君のなまえ 2

 薮内の黒いワゴンがアパートの前に止まることも、最近は珍しくなくなった。アパートの目の前は数年前に桑島が越してきて以来どこかの会社所有の看板が立ったままの空き地で、その脇に路上駐車したところで咎める者は誰もいない。

 桑島も免許はあるが、車は一昨年車検切れと恋人との別れを契機に所有を止めた。彼女と休日に出かけることがなくなったら結局ほとんど乗らないから、駐車場代とメンテナンス費が勿体ないと思い切った。

 そんなわけで、薮内と出かけるときは自然薮内に頼ることになり、運転が好きだと言う薮内は運転を苦にすることもない。

「つき合わせてすいません」

 薮内は途中で借りた最新のハリウッドアクション映画のDVDが入った袋をぶら下げ、靴を脱ぎながら笑った。

「結局映画も俺が選んじゃいましたしね」

「いいよ、別に。どうせ暇なんだし」

 友達の試合に呼ばれたという薮内がサッカーをするのをお父さんみたいな気分でのんびり観戦し、いささか遅すぎる昼食にラーメンを食べた帰りだった。桑島はテレビ以外でサッカーを見たことがなかったから、素人試合とはいえ退屈はしなかった。

 薮内は経験者だけあって上手だというのは、サッカーファンではない桑島にもすぐに分かった。草サッカーだけあってレベルは様々、自分のほうがマシなんじゃないかと思うやつもいれば、薮内のように明らかに頭ひとつ飛びぬけたやつもいる。

「お前上手いな。やっぱりやってたやつとそうでないやつじゃ、ぱっと見でも全然違うもんな」

「そうですか?」

「だってほら、あの二番の子なんかサイドチェンジ出来なくて真ん中にボール落ちちゃっただろ」

「あー、そうですね。キック力ないと届かないから」

 畠山を通じて薮内の妹に会うと決めたことは、薮内当人には伝えていなかった。畠山も同情したような安心したような、何とも言いがたい表情のまま、薮内には言わないと約束した。

 妹が出てくるといえばどんな話か何となく想像がつくだけに、薮内に知らせるのは躊躇われる。それに、結局自分は薮内のことを世話の焼ける可愛い後輩としか思えないのかもしれないと思うと、そこに踏み込むような会話はできるだけ避けたいとつい逃げ腰になってしまうのだ。

 そんなことを考えていたら、薮内がDVDのことについて何か訊いたのを聞き逃し、我に返って振り向いた。

 背後から伸ばされた薮内の手が、開けかけていた冷蔵庫のドアを強制的に閉じてしまう。頬に感じていた冷気が突然遮断され、生温い室内の空気が顔の周りに纏わりついた。

「桑島さん?」

「——何」

 少し日に焼けて上気した精悍な顔が訝しげに桑島を覗き込んできた。強い視線に跳ね上がる心音に、桑島は内心舌打ちした。目の前に立つ人物を好きなのかどうかもまだ分からないというのに、時折狂ったように暴れ出す自らの心臓に裏切られたような気分になる。

「どうかしました? ずっと外に居たから疲れた?」

「いや、そんなことないよ。お前、何飲む?」

 薮内に背を向けなおして冷蔵庫にかけた左手を、上から覆うように掴まれた。後頭部に薮内の息がかかって、背筋が強張って半歩よろける。

「……木曜の午後から上の空ですよ」

 思わず唾を飲み込んだ喉が、つかえたように狭まった。まったく、畠山といい薮内といい観察力があるのは結構だが、観察対象にされるほうにはいい迷惑だ。

「忙しかったからな──手、」

「何です?」

「手、離せよ。冷蔵庫開けられないだろ」

「畠山さん、何の用だったんですか」

 薮内の掌が一際強く桑島の手を締め付けた。重ねた手の親指で撫でるように触れられて、思わず目蓋をきつく閉じる。薮内からは後頭部しか見えないことが幸いだ。

「同期の飲み会の話。今度——やろうって」

「へえ?」

 いかにも嘘だろう、と言わんばかりの皮肉な口調で桑島の耳の中に呟くと、薮内はあっさりと手を引いた。

「俺、冷たい緑茶がいいです。あついから」

 素っ気ない口調でそう言うと、薮内は居間のソファに向かい、袋からDVDを取り出した。内容の解説を読んででもいるのか、俯いた顔は桑島からはよく見えない。

 自由になった左手と、囁きの後に軽く噛まれた左の耳朶が焼けるように熱かった。


 暗くした部屋の中で、テレビが明るい光を放っている。桑島は、有名俳優の──スタントか本人か知らないが──派手で豪快なアクションをぼんやりと目で追った。

 薮内はあれから特に話を蒸し返すでもなく、当たり障りない話題で桑島を笑わせた。そうやって甘やかされるとつい楽な方へと流される。それは桑島だけではなくて人間という生き物自体がそうなのだろうが、だからと言って何の慰めにもならなかった。

 結局、自分はどうしたいというのだろう。

 薮内が自分から離れていった僅かな時間に、こいつの手を離せないと痛感したのではなかったか。薮内は考える時間と機会をくれたのに、自分は果たして何かを突き詰めたのか。

 画面が切り替わるたび、薮内の顔に当たる光量と色が変わる。削げたように無駄な肉がない顔に、爆発して炎上する車の色と影が踊った。

「薮内」

「はい」

 薮内は、今の今まで食い入るように画面を見ていたとは思えないほど、あっさりとこちらを向いた。ソファに座る桑島と床に座る薮内の間の空間に、薬莢の散らばる音が虚ろに響く。

「二択かな」

「……は?」

 薮内は目を見開いて瞬きした。その表情がどこか子供臭くて、思わず頬が緩んでしまう。

「二択ですらないんだよな、もう」

「桑島さん、何言ってるか全然わかんないっすよ」

「何が何だか、自分のこともよくわかんないよ、俺は」

「——桑島さんがわかんないこと、俺に分かるわけないでしょう」

 立ち上がった薮内が、桑島の座るソファの背凭れに手を乗せた。覆い被さるように立つ影に隠れて映像が見えなくなる。薮内のシルエットを照らす画面から聞こえる音が一際騒がしくなって光が明滅し、銃撃の音がし始めた。

「薮内——」

「飽きた」

 薮内のしゃがれた声が、映画の台詞の合間に桑島の耳に届いた。

「映画。飽きました。もう、いい」

「一番いいとこじゃないのか」

「……知るか」

 掠れた声は俳優の叫び声にかき消され、桑島の耳の中には自分の鼓動だけが響いていた。


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