手より言葉を、

甲池 幸

第一話

「よしっ。今日はサボるか」


 俺の三歩前を歩いていた男は、突然そう宣言すると足を止めて俺に視線を向けた。まだ朝の八時前だというのに、きっちり仕事をしている太陽が、肌を焦がすように照り付けている。俺は、その鋭い陽光さながらに、目の前に立つ男を睨んだ。


「馬鹿なことを言ってないで、さっさと歩け。怠け者」


 俺の言葉に賛成しているようにも、反対しているようにも聞こえる蝉の声が二人の間の沈黙をかき消す。ズボンのポケットに両手を入れたまま、男───汐野航平しおのこうへいは晴れ渡った空を見上げている。二、三度ゆっくりと瞬きをした汐野は、俺に視線を戻した。


「だってさ、こんなに晴れてんのに、普通に学校行くとかもったいなくね?」


「学生の本分は勉強だ。そもそも、天気で行き先を変えるな。阿呆」


「適度に息抜きしないとぶっ倒れるじゃん? 俺が」


「じゃあ、勝手にサボれ。俺は学校に行く」


 左腕に巻いた腕時計を確認してから、汐野との距離を詰める。黒い軽自動車が俺と汐野を追い越して、走り去っていく。乱された空気が制服の袖を揺らす。心地いいと思う間もないまま、人工的な風は蝉の声を伝えるだけの空気に混ざる。


 眩しすぎる太陽と、耳障りな蝉の鳴き声と、肌を滑り落ちる汗。そのどれもが不快で、俺は無意識にため息をついた。


まこと!」


 汐野が不意に、俺の名前を呼ぶ。


「海でも見に行こうぜ!」


 体ごと振り返れば、汐野が心底楽しそうな顔で笑う。入道雲と光って見えるアスファルト。その真ん中で笑う汐野は、とても眩しい。


「海は嫌いだ」


 俺は汐野にそう言葉を返した。汐野は歯を見せて笑う。腹を抱えるようにして笑い声をあげている汐野に近づいて、背中を殴る。それの何が面白かったのか、汐野の笑い声はさらに大きくなった。笑い声を逃すように深く息を吸い込んだ汐野は、俺に視線を向けてまた笑う。


「とりあえず、コンビニでも行くか」


「お前から誘ったのに、計画はないのか」


「サボりに計画があったらつまんないだろ」


「その割には、今日は体育がない日だ」


 俺の指摘に、汐野は空を見上げながらまた楽しそうに笑った。こいつはいつも、炭酸水の気泡のように際限なく笑っている。


「汐野はいつでも楽しそうだな」


 ふと溢れた言葉に、汐野は笑い声を上げるのをやめた。ゆるく口角をあげたまま、目線だけがアスファルトに落ちている。言葉を選ぶための僅かな沈黙の後、汐野は口を開いた。


「楽しんどかなきゃ損だと思うんだよな。まだ子供だって言い張れるうちにさ」


 汐野航平という人物は、基本的にふざけた人間だ。忘れ物は多いし、通学鞄には教科書じゃなくて漫画と小説が入っているし、科学の授業は寝ている。でも、時折、その「怠け者」の仮面から、何かが滲み出るのだ。


 諦めとか、退屈とか、そういう仄暗い「何か」が。


 汐野から青空に視線を移して、口を開く。言葉にしたいことが確かに、喉の奥にあるはずなのにどう言えば伝わるのか分からずに、口を閉じた。結局、青空からアスファルトに視線を戻した俺が言葉にしたのは、在り来たりな共感の言葉だけだった。


「そうだな」


「だろ?」


 「何か」を仮面の裏に隠し、また上を向いた汐野は、右手を太陽にかざしながら笑った。上を向いたままフラフラと歩く汐野に「転ぶぞ」と釘を刺す。けらけら笑って俺の言葉を軽んじた汐野は、やはり小さな段差につまずいた。呆れてため息をつけば、汐野はまた楽しそうに笑う。懲りずに上を向いて歩く汐野は、それから一度も転ぶことなく、コンビニにたどり着いた。


 開きかけの自動ドアを半身で通った汐野は、冷気を思い切り吸い込んで、体を伸ばす。


「涼しいな」


「冷房が効いているからな」


 俺は額に浮かぶ汗を拭い、入口のそばに立ち止まる汐野の背中を押して店の奥へと足を進めた。


「アイス二個買ったら、途中で一個溶けるよなぁ」


「……一度に二つも食べたら、体を壊すぞ」


「慎は心配性だなあ、大丈夫だって」


「そう言っていて朝の全校集会で倒れたのはお前じゃなかったか」


 汐野は「えへへ」と愛想のいい顔で笑ってから、髪を弄る。俺はため息をついて、汐野から視線を逸らすとソーダ味のアイスを手に取った。無糖の炭酸水とアイスをレジに持っていく。


 汐野は、菓子パンコーナーで真剣に棚を見つめている。ぼそぼそとした声で話す大学生くらいの店員を相手に会計を済ませ、汐野にもう一度視線を向けた。俺が声をかけるよりも先に、視線に気付いた汐野が顔を上げる。


「お、終わった?」


「ああ。昼食はパンか?」


「んや。弁当あるから」


「……三時のおやつか?」


 汐野は目を見開いて素早く瞬きを繰り返した。そして、俺が瞬きしている間に顔を綻ばせる。何に驚いたのかも、何故そんなに嬉しそうなのかも、俺には分からなかった。ひとしきり笑った後、汐野は独り言のような小さくて低い声で呟く。


「妹が、パンが好きでさ。まあ、飯食うより寝ていたい奴だから、買ってやってもすげえ喜ぶわけじゃないんだけど、」


「そうか」


 言い訳を並べるように、心の中の曖昧なものを言葉にしようとしているのが分かって、俺は汐野の言葉を遮った。汐野は吐息を溢すようにささやかに笑って、菓子パンから目線を逸らした。


 結局、アイスではなく甘ったるい炭酸飲料を買った汐野と連れ立って、店を出る。コンビニの涼しさに慣れてしまった体は、外気の暑さをより強く感じた。


「あちー」


 汐野は買ったばかりの炭酸飲料を喉に流し込む。俺は手早くアイスの包装を破って、それにかぶりつく。口の中が冷たくなって、あっという間に、冷たいそれは喉の奥に消える。夏は、四季の中でも最も嫌いな季節だが、アイスを食べているこの瞬間だけは、少しだけ夏が好きだ。


「うまい?」


「食うか?」


「……買ってくる」


「そうか」


 店先にできた僅かな日陰に身を隠しながら、俺はアイスを頬張った。冷たくて甘いそれが完全に胃袋の中に消え、炭酸水を三分の一ほど減らしたところで、ようやく汐野は戻ってきた。


 俺は出てきた汐野に視線を向け、その手に持っているもの見、また汐野と目を合わせた。にこにこと笑みを浮かべたまま俺を見つめ返す汐野に深く、ため息を吐き出す。


「……お前、アイスを買いに行ったんじゃないのか」


 汐野が持っていたのはアイスではなかった。もっと言えば食べ物ですらない。カラフルでごちゃごちゃとしたパッケージのそれは​───────どこからどう見ても、手持ち花火だった。


「公園行こうぜ、慎」


「こんなに明るい時間から花火をするつもりか?」


「いつやっても楽しいだろ。花火なんだから」


 楽しそうに手持ち花火のセットを振り回す汐野に、文句を言う気を削がれた俺は、炭酸水を喉に流し込む。「置いてくぞー」と五歩先で手を振っている汐野に追いつくために、俺は足を踏み出した。

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