように呟いた。
「もういいだろう、とりあえず出て来いよ」
ダイチは、休み時間の度に同じことを聞いてきた。ケイシは、授業が終わると逃げるように学校を後にした。ユイに会うかもしれないと思うと、どうしてもプールにも足が向かなかった。
「おい!いつまでそうしてる気だよ」
土曜日、ダイチがしびれを切らしたのか、朝早くからケイシの家を訪れていた。母に断りを入れると、ダイチは強引に2階に上がり込んでいた。
「おいって、聞いているのかよ」
ダイチが、何度もベッドを揺らす。布団を被ったままのケイシが何も反応しないとわかると、勢いよく掛け布団を剥ぎ取った。
「お前、こんなことしてたら本気でベンチ外だぞ」
ダイチの一言が心に刺さった。こんなことをしていても意味がないことくらいケイシが一番分かっていた。ダイチに無理やり起こされるとケイシは、押し切られる形で、そのまま部活へと向かうことになった。「いってきます」
ケイシの代わりにダイチが挨拶をした。
「気を付けて」
玄関で見送る母の顔は、少し明るくなったようにも見えた。
足どりは重たい。向かう途中、何度も足が止まる。その度に、ダイチがケイシの腕を引っ張った。
「ほら、行くぞ」
ダイチに連れられたまま、ケイシは学校へと向かった。いつもより時間をかけてグラウンドに着くと、すぐにユウマが駆け寄ってきた。
「連れてきたぞ」
「よかった」
声をかけてきたユウマの顔を見ることが出来ない。ダイチは、そんなケイシの腕を強く引っ張った。
「まぁ、今日は見学だけでもして行けよ」
こういう時のユウマは、相変わらず優しい。特に何も聞くわけでもなく、いつも通りに接してくる。ケイシは、ユウマに促され、グラウンドの端に腰を下ろした。
グラウンドでは、いつも通り練習が始まっている。坂田とも目があったが、ケイシには何も言わなかった。後で、上手いこと言ってくれていたのは、ユウマだとダイチから聞かされた。
グラウンドには、ハルトの姿はない。今日もハルトは、部活を休んでいるようだった。ハルトがいないことに、ケイシは内心ほっとしていた。どんな顔で、ハルトを見ればいいのだろう。ハルトの瞳を見てしまうと、きっと、また心がざわついてしまうだろう。
勝利を手にしたチームは皆、自信に満ちた顔をしている。誰もが大きな声を張り上げ、全身でプレーをしていた。何よりユウマは、ハルトがいないチームの中で、エースとしてその場に存在していた。決勝で外された時のユウマは、もうそこにはいない。部員を鼓舞し、前を向いている。力強いユウマがそこにいた。
「やっぱり、ユウマは強いよ」
「え?」
「ううん、何でもない」
帰り際、ユウマはケイシの肩を2回叩くと、「いつでも戻ってこいよ」と、言った。一体どうしたらいいのか。行き止まりの道で、後戻りすることさえ出来なくなってしまった自分がいる。いつもより、帰り道は遠く感じていた。横で、他愛もない話をしているダイチに、気のない返事をしながら、ケイシは頭を悩ませていた。前を向かなければ、何も変わらない。そんなことは分かっていても、暗闇の中で光を探すことをやめたケイシは、脱け殻のようだった。
その夜、遅くに自宅の電話が鳴った。何やら深刻に話し込んでいる父の声が聞こえ、ケイシは嫌な予感がした。そっと部屋のドアを開け、2階の階段から覗き込む。電話口の父の表情は険しい顔をしていた。
「わかりました。連絡いただき、ありがとうございました」
電話を切った父は、一呼吸置くと、母に向かって静かにこう呟いた。
「ハルト君の母親、亡くなったそうだ」
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