第三節 お散歩日和と目覚めの君
第1話 ないない尽くし
泉がむくりと起き上がれば、そこは見知った芥屋の自室。
自分の仕上がりでは決して在り得ないふわふわした頭を擦り、ついで頬を軽く押す。
むにっとした感触だけが指に伝わった。
何だか不思議な感じがして、浴衣に似た薄緑の襟を肩までぐいっと引っ張った。
寝ぼけに加えて自室という安心感から、露出する肌も構わず見たそこは、青痣すらない健康的な肌の色。
そのまま布団を跳ね除け大胆にも裾を捲ったなら、太腿も同様の血色を見せており、試しに押しても頬より張った弾力が返るのみ。
乱れた服も直さず、自分の身を抱くように、患部だったはずの箇所を押し撫でるが、やはりどれも反応に痛みはない。
「…………夢?」
口にしたものの、再度触れた髪の仕上がり、着る機会のない浴衣が不自然過ぎる。
一体どういう状況なのか考え、けれど寝過ぎた時に似た頭の重みが思考の邪魔をする。
と、何者かが廊下を歩く音を聞き、はっとする泉。
大慌てで乱した浴衣を整えれば、遠慮なく開けられた扉から黒一色の店主が現れた。
「わ、ワーズさん! せめてノックを――――」
「やあ、泉嬢、おはよう? 具合はどうだい?」
布団の上で顔を羞恥に染めて吼えようが、まるで気にしない店主は、泉の横へ腰を下ろすなり、断りもなく頬へ触れてきた。
慈しみに満ちたそれは、抗議の口をぱくぱく開閉するに留め、身体の動きまで止める。
これを好機ととったような淀みのない滑らかさで、首と肩と太腿を白い手が巡る。
「大丈夫そうだねぇ」
「!」
最後にくしゃりと頭を撫でられては、泉の顔が音がしそうなほど朱に染まった。
無茶苦茶な動きで背後へ後ずさる。
ごんっと鈍い音が後頭部から響けば痛みに呻き、「泉嬢?」と心配そうな声が近寄れば手を振った。
ワーズが触れた箇所から、昨晩の出来事が現実だと知れたが……。
ここでようやく、声が追いつく。
「な、なななななななななななにするんですか! 今のは完璧セクハラです!」
「……せくはら?…………って、何?」
「…………え」
訴えてやる勢いで伸ばした指先に、同じ形状の指が触れる。呆気にとられた焦げ茶の瞳の中で、布団の上にしゃがんだ黒コートが首を傾げていた。
問う混沌に混乱して、緩く指先を上下に振れば、黒いマニキュアの爪が同じく振れた。
「……えと、マゾって分かります?」
混乱し過ぎた泉の頭に、目深帽の少女が浮かんで尋ねれば、ワーズは真逆に首を傾げて言う。
「被虐性愛者って意味だっけ? んー、そういやボク、似たような感じの言葉を昔言われたことがあってさ。このさど! って、どういう意味か分かる、泉嬢?」
「うっ……」
どこのどいつだ、そんな言葉を吐いたのは。
確かに、傷の完治を知る名目で患部を容赦なく握ったり、人間でなければそれ以上の無体を働きながら、へらへら笑う店主はその類かもしれないが……。
「ど、どこが似てるっていうんです? ただ単に音が二つってだけじゃ」
「ああ、言われてみれば。でも前に、このマゾ! って言われて悦んでた人間いてねぇ、響きがなんだか似てるなって思ったんだけど……」
「…………そ、そうですか」
「やっぱりボクも悦ぶべきなのかなぁ?」
「…………………………止めてください」
「そお?」
思案げに銃口をこめかみへ当てながらも、未だ付き合わせたままの指。
これを放すでもなく降り続ける泉がため息を吐けば、「で?」と疑問符が聞こえてきた。
「せくはらって、何?」
「……それ、説明させること自体がセクハラなんですけど…………」
「?」
本気で分かっていない様子に深く息を吐き出しては指を引っ込める泉。
すると、鏡のように同じ速度で白い手が退いた。
それでも混沌の問いは向けられたまま。
仕方ない、意を決して言う。
「……ワーズさん」
「うん?」
「御免なさい、私、雰囲気で使っただけで、意味はよく知らないんです」
これでも嘘を付くのは得意な泉。
胸を張れない特技ではあるが、ワーズが「そうなんだ」と納得してくれたのだから、よしとしておこう。
実際、説明を乞われて明確に答えられない単語なんて、ザラにあるものなのだから。
そう結論づけて立ち上がり――いきなり膝上まで捲られた浴衣。
「っ!!?」
「うん、こっちも大丈夫――っとと」
するりと撫ぜられた膝を一歩引けば、追ったワーズがバランスを崩して倒れた。
これに対して泉は無用心に近寄ることはせず、念のためもう数歩下がってから、
「ワーズさん……大丈夫ですか?」
セクハラと言う言葉をごっくり呑み込んで訊く。
「んー、平気。泉嬢の膝も良くなってるし」
両手をついて起き上がったへらり笑う赤い口に、泉は忘れていた怪我を思い出し、今度は自分から裾を捲って膝の状態を確かめる。
「……本当だ……擦り傷だったのに」
尋常ならざる回復力だが、また何かしら呑まされたのかもしれない。
そしてそういう類は決まってゲテモノなのだから、聞かぬが華。
無事な身の上を喜んで、一切無視してしまおうと堅く心に誓う。
「……で、ワーズさん。どうしたんですか? こんな、朝早くに」
薄暗いカーテン越しの陽射しは夕焼けにしては朱がなく、かといって滲む光はまだ弱い。
朝食を作るために呼ぶとしても、まだ時間はあるはずだが……
ふと考えれば、薄暗い室内の布団の上に男女が一人ずつ。
セクハラどころの騒ぎじゃないくらい、危険である。
これがワーズでなければ――――
いや、ワーズさんでも充分危険だって! しっかりして、私! )
碌でもない発展を遂げた想像の修正を図るべく、両頬を軽く張ったなら、いつの間にやら立ち上がって布団から退いたワーズが、銃口を頭につけて笑った。
「どう……って、ずっといたんだよ、ボク」
「…………へ?」
「ちょっと席を立ったら、泉嬢がその間に起きただけで」
「い、いつから?」
「だから、ずっと」
「……具体的にお願いします」
丁寧にお辞儀をすれば、コツコツ時を刻むように銃口がシルクハットのツバを弾く。
「んー、泉嬢が寝てからずっと、かな? 店番にはラン使ったから、ボクは心置きなく泉嬢の看病に専念できたよ」
「…………そ、そうですか……それはお手数を……」
たぶん、理解してはいけないんだと泉は思った。
側にいたことはもちろんのこと、看病の内容は、特に史歩の名が出てこない以上、理解してはいけない、と。
思った上で、様々な理由で全身を赤に染め上げ卒倒したくなる気持ちを、泉は押し殺し――――
* * *
へらへら笑ったまま居続けるワーズを締め出す直前、手渡されたのは見覚えのある蝶の刺繍が施された濃紺の服。
あれから完成させたらしいスリット部分には、滑らかな肌触りの薄絹が何重にも張られており、これはこれで、望ましくないモノを煽りそうな妖しい出来栄え。
それでも袖を通しふわふわの髪を整え、自室を出れば、むぎゅっと何かを踏んだ。
「すみませ……ん、というか、ワーズさん。どうしてそんなところに立ってるんです?」
白い靴下をすぐさま避け、黒い靴下を辿れば、てっきり一階で朝食の材料でも選んでいると思っていたへらり顔がある。
思わず一、二歩、無意識に下がる泉。けれど、逃げ遅れた右手が優しく絡めとられたなら、些か乱暴に黒い腕の中へ招かれてしまう。
「!?」
似たようなことをした青黒い人狼へは、がむしゃらに抵抗を試みた身体だが、緩い拘束にも関わらず黒一色の身からは離れようとしない。
まるで泉の存在を確かめるように、髪を梳き、あやす動きで背を叩く左手。
銃を携えた右手は踊りを誘うていで、腰に添えられている。
「ぅわ、ワーズさん……?」
小さく、黒い胸へ向けた名は、背後の泉の部屋の扉が閉まったと思しき軽い音に遮られ、泉の耳にすら届かない。
黒いコートを簡単に引き離せるはずの腕は折り畳まれたままで、拒める手の平は黒い布を軽く握ったまま。
仕舞いに鼻腔を擽る安堵の香りが届けば、知らず知らず、泉の身体はワーズへ傾く。
すると、黒い腕が泉から離れた。
失った温もりを追うべく自然と上がった顔は、自分の状況を思い出して固まった。
至近にあるのは黒いシルクハットの白い面。
その柳眉が少しだけ顰められて見えたのは一瞬のことで、あとはへらりといつも通り、血色の笑みがぽっかり浮かぶ。
「うーん。服はよく似合ってるんだけど、ダメだったねぇ。泉嬢、結構走ったみたいなのに……太さは維持されたまんま」
「…………はぃ?」
ワーズの言葉を理解するまで数秒かかり、その間、泉の身体はワーズの手によって彼から離される。
泉が肌寒さを感じる暇もなく、理解した言語に顔を青褪めさせたなら、元凶は呑気に離した彼女の頬へ手を当て、労わるように撫でた。
「怪我、癒えたばっかりだけど、今日、実行しとこうか」
「…………え……と?」
柔らかく宥める感触に頭が真っ白になったなら、優しかった指がふにっと軽く、泉の顎下を摘んだ。
「日中の奇人街の散策。ああ、でもここのラインは問題なさそうだねぇ」
「!」
その呑気な言い草に、泉は思いっきり顔を上に逸らし、数歩下がったところでちょっぴり涙する。
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