第16話 口移し

 趣味は良いが、生活感の乏しい美麗な洗面所で、しっとりした質感の、香り華やぐ洗顔クリームを貰い、化け物呼ばわりされた化粧を落す。

 滑らかな肌触りはため息モノで、泡立てればふっくらした柔らかさが生まれた。

 これを頬へつけて引き延ばす。

 撫でるだけでもマッサージ効果があるらしく、非常に心地良い。

 数回水で流せば、化粧どころか毛穴の汚れも消えたような爽快感がある。

 おもむろに宙へ伸べた手を上下に揺らす。

 濡れた顔を拭くためのタオルがないのに今更ながら気づいた。

 仕方がないと袖口で拭こうとすれば、ふわり、柔らかな感触が手へ落ちた。

 押さえて水気を取り、泉の口をついて出てきた礼は、

「ありがとうございます、ワーズさ……あ」

 引きつった不遜な笑みに迎えられた。

 煙管を咥えたまま、苦く甘ったるい煙を横へ吐き出し、組んでいた腕を解いたシウォンは、未だ人間姿の青黒い髪を掻く。

「不愉快だ、小娘。俺をワーズと違えるなど。本来ならその喉、潰してぇところだが」

「あ!」

 口元のタオルが剥ぎ取られ、条件反射で後を追う。

 伸ばす手を遊ぶように誘導され、穏やかな灯りが点々と燈る通路へ。

 結局タオルは手に入らず、絡め取られた手ごと腰へ腕が回り、捩る間もなく顎を持ち上げられた。

 じろじろと無遠慮に眺める緑の瞳は、化粧が完全に消え去ったのを念入りに確認し、愉しげに微笑む。

 至近の美貌へ恐れをなし、自由な手でどうにか逃れようとするが、肩や胸を押してもビクともせず、足をばたつかせたところで回された腕も動かない。

 そんな泉の抵抗を面白がる風体で、シウォンは腕一本で更に抱き寄せてきた。

「ひっ」

 思わず仰け反ると、今度は自由であった手に指を絡ませ、引いてはクツクツ嗤う。

「何をそんなに怯えてやがる? こっちは珍しくきっちり手順踏んでやろうってぇのに。……お前がイイ反応するから、省きたくなるじゃねぇか」

 これは確かに……毒だ。

 労わるように弄る甘く低い声音と、不遜であるにも関わらず慈しむ緑の瞳。

 耳と唇をくすぐる吐息は、苦く甘ったるい煙の中で、酔わせるが如く熱い。

 引かれた先では手が幾度となく組みかえられ、滑るように柔らかく撫でる指が、遠い心臓の鼓動を急きたてる。気を抜けば自ら望んでしまいそうな雰囲気に耐えつつ、それでも赤らんでくる頬に戸惑う。

 目を逸らせない様子を受け、満足そうに頷いたシウォンは、唐突に拘束を解いた。

 へたり込みそうになる足で床を踏みしめ、胸を押さえて籠もった熱を吐き出す。

「ほお? 耐性がねぇな」

 からかう声と共に項垂れる泉の顎下へ手が這わされ、犬やネコを喜ばせるように撫でつつ、またシウォンへと向かい合わされる。

「は、離してください」

 熱にあてられ潤みを帯びたこげ茶の眼で喘ぐように訴えれば、シウォンが喉で酷薄に嗤った。

「離せ、か。……いいぜ、離れろよ。何せお前に触れているのは、この手だけだ。勝手に離れりゃイイじゃねぇか」

「ぅううう……」

 引き結んだ口元から恥じる声が漏れ、逸らされない視線の先で、緑の瞳が面白いと揺れている。

 シウォンの言う通り、一歩下がるだけで離れるのは可能だが、頬、首筋、背の順に移動する手から逃れられない。

 逆に背を押されては抗えずその胸へ招かれ、恨みがましい視線を投げつけるのみ。

 決して自分の意思ではない、心を介さない行動の答えを求めていれば、

「んん? あーなるほど、耐性がないわけだ。ワーズの野郎、また面倒臭がりやがったな?」

「ワーズ……さん?」

 口にすればすっと芯を冷やす名。

 背に回された手が再度顎下へ向かい、下唇が撫でられる。

 壊れ物を扱う繊細な動きとは裏腹に、目の前の顔は忌々しげに吐き出した。

「奴の名にイイ反応してんじゃねぇよ。煙の説明一つ、お前にしない、薄情な奴だぜ?」

「煙?」

 問えばにやりと嗤い、顔を背けて煙管を吸う。

 長い一服の後、煙管を離すと同時に泉へ顔を戻しては、額を付き合わせる。

「あの――――っ!」

 たじろぎ開いた口へ、シウォンの肺を巡ったであろう煙が吹き込まれた。

 多量のソレだが、咳より先に冷めた芯が熱せられる。

 これ以上吸ってはいけない、と口を塞げば、眼前の緑が潤みに揺らめき嗤う。

「どうだ。イカレそうだろう? これが煙だ。効果は種によって異なるが、人狼なら今の俺を見りゃ分かる通り、本性を奪う。人間なら今のお前のように従順となる――が」

 額を付き合わせたまま、煙管を吸っては手を剥がして泉へ向けて吐き、その顔が更に赤らむのを眺めてから解放する。

 今度は立っていられず座り込み、小さく咳を繰り返す端で、白い衣がしゃがんだ。

「お前、陽に当たり過ぎていたようだな? なるほど、だから昨日は残り香程度で……。普通はな、口移しでもしなけりゃ、そこまで相手の意は反映しねぇ」

「は、反映?」

 顔を上げれば伸ばされる手。

 喉が小さく咳をしても構わずシウォンを見つめれば、腕を取られて引き寄せられる。

 縋りつき交わす視線、にやにやした嗤いの中、陰りを帯びる双眸が間近に迫る。

「そうさ。今のお前の姿は俺が望むお前の姿だ。俺に従順且つ、俺の全てに熱を孕み悦ぶ。ただ触れられるだけで心地良い熱を感じるだろう? それが、お前に対する反映……」

 真実味を帯びる緑の眼。

 招く吐息に撫でられた唇が、呼応するようにシウォンのソレへと向かう。

 胸の内では制止を叫ぶ自分がいるのに、自然と目を閉じては悦びから震える目蓋に焦る。

 触れる柔らかな温もり。

 ――――瞼の。

「へ?」

 予想だにしなかった箇所への口づけは、泉の目を点にした。

 その先で、甘えるように額を合わせたシウォンが、煙管へ口をつけつつ、意地悪い笑みでおどけた顔をする。

「ご不満、だったかな? お嬢さん。残念だが、俺はこういうやり方は好かん。煙で意思を捻じ曲げるのも……下らん薬でどうこうするのも」

 クツクツ喉が鳴り、引き寄せられては頭を抱かれる。

「じゃあ……どうしてあんな手紙」

 跳ね除ける機会を失い、まだ眩む熱で上を見たなら、腕を引かれて共に立つ。

 腰を抱く腕、寄り添う身体、降りてくる唇。

 自然に受け入れたのは頬で、完全に相手のペースに乗ってしまったと泉は悟った。

 余韻が残らず馴染むよう、シウォンの指が頬を這う。

「さてな。俺にも分からん。ただあの時は、すぐにでもお前が欲しかったのだろう。こうして内にあれば、後悔しかないが…………すまなかった」

 低い謝罪。

 苦笑をていした表情が、赦して欲しいと訴えかける。

 煙のせいでは決してない熱が徐々に巡り、泉の視界はぐるぐる回る。

 頬に添えられた手が上向くよう促す。

 視界の先で、鮮やかな緑の双眸が潤む。

 近づいた温もりは唇を過ぎて、降りたのはその横。

 またも違えた感覚なれど、至近で触れるがゆえの錯覚が襲う。

 助長するように、ぺろり、舐められた。

 鼓動が一つ、大きく跳ねる。

 離れた涼しさを確かめるべく、無意識に手が動いたなら、更に下がった青黒い髪を捉えた。これを合図に、いつの間にか下げられていた手が紅の衣を押さえ、鎖骨の下がしっとり濡れた。

 途端、泉の前身が真っ赤に染まる。

 下げられた頭が上がれば、つられて泉の手が上がり、だらしなく下がる前に、シウォンに取られて彼の頬へ寄せられる。

「一つ、忠告してやる」

 言うなり手の平へ口づけ、そのまま流し目を腕の中のこちらへ向けた。

 離しては返し、持ち寄った煙管の吸い口を泉の指で支え吸っては、甲へ頬を摺り寄せ、嗤う。

「ククク……なんて顔していやがる。もっと気丈に拒む様を予想していたんだがな?」

「……抵抗されるの、好き、なんですか?」

「ほお? 好む、と言ったら従順にでもなるのか?」

 面白そうに目を細め、また煙管を吸っては手を解放。それを泉がのろのろ取り戻す様を眺めつつシウォンは言う。

「忠告だ、小娘。朝まであまり俺を煽ってくれるな。俺が今吸っている煙は、数多ある煙の中でも酷く毒性の強いものでな。人間相手じゃ他の煙とほとんど効果は変わらんが、人狼相手では本性を殺す。この意味、分かるか?」

 身体に悪いなら吸わなければ良い――と言いたいところをぐっと抑えて首を振る。

 けれどシウォンには、呑み込んだ意を察せられたらしく、何故か賢い選択だと頭を撫でられた。

「そうだ、煽るな。煙がある限り、戯れに触れる程度で満足できるが……本性を取り戻した途端、俺がお前をどうするか、皆目検討もつかんのだ。ただ交わる程度で済むかどうか」

「…………」

 とんでもない告白を受けて、今の今まで赤くなっていた泉が白い目を向ける。

 これを真っ向から受けたシウォンは、煙管を噛んでにやりと嗤った。

「それで良い。とりあえず朝まで俺はコイツを手放せないからな。覚悟を決めて貰うついでに楼内を案内してやる。存分に愉しめ。…………どうせしばらくは足腰が使えんのだから」

 ぼそり、最後は小さく吐かれた言葉。

 意が測れては腕の中、熱を宿す代わりに大仰な溜息をつく。

 ペースには乗せられようとも、全てを呑み込まれないように。

 諦めたわけではないが、一人で脱せる状況でもなし。

 誰を頼っても良いのか分からない今、泉ができるのは、その程度のことだけ。

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