君の指 2

 本当なら薮内と二人でここにいるはずだった。

 その得意先は、桑島がいずれ薮内に引き継ぐつもりだったからだ。毎月レギュラーの売り上げがあるし、担当者も無理を言わず、感じがいい。そして何より、支払が滞らない。これは重要な点だ。

 最近は二人のうちどちらかが顔を出すようにしていたが、前々から新しい提案の時は二人揃って——と思っていた。

 薮内と二人きりになりたくなかった。だから、一人で行くと言ったのだ。薮内は相変わらず、あの爽やかな笑顔で快諾した。

「いいっすよ。俺もあげなきゃいけない書類あるんで、ありがたいです。桑島さん、よろしくお願いします」

 本当なら、あいつが俺を避けるべきじゃないのか。

 どうして自分が後ろめたく思わなければならないのかとも思うのだが、一旦考え始めると、またぞろ物思いに沈んでしまう。最近桑島は考え込むことが多くて、一昨日は赤信号をそのまま渡りそうになり、慌てて立ち止まったものの、冷や汗をかいた。

 こんなときに自分の腕を掴んで引き戻してくれる薮内が、今は隣に立っていない。そんなふうに考えてしまう自分が嫌で仕方なく、またどこか滑稽だとも思うのだ。

 桑島の物思いは、そこで突然中断された。がくん、と身体が揺れ、何事かと顔を上げる。エレベーターの階数表示は桑島の押した五階のランプが点灯していたが、ドアは開く気配もない。

「おいおい。やめてくれよ、まったくもう」

開くボタンを何度か押したが、依然として反応はない。桑島は盛大に溜息をつき、パネルの端っこにあった黄色い受話器マークのボタンを押した。



「はい、営業」

 営業課の直通番号を押すと、無愛想な声がいますぐ切るぞといわんばかりの態度で応答した。

「……薮内?」

「あ——はい、桑島さん?」

 しまった、という顔が見える気がして、桑島はほんの少しいい気分になった。

 何だ、お前だって機嫌がいいとは言えないじゃないか。何もなかったような顔をしていたのは、それなりに努力していたということか。思い悩んでいるのが自分だけではなかったと知って、桑島はここ二週間で初めて明るい気分になった。

「お前なあ、そんな不機嫌そうな声で出るなよ。クライアントだったらどうすんだ」

「直通に外部からの電話なんか滅多にこないじゃないですか」

「まあな。だけど、あそこの社長かけてくるだろ」

「ああ、あのジジイですか——え? 桑島さんですよ、桑島さん。うるさいなー、課長。聞こえないっすよ」

 面倒くさそうに背後の誰かとやり取りする薮内の声に、桑島は思わず笑った。

「ジジイとか言うから」

「いいんですって。で、何かあったんすか?」

 桑島は束の間自分の置かれた状況を忘れていたことに気がついて、今更ながらひどく狼狽した。薮内が不機嫌だって分かったからって、一体何を喜んでいるんだか。

「いや、それが俺、今、エレベーターに閉じ込められちゃっててさ」

「はあ!?」

 薮内の大声に、桑島は慌てて耳から携帯を離した。

「故障みたいなんだよな。ま、何十分かでメンテの人来るからどうってことないんだけど、一応課長に言っといて」

「提案は? 大丈夫なんすか」

「うん。電話しておいた、後日にしてくれって。っていうか目の前にいるんだけどね、先方の」

 桑島の説明に笑うと、薮内は分かりましたと言って電話を切った。桑島はコートの尻を気にしながら、エレベーターの床に座り込んだ。まったく、何で地震でも火事でも停電でもないのに故障なんかするかな、このエレベーターは。

 まあ、災害時だったら逆に笑ってられないけど。提案が延びたのは大した問題ではないし、たかが何十分、却って息抜きになるさ——。



 結局、桑島が箱から出られたのは三時間以上後になった。幸い尿意は襲ってこなかったが、もしこれ以上かかっていたらと思うとぞっとする。

 だが、メンテナンス会社が悪いわけではない。たまたま事故渋滞に巻き込まれてしまい、こちらに向かう途上で二進も三進も行かなくなってしまったらしい。

 ようやく到着した担当者が扉の向こうでしきりと謝る声がする。どうでもいいから早く出してくれないだろうか。桑島は床に座ったままうんざりして扉を見つめた。

「開きますよー」

 声がして、扉がするすると開いた。その途端、エレベーター内部にいがらっぽい煙がどっと流れ込み、桑島は思わずむせた。

「か、火事、ですかっ!?」

 むせながら立ち上がり、固まった尻をさすりながらよろよろとエレベーターの外へ出る。

「いやあ、お待たせしちゃって本当にすいません」

 恐縮しきって頭を下げる青い作業服は目に入らなかった。

 煙で白く霞んで見えるエレベーターホールのど真ん中。事務椅子に腰かけた薮内が、煙草をふかしながら座っていた。

「……何だ、それ」

 回転式の古臭い事務椅子にふんぞり返った薮内の脚の間には、金属の四角柱が置かれている。どこかで見たような、どこにでもあるような。

「何って、灰皿です」

 言われてみれば確かに、よくビルのロビーなどに置いてある灰皿だ。しかし、このビル自体は禁煙ではないが、五階のこの会社は給湯室以外禁煙を標榜していたような気がする。エレベーターホールは煙がこもってひどい有様だ。火災報知器が鳴り出すのではないかと不安になるくらい煙い。クライアントの真ん前で、この男は一体何をやっているのだろう。

 作業服の男には適当に挨拶を返して、桑島は薮内を振り返った。

「その椅子は?」

「いつもの受付の子に借りました」

「何で」

「何でって、俺の命より大事な先輩が閉じ込められてるけど、待ってる間立ってるの辛いから貸してくれって」

 正直なのか嘘つきなのかわからない薮内の言葉に、桑島は思わず吹き出した。

「まったく……ってお前、いつからいるの」

「桑島さんの電話切った後すぐ来たから、桑島さんマイナス二十分くらいっすかね」

 薮内は立ち上がって腰を伸ばしながらこともなげに言った。

 三時間近くここに座って、ただ煙草を吸ってたのか。なんて馬鹿なやつ。言われてみれば、薮内の声はカラオケで歌いすぎたようにガラガラだった。いかにチェーンスモーカーの薮内とはいえ一体どれだけ吸ったのか。灰皿の中を覗くことだけは絶対にすまいと、桑島は心に決めた。

「これ返してきます」

 桑島の返事も聞かず、薮内は事務椅子を抱えてクライアントのドアを押し開けた。受付の女の子の笑顔が、閉じたドアの隙間からちらりと見えた。



 外はすっかり日が落ちていた。定時もとうに過ぎて、今更会社に戻る気もしない。課長も直帰しろと言うし、その言葉に甘えて帰ることにした。何をしたわけでもないが、やたらと疲れた。

「じゃあ、俺は会社に戻りますから」

 薮内が桑島の後ろから声をかけてくる。振り返って見た顔は、またよそよそしい笑顔に戻っていた。

「……お前は帰んないのか」

「書類放り投げて出てきちゃったんで。お疲れ様でした」

「三時間も待ってて、ただ帰るのか?」

 桑島は薮内のネクタイの結び目辺りを見ながら口に出した。薮内がへ、と間抜けな声を上げる。

「俺が心配だったんだろ? だからすっ飛んで来て、待ってたんだよな。じゃあ落ち着いて話くらいしたっていいだろう」

「桑島さん」

「何でもない顔すんの、やめろよ。腹立つから」

 桑島の台詞に、薮内が顔を顰める。笑顔が一瞬で消え、訝しそうに桑島を見つめる。かわいい後輩の顔じゃない。男くさい薮内の表情に、うなじの辺りがざわざわした——不本意ながら。

「お前が好きとは思えないよ」

 薮内が腹に一発食らったような顔をした。いや、実際に何かが当たったのかもしれない。桑島の胸郭を突き破りそうに跳ねるこの心臓が、当たったのかも。

「でも、可能性はないわけじゃない……多分。もう少し待ってくれるなら、だけど」

 口の中はからからだった。薮内に耳元で囁かれたあの時のように。指で髪を撫でられた、あの時のように。

 薮内が一瞬何のことか分からない、と言う顔をした。次いで目を瞠り、そして次の瞬間には嘘を見破ろうとするかのように眇められる。百面相かよ。本当にこいつは見てて飽きない。

 桑島は半ばやけっぱちに笑った。心臓は今にも内臓を食い破って口から飛び出、地面に落ちそうだ。薮内の親指が頬骨に触れた。桑島の心臓は一層激しく動き出し、骨と言う檻の中で暴れ狂う。

 指が頬を撫で下ろし、下唇を恐る恐るなぞる。煙草の匂いがする。薮内の指はかすかに震えていた。その感触に耐えられなくて言葉を発しようとしたら、飛びすさるように突然離れる。

 呆然とした表情の薮内は小さく呻いた。

「俺をからかってるなら、殺してやる」

「先輩に向かってなんて口の聞き方だ」

 踵を返した桑島は、敢えて後ろを見なかった。多分、薮内はついてくる。そして桑島が赤信号を渡りそうになれば、腕を掴んで止めてくれる。

 多分——いや、絶対に。

 桑島は自分の革靴の先を見ながら苦笑した。物好きもいいところだ。一人息子だというのに親に顔向けできない、会社にも秘密、誰にも言えない。

 それでも、薮内の手が、指が。愛しげに触れるあの感覚を捨てられなかった。

 後ろから伸ばされた薮内の手が、桑島の腕をきつく掴む。桑島はあえて振り向かなかった。今は、薮内の指の一本一本、その強さだけを感じていたいと、切実に思った。

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