雪を溶く熱 SS

文月(ふづき)詩織

春の夢

 静謐せいひつな闇に閉ざされて、どれだけの時が経ったのか。


 夜は明けない。


 張り詰めるような寒さの中、美冬はか細い両腕で自分を抱いて震えていた。温度を失った体では自らを温めることもできない。

 凍り付いた空気に耐えかねたように隙間だらけの薄い壁が高い音を立てた。


 冬は終わらない。

 ずっと待っているのに、春は来ない。

 

 さくり。さくり。


 心地よい音が闇を打った。新雪を踏む足の音。だんだんと近づいてくる。

 錆び付いたドアが悲鳴のような音を立て、小屋全体がきしんだ。美冬は身を固くする。

 大丈夫。外に何がいたとしても、ドアは絶対に開かない。


 彼女の諦念を裏切って、ドアはあっさりと開いた。外の空気と共に一人の青年が小屋に足を踏み入れた。


「秋人くん……?」


 久しぶりに口にした名は、懐かしい響きを帯びていた。


 共に過ごした記憶の終わりは、冬の夕方のかくれんぼ。美冬は最初に秋人を見つけ、秋人は最後の鬼になった。彼はとても悔しがっていた。


 だから、だろうか。

 あれから一度も、秋人は美冬を訪ねては来なかった。


「何年ぶりなのかしら?」

「……十年、か」


 体温を帯びた白い呟きは美冬の頭よりはるかに高い位置から生まれて、落ちるよりも前に霧散した。白い息を捕まえようと両手を伸ばしたあの頃には、確かに届く位置にあったのに。


 秋人は大人になったのだ。


 疎遠であった間にも順調に時を刻んで来た彼の姿と、何ひとつ変わることのできない自分とを比較して、熱く苦い熱が美冬の胸に広がった。


「何しに来たの?」


 突き放すように美冬は問うた。


「お別れを言いに来たんだ」


 秋人の言葉に、美冬はぽかんと口を開けた。


「志望校に合格してね。村を出るんだ。……まだ引っ越しには間があるけど、君に報告するなら今日しかないと思って」


 秋人は肩を縮めて、手指を落ち着きなくこすり合わせ、息を吐きかけた。指の隙間から漏れた熱が、冷たい部屋に広がった。


「なによ、それ……」


 美冬の声は高く震えた。


「私のこと、置いていくの?」

「僕はずっと君に縛られて来た。だけどやっぱり、先に進まなきゃいけないと思うから」


 そう、と、美冬は呟いた。


「私を助けてくれなかったくせに、忘れて先に進むんだね……」


 十年前、秋人は子供だった。美冬を助けられなかったのは仕方のないことなのだ。解っていても割り切れない。


 秋人は美冬を見つけてはくれなかった。


「助けてあげられなくてごめん」


 祈るように固く指を折り合わせて、秋人は呟いた。言葉が生んだ空気の揺らぎが完全に収まる頃、彼の指はゆっくりと解ける。


「さようなら」


 彼が最後に発した熱は瞬く間に冷たい空気に溶けて消えた。


「許せないよ」


 美冬の声に熱はない。


「酷いよ、酷いよ酷いよ酷いよ酷いよ酷いよ……」


 呪詛は秋人には届かない。放った分だけ美冬へと跳ね返る。


「憎い、憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い……秋人くんが憎いよ。生きてるなんてズルいよ!」


 秋人にはどうしようもないことだったと知っている。彼が後悔してきたことも聞いたし、謝罪も受けた。それなのに、こんなにも秋人のことが憎い。自分はなんと醜いのだろう。

 自身の二の腕に回した手の冷たさに震える。


 秋人の残した熱は時間と共に消えてゆく。温かさを覚えてしまうと、元の寒さが辛かった。


「……寒くなんかない」


 美冬の呟きに体温はない。秋人を真似て指を擦り合わせても、息を吐きかけても、熱を得ることはできなかった。


 消え去る熱を繋ぎ留める方法を、美冬は知らない。憎しみと悲しみに凍えて、胎児のように膝を抱えた。

 時は再び動きを止めて、美冬を閉じ込めた。


 冬は終わらない。

 春はいつ来るのだろう?


 静謐せいひつな闇に閉ざされて、どれだけの時が経ったのか。


 ふと、美冬は隙間だらけの薄い壁の向こう側から、光が漏れ入って来ることに気が付いた。

 

 外に出たい。衝動は唐突に沸き上がった。ドアは開かないと決まっている。けれど秋人はドアから入って来た。

 緊張に震えながら、美冬はドアに触れた。拍子抜けするほどあっさりと開いた。


 山肌を覆う純白の化粧は剥がれ落ち、雪解け水に洗われた大地に新緑が萌えている。

 息を吸うと、凛と澄んだ空気が鼻腔を満たした。抜けるような青い空に、綿のような雲が浮かんでいる。


 小屋の周りにだけ残った雪が、温かい日差しを弾いて輝いていた。


「……温かい」


 美冬の呟きをかき消すように、賑やかな声が響いた。


 村の人たちが集まっていた。その中心には秋人がいる。降り注ぐ称賛を受けて、若い笑顔が未来を結ぶ。その光景は美冬の網膜を苛んだ。


「そっか。春はもう来ていたのね」


 声が震え、涙が頬を伝った。


 小屋から出ることができても、美冬には未来がない。美冬の時計は動かない。


「私を置いて、行っちゃうんだ」


 それは恨みや憎しみだと思っていた。けれど温かな日差しの下で、万年雪のごとく積もり積もった虚構は溶け落ちて、残ったのは残酷なほどに透き通った真実だけだった。


「私はどこにも行けないし、何にもなれないのに、あなたはどこにでも行けて、何にだってなれるんだね……!」


 誰も美冬を振り返ろうとはしなかった。秋人を乗せた車が遠ざかる。晴れ渡った空に少女の慟哭が響き、広がり、消えてゆく。


 村はずれの空き地に春なお残る処女雪が、温かな光に溶けてゆく。

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