君のすべて 7
遮光カーテンの隙間から、日が昇る直前の白っぽい空の色が見える。桑島は薄明かりすら沁みる目を掌の付け根で擦った。
無駄にでかいベッドは男二人が離れて寝ても落下しないくらいの余裕がある。曾山はまだ寝息を立てていて、桑島が起き上がっても目を覚ます気配はなかった。
あの後、気まずさは不思議となかった。常識はずれなことを頼んだ割には平静でいる自分の厚顔ぶりに呆れもしたが、それよりも曾山の態度があの場の雰囲気を決めていたようにも思えた。
飲み明かした友人の部屋にそのまま泊まっているのと変わりない。身体を重ねたことなど初めからなかったことのように、少し世間話をして隣で眠った。
朝の光の中で見ても馬鹿馬鹿しい気分にならないシンプルな内装がありがたかった。これで部屋中ピンクだったり、大人のおもちゃがそこかしこに転がっているような部屋だったらどれだけいたたまれなかったか。想像するだけでぞっとした。
桑島はベッドから這い出て、シャワーを浴びに浴室へ向かった。ようやく人間らしくなった気分で部屋に戻ると、曾山はベッドの上で煙草を吸っていた。
「おはよう」
寝癖のついた頭に半眼。妙に子供っぽい曾山の顔に、一瞬中学生の頃に戻ったような気持ちになる。
「おはようございます。昨日はおかしなこと頼んで本当にごめん」
「はは、変な挨拶」
曾山は屈託なく笑い、両手を天井に突き上げて思い切り伸びをした。迷惑そうな素振りも見せず、ただ優しく笑う。曾山はいい男なんだなあ、と馬鹿みたいに考えた。
「お前、すぐ帰る?」
「うん」
寝るときにハンガーに掛けたスーツを取りながら答えると、曾山は煙草を灰皿に放り込み、でかい欠伸をしてベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「俺、もう少し寝てくわ」
「そうか。あ、金」
「いいよ、ホテル代くらい」
「いやでも、お願いしたの俺なんだから」
「いらねえって。ぐちゃぐちゃ言ってねえでさっさと帰れ」
笑いながら、まるで昨日のことなどなかったように——犬を追い払うように気軽に手を振る曾山に向かって、桑島はひとつ頭を下げた。
どこかで期待していたかもしれない。アパート前の空き地に蹲る黒い車体を。
まだ夜が明けて三十分程だ。腕時計に目を落とすと五時半すぎだった。早朝だというのに、気温はすでに上がり始めている。
「おかえりなさい」
「……うん。ただいま」
ドアの前の床に腰を下ろした薮内は、昨日のスーツのままだった。素っ気ないコンクリートの上では尻が痛いだろう。
「お前、いつからそこにいたの」
薮内は答えず、のっそりと立ち上がった。薮内を避けてドアの前に立ち、鍵を開ける。
「入れよ」
ドアを開けて促したが、薮内はその場から動かなかった。強張った頬の線には疲れが滲む。勿論、疲労だけではない何かも。桑島はとりあえず目の前のものから目を逸らし、先に玄関に入って振り返った。
「入れって」
再度言うと、薮内はようやく三和土に足を踏み入れ、桑島の後について部屋に上がってきた。
丸一日閉め切っていた部屋はかなり蒸し暑い。クーラーを入れる前に空気を入れ替えようと窓を開ける。温くなり始めた風が部屋の中に吹き込んできて、桑島はつい眉を寄せた。
「電話くらいくれればよかったのに」
「電源、入ってませんでしたよ」
「……ああ、そうか」
そういえば、自分で電源を切ったのだった。ポケットから携帯を取り出してテーブルに置く。薮内の視線が携帯から桑島の顔に移る。薮内は桑島を見つめたまま何も言わず、ただそこに突っ立っていた。
「座れば? 朝飯食ったか? 何か」
「帰ります」
上着を脱ぎかけた手を止めて薮内の顔を見たらまともに目が合い、腹に拳を食らったように息が詰まった。
薮内の顎にはごく薄らとだが無精髭が生え始めていて、目は僅かに充血していた。隈も浮いた顔は疲れきって見える。それでいて、どんな感情も窺わせない空虚な瞳の色に、背筋が震えた。
「疲れてるだろ? そんなんで運転——」
「ちゃんと帰ってきたから、もういいです」
「薮内」
「帰ります」
「薮内!」
踵を返す薮内に玄関で追いついて、靴に足を入れながら振り向いた薮内の腕を掴んで引きとめた。薮内は桑島を見たが、まるで物を見ているかのように感情がない。
「これ」
薮内の手にポケットから取り出した鍵を落とす。薮内の眉が微かに寄った。
「うちの鍵。お前、いつも外で待ってるから……」
「……」
喜んでくれると思っていた。いつか渡そうと思って、いつも持ち歩いていた。ようやく渡す踏ん切りがついて、それなのに薮内は怖い顔をして黙って鍵を見詰めたまま何も言おうとしない。
アパートの階段を上る足音がして、突然薮内の背後、新聞が郵便受けから飛び出した。腰に新聞が触れたのだろう。薮内は一瞬ぎょっとした顔で振り返り、状況を理解したのかほっと息を吐く。その瞬間の無防備な顔に、誰かに直接掴まれたように胃が捩じれた。
「薮内」
こちらを向いた薮内は、また強張った顔に戻っている。突き出された鍵に目を向けたまま、桑島は一歩下がった。
「返します」
「何で」
「……要りません」
「本当に?」
薮内が溜息を吐いた。どんな言葉を聞くより、小さな溜息が応える。声が震えるのを抑えようと唾を呑んだけれど、効果はなかった。
「本当に要らないのか。欲しくないのか」
「桑島さん」
「何で要らないんだよ」
薮内が履きかけていた靴を脱ぎ、玄関に上がる。桑島はまた差し出されたそれを思い切り払いのけた。鍵が玄関の壁に当たり、安っぽいフローリングの上を滑って二人の間で止まる。ただの金属。こんなもの、何の証明にもならないのだろう。
「お前が好きだ」
やっとの思いで絞り出したのに、薮内の表情は変わらなかった。飛び上がって喜んでもらえるなんて思っていない。それでも、まるで血が通うのを止めてしまったように、指先から温度が失われていく。頭も、手の先も足の先も冷えていく。
「お前が好きだ」
「何です、突然」
泣きそうに顔を歪め、薮内は低い声で呟いた。視線は桑島の顔から床に落ちた鍵に移ったものの、拾い上げようとはしないまま、根が生えたように動かない。疲れ切ったその顔が、いつもより薮内を男くさく見せている。
「昨日、他の男と寝た」
こんなことは知らせるべきではないのかもしれない。正直に言えばいいというものではないことくらい分かっている。それでも、誤魔化すのは嫌だった。中途半端に告げるくらいなら、すべて話したほうがいい。
「知りたかったから」
「……何を」
「お前が他の男とどう違うのか、分からなかったから」
「——どういう意味ですか、それ」
「お前が特別なのか、俺が流されてるだけなのか、分からなかった。お前が可愛い後輩だから許してるのか、恋愛なのか、いくら頭で考えてもどうしようもなかったから——比較対象が欲しかった。女の子とじゃ意味がないと思ったから」
薮内の蒼白になった顔に胸が痛む。紙で手を切ったときのような不快な痛みと悪寒に背筋が凍った。
何と言い訳しても許されないことをしたのは分かっていた。分かってやったことなのに、泥水のように濁った後悔が腹の底から溢れ出し、せり上がって喉につかえる。
「俺はお前が思ってるほど優しくもないし、人格者でもないよ。自分本位だし、必要なら友達だって利用する」
新聞配達のバイクの音が遠ざかる。遠くで聞こえる若い女性の笑い声。通り過ぎていく車のタイヤの音。
「ただセックスするのは簡単だった。でも、それだけだ。鍵を」
指先が痺れるように冷たい。末端まで血が通わないということをここまで実感したのは初めてだ。薮内が床に落ちた鍵を一瞥する。
「鍵を渡したいと思うのは、お前だからだ。可愛い後輩だからじゃなくて、お前だから」
自分の声がひどく白々しく、誠意なく聞こえる。薮内にも同じように聞こえるのか。桑島はきつく目を閉じ、涙を堪えた。
「今までしてきた恋愛とは違うかも知れない。付き合ってきた彼女を大事に思ったみたいにお前のことを思ってるわけじゃない。でも」
「……」
「でも——お前のことが好きだ。今更、遅いかも知れないけど」
「俺は——」
薮内の声はしっかりとしていたが低く、しわがれていた。
「俺はあんた以外の誰とも、女ともできない。だって勃たないんだから仕方ない」
「薮内」
「簡単なことでしょう。好きでもない奴と、俺はできない」
桑島はゆっくりと閉じていた目を開けた。薮内の顎に浮かぶ筋肉の束。こめかみに浮かぶ血管が脈打っている。怒っているんだな、とぼんやり思った。ようやく恋情を自覚したのに、薮内とはもう終わりかもしれない。当たり前だ。
「あの、ビデオ屋にいた奴ですか」
どうして分かったのかは分からない。驚きはしたものの、桑島は薮内の目を見て躊躇なく頷いた。
「……ああ」
薮内の顎が一層強張る。それでも嘘を吐く気にはなれなかった。例えそれで軽蔑されたとしても、詰られ、始まったばかりの恋がすぐに終わったとしても。
薮内は奥歯を噛み締めるようにして黙っていたが、ようやく掠れた声で唸るように言った。
「俺と、どう違いました」
「全部違ったよ」
「どこが?」
曾山の顔がぱっと浮かんで消える。触れる指先と唇の温度が蘇ったが、それはすぐに、跡形もなく霧散した。
「匂いも、声も、指の感触も——それに、あいつの名前は薮内じゃなかった」
薮内が一歩近寄る。鍵を踏みつけかけ、器用に足で壁の方へと押しやった。
「脱いでください」
囁くような声が歯の間から押し出される。下腹の奥にむず痒いような感覚が芽吹き、冷えた身体をどうしようもなく蝕んだ。動かない桑島に焦れたのか、薮内が桑島のワイシャツのボタンに指をかける。
「ここで、か」
「文句ありますか」
薮内の声は平素より尚低く、桑島の口元で囁かれた。
「俺のこと、思い出したりしましたか」
「——薮内」
薮内の指がワイシャツの前をはだけ、アンダーシャツの裾から中に潜り込んでくる。
「あいつにされてる最中に、俺の顔、思い出しましたか? 俺のと、比べたりしましたか。あんたの中に入ってるのが、俺だったらいいって——思いましたか」
「や……」
桑島の肌に触れながら身体を押しつけ、薮内は脅すように声を潜めた。
「……最中にあの男のこと思い出してみろ。あんたなんか、その場で絞め殺してやる」
唸りながら言う薮内の目尻が微かに濡れていた。
「馬鹿野郎」
薮内のうなじを掴んで引き寄せ、耳元に唇を押し当てる。微かな喘ぎを喉から漏らし、薮内は桑島の脈打つ首筋に手をかけた。
「あいつは、お前じゃなかった——もう忘れたよ」
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