第12話 凶相と、下戸
そこに佇む姿は、紛れもない人狼だった。
それも、特に関わり合いになりたくない手合いの。
怒り肩の体躯は筋骨隆々で、着用している服がはち切れんばかり。太い腕は泉の腰ほどあり、地につく足もどっしりした重さ。人狼特有の鋭利な爪は黒く、全てを切り裂いてもなお欠ける気配を感じさせない。パーツ一つ一つが目を引きながら、それを殺さないバランスの良さは、高い背のなせる業か。
上に収まる頭も、そんな身体に見劣りしない凶悪さがあった。
剥かれた牙はどれも白く鋭く、血に餓えた眼は闇に在ってなお鮮やかに周囲を見下し、張りつめた耳は些細な音も聞き漏らすまいとしているようだ。
醜悪とは異なるが、一目見て、本能的な恐怖を呼び起こすほどの相貌。
シウォンが金も力もある嫌味な色男だとするなら、この人狼は血に飢えた獣そのもの。
ごくり、干からびた喉が鳴ろうとするのを必死で止める。
早く去ってと祈る気持ちで、おぞましい姿を目で追えば、視線がこちらへ向けられた。
射抜かれ、呼吸が出来なくなる。
それでも建物の影、見えることはないのだと言い聞かせる。
しかし、人狼はそんな泉の願いを嘲笑うように近づいてきた。
一層青褪めながら、アレは己の姿を見つけたわけではないと、儚い願いを抱くが――
分かっていた。
その目がしっかりと泉の目を捉えていることに。
この場合、誰を思えば良いのか。
奇人街の誰もが恐れるという猫か、問答無用で全てを斬り伏せる史歩か。
けれど、泉の頭に浮かんだのは、何の因果か、目前に迫る人狼相手に何ができるとも思えない、黒一色の白い面、血色の笑み。
(ワーズさん――!)
お守りのようにその名を心の中で叫び、迫る恐怖から目を閉じ身を竦ませる。
あと数歩の距離。
最後に見た光景から読み取る、見つかるまでに残された時間は僅か。
だが、いつまで経っても伸ばされる爪はなく、荒げられる声もない。
もしや、目が合ったのは錯覚で、やはりこちらを見つけてはいなかったのではないか。すでに立ち去っているのでは……?
降って湧いた一縷の望みにかけ、気力を振り絞って顔を上げた泉。
件の人狼は――願い虚しく目の前に留まっていた。
思わず上がりかける悲鳴。だが、どこか様子がおかしいことに気づく。
確かに人狼との距離は近いまま、しかしその目は先ほどとは違い、こちらではなく街灯、あるいはその先を睨みつけていた。
「……くっ」
容姿からは想像できない、やけに若い声が忌々しく噛み締められた牙から漏れる。
と、目の前にいた人狼の姿が忽然と消えた。
それが倉庫の屋根へ跳躍した結果と気づく直前、かしゃんっ……と物が割れる軽い音と共に、上から硬い物が落ちてきた。
「ひぃっ!?」
人狼を探すことで察せた、直撃しそうなソレ。間一髪で転がり逃げた泉は、そのまま振り返ると、先ほどまで自分がいた場所を仰ぎ見た。丁度、真上に位置する屋根縁の瓦が、数枚なくなっているのを目撃する。
「…………し、死ぬかと思った……」
見て理解した危機に、そんな感想が遅れて出てきた。
と、いきなり街灯の明かりが遮断された。
何……と思う暇もなく、飛びついてくる人影を認識するが、避けられるほど遠くにはおらず、
「おおっ! 我が娘! 会いたかったぞぉ!! おじさん好みの子には逃げられたが、君がいるなら我慢しよう!!」
「ぎゃーっ! き、キフさんっ!? さ、酒臭っ!!」
押し潰された挙句、身を起こすと同時に赤毛の中年に抱き締められつつ頬ずりされて、泉の顔色が真っ青になる。
「き、気持ち悪いです! 放してくださいっ! 髭痛い!」
「ああっ、いつもながらつれないんだね、お嬢さん!! いやしかし、それでこそ我が娘っ!」
「いやあっ! あなたの娘になんかなった覚えありません! やめてください、離れてください、いえ、それよりも!!」
ぐっと拳に力を入れて打ち込めば、「ぐふぅっ」と呻いて胸を押さえ、縋る腕から十歩ほど退いた。猫を求めたいつかの日と似た力を感じた左の拳は、あの時以上の威力を見せて、紳士ぶった成金紛いの格好を悶えさせる。
「うぐ……な、なかなかの成長っぷりだ、お嬢さん。おじさんが教えられることはもう、何もないっ……!」
「勝手な世界に浸らないでください! そ、それよりここって――」
「……うえぷ……ちょ、タンマ、お嬢さん…………は、吐く」
「え……えええええええっ!? ま、待ってください、ここ、袋とかないですよ!?」
青白い街灯よりも蒼白に染まった顔が、赤い髪の下の濃ゆい相貌に宿っている。今にも吐瀉されそうな膨らみを頬に持ち寄り、口を両手で覆いだしたキフをどうしたものか分からず、泉は意味なくわたわたする。
「ぶ……げ、限界…………」
「ひえっ!? キフさん、そこはっ…………川?」
道端で酔いどれの落とし物なぞ広げないで、とドン引きの泉だったが、キフが身体を柵に引っかけた際、小石が落ちたような水音を聞いて我に返った。
――のも、束の間。
「うっ」
――――――――――――――――――――ぇうぷっ……
どれだけの物を詰め込んでいたのか。
判別しかねる音と、追いかけて上がる水の無上な響きが、泉の耳を不快にさせた。
(…………唯一の救いは、ニオイが感じられないってことだけね)
青い顔と白い目で、キフのあられもない後ろ姿を眺めていた泉だったが、その背が苦しげに咽ると、慌てて擦ってやる。
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