1章 7月の消えた日 エピローグ
木造校舎の教室らしき空間。
その一室が、海底のごとく重苦しい沈黙に包まれていた。
永遠の6月。
その得体の知れない一言が、水面に浮かぶ余地のない重石となって場にいる全ての人間にくびりついているのだ。
人外の猫又だけが、縁側にいるかのように呑気に欠伸をしている。
「そろそろ眠くなってきたにゃ。他にも色々説明しなきゃいけないんにゃけど、駆け足でいいかにゃ?」
「ちょっ、ちょっと待ちなさいよ。なんで6月が永遠に繰り返されんのよ!?」
「にゃあにはその答えを口にする権利はないにゃ。伝えられることは今から説明するから、しばらく静かにしていてほしいにゃ」
「大人しく黙ってろっての!? そんなのムリに決まってるじゃんッ! そもそもあんたは一体……っ」
猫又は舌打ちを――そう、確かに舌打ちが聞こえた――して、上体を倒し四つ足になって身をかがめた。
途端、ヤツの尾がぐにゅっと変形し、先端が鋭く尖って、要津の鼻先に突きつけられた。
瞬く間の出来事で、それが現実に起きたことだとすぐには理解できなかった。
「逆らってんじゃねえよ人間の分際で。次に口開いたらその目ん玉串刺しにすっぞ?」
凍り付いた空気の中、要津はわなわな震えながらもどうにか首を縦に振った。
猫又は尾を収めて元通りに二足立ちになり、軽く肩を竦めて言った。
「まず、ツユバライについてにゃ。まあ言ってしまえばそれは、この世界の名称にゃ」
猫又は四足歩行になって窓の方へ跳ねていき、端の机の上でくるっとこちらへ振り向いた。
「こっち来て見てみろにゃ」
俺等は無言で猫の言葉に従い、窓際へ行った。
外を見やると、そこには歴史の教科書で見たような、昔の日本の光景が広がっていた。
「……平安、いや、鎌倉か?」
「多分、江戸か明治ぐらいだと思うよ。長屋が存在してるし、ほら、タバコを吸ってる人もいるよ」
猫又はちょっと目を見開いて雪奈を見やり。
「おみゃあ、人間のクセに物知りだにゃ。ちょっとビックリにゃ」
「別にこれぐらい、一般教養だよ。でもちょっと変だよね。この街、江戸にしては少し国防に関心が高すぎるよ」
「どういうことだ?」
「江戸時代っていうのは世界的に見ても至極平和な期間が長く続いて、そのせいで国民も闘争意識が薄れていたはずなんだ」
「まあ、黒船が来るまで国外への意識が薄かったうえに、国内も家康が天下統一してから大きな戦もなかったしな」
「だけどそれにしては、この街は今まさに戦争をしているかのような作りになってるんだ。道はできるだけ細くして、複雑に入り組ませている。これは敵が街に攻め入ってきた時に、進軍を遅らせる意図で街自体を国防目的で設計している証拠だよ。そうでもないと、こんな不便になるように建物を配置する意味がないからね」
雪奈は教室をぐるりと眺めやって続ける。
「それにこの室内は、どうあっても江戸、明治時代には存在するはずがないんだ」
「まあ、椅子とか机って西洋って感じだもんな」
「ううん、椅子とか机の概念自体は、江戸の頃にはもうあったはずだよ。デザインもいたってシンプルだから、たまたま作ったらこうなったって説明されたら納得できないこともない。だけどここが学校だとしたら、話は別だよ」
雪奈はひょいと机に飛び乗る。狭い天板は、小柄な彼女が載っただけで満員になる。
「おい、行儀悪いぞ」
「お兄ちゃんも隣、どう?」
「いや、無理だろ。そんな狭いスペース、お前一人で定員オーバーだって」
「うん、それ。それが違和感の正体」
「……えーっと、どういうことだ?」
「江戸から明治に移り変わる頃に学校ができたんだけど、その時は複数人で共有する長机が使われていたんだ。だから個人用の机が存在するのはおかしいんだよ」
「つまり備品が近代用だから変、ってことか」
「それとこのイグサの香り。壁にかけられた灯台から漂ってるんだけど、これも江戸や明治には考えられないものだね」
「江戸の頃の証明って、ああいうのじゃないのか?」
「お兄ちゃんも時代劇とかで、提灯がぶら下がってるのを見たことない? ろうそくは長らく希少品だったんだけど、江戸に入った頃には産業が発達して広く普及し始めたんだ。だからこうやって近代的な部屋に灯油の照明が存在するのはおかしいんだよ」
「お見事にゃ、実にお見事にゃ」
猫又は雪奈に向かって肉球を打ち付ける。拍手でもしているつもりなんだろうか。
「この部屋や街並みに対して疑問を持たれるのは予想してたんにゃけど、まさかそこまで詳細に突っ込まれるとは思ってなかったにゃ」
雪奈はそれに取り合わず、続けざまに探りを入れる。
「猫又ちゃん。ツユバライっていうのはタイムスリップした江戸じゃなくて、完全なる異世界なの?」
「その通りにゃ」
「この街は陸地戦に機能する作りそのもの。まさかここが、雪奈たちが6月を抜け出すためにかかわってるなんて言わないよね?」
猫又の口が、醜悪に歪む。
「察しがよくて助かるにゃ。おみゃあ等はこれからこの街で、6月を抜け出すために必要なあるものを手に入れてもらうにゃ」
「なっ、なんだって!?」
黒木が顔面を蒼白にして叫び、黒猫へと迫る。
「あの子が言ってることが本当なら、この世界では戦争が起きてるんだろう!? そんな場所にボクなんかが行ったら、しっ、しっ、死んじゃうじゃないか!?」
黒猫は軽く肩を竦めて首を振り。
「安心するにゃ。ツユバライでは現実のおみゃあたちにはない、特別な力が使えるようにしてあるにゃ」
ふと俺の脳裏に閃くものがあった。
「それって、異世界転移と転生でお約束のチート能力か!?」
「チートというほどではにゃいけど、ツユバライの中の下級な敵には対抗しうる力が使えるようにはしてあるにゃ。後は各々が強化して、より強い敵に挑めるようにしてほしいにゃ」
「……なんだ。つまり、RPG方式ってわけか」
「なんだとはなんにゃ。これでもにゃあなりに気遣いをしてやってるにゃ。本当なら生身で挑むベリーハードモードでもよかったにゃよ」
「いやまあ、ありがたいのかもしれないけどな……」
「……質問」
今まで黙りこくっていた浦野が、初めて自分から口を開いた。
ちょっと驚いている俺たちを他所に、彼女は淡々と述べる。
「この世界の目的を、端的に」
そこで言葉を止める。続きがあるのかと思ったが、それ以降浦野は口を開かなかった。
ややあって猫又は言った。
「おみゃあたちには、ここでツユバライという一振りを探してもらうにゃ」
「一振りってことは、つまりツユバライは刀なの?」
皆が抱いているだろう質問を、雪奈が代表して訊く。
「そうにゃ。世界の名前にして、刀の号。わかりにくかったら、自分たちでどっちか呼び名を変えるといいにゃ」
「今はそれは置いておくとして……。とにかくそのツユバライをみつければ、雪奈たちは永遠の6月から抜けられるってことだね?」
「そうにゃ」
「やーっと単純明快になったし。世界を救うために一つの宝ものを見るけるとか、意外と楽しそうじゃん?」
要津が同意を求めるように見回すも、黒木と小租田は曖昧な顔になり、浦野はフードで表情がわからず、雪奈は他所行きの笑みで「そうですね」と一応は同意しているけどおそらく胸中では「早く家に帰って部屋にこもりたい」みたいなことを呟いていただろう。
俺としてもそういうのはゲームかアニメなどのフィクションの中だけにしてほしいと思っていた。
「何さ何さ。みーんなノリ悪くない?」
「あのね、キミ。もうちょっと人……じゃなくて猫だけど、とにかく他人を疑ることを覚えた方がいいよ。もしここで死んだら、現実のボク等だってどうなるかわからないんだぞ?」
「それは大丈夫っしょ。危なくなったら、いつでも帰れるらしいし。でしょ、猫又っち?」
だが猫又はポリポリと頭を掻いて。
「さっき言ったことを曲解されちゃったみたいにゃし、改めて説明させてもらうにゃ。ここで死んだら、無論現実のおみゃあ等も同時に息絶えるにゃ。まあ、意識さえあればいつでも逃げ帰れるけど、負傷した部分も現実の体に持ち越されるからそれは注意してほしいにゃ」
「ほら見ろ! やっぱり危険はあるんじゃないか!!」
「おじさん心配性じゃん。死にそうになったら逃げればいいって言ってたし。それになんかRPGな能力も手に入ってんでしょ?」
要津に問われ、猫又は両足の肉球をぽんと打った。
「あっ、そうそう。忘れるところにゃった、おみゃあたちスマホ持ってるにゃ?」
みんな自身のスマホがあるのを確かめてからうなずいていた。俺もうなずきかけて、はたと気付いた。
「すまん、ちょっと今は持ってないんだ」
「そうかにゃ……それじゃあ、今からツユバライの攻略に臨(のぞ)むのは無理にゃね」
額に足を当て、残念そうに首を振る猫又。
「ツユバライの攻略に、スマホが必要なのか?」
「永遠の6月が生まれる寸前に、おみゃあ等のスマホに特殊な力がこもったメールが届いたはずなんにゃけど」
「メールってお前……。今のご時世、それは悪手だろ。SNSじゃないとまず見られないか消されるかの二択だぞ」
「消されないのも含めて特殊な力、にゃ。仕方ないから、とりあえず今日のところはこれで解散にゃ」
その一言に弛緩した空気が流れる。
なんとなく気怠い講義が終わった後の雰囲気に似ているな、とぼうっと思った矢先。
「猫又ちゃん、ちょっと待って」
妙に深刻な顔つきの雪奈が、猫又にスマホを突きつけて言った。
「これ、どういうこと?」
猫又は画面を見ても、「にゃ?」と首を傾げているだけだ。
俺も画面を覗き込んだが、血相を変えるほどのものとは思えなかった。
「なんだよ、ただのロック画面じゃないか」
「もっとよく見て。何か気付かない?」
言われて目を凝らしたが、別段変わったことは……。
「……あっ」
ようやく気付いた。
確かに変化しているものが、そこにあった。
「……もしかして、時間か?」
雪奈は無言でうなずく。
00:58
確かツユバライに来る前は0時前だったから、もう1時間は経っていることになる。
「何さ、おっかない顔して言うから、もっとヤバいもんかと思ったじゃん」
「そりゃ、時間は経過してるよ。流れるものなんだからね」
要津と黒木は安堵した顔で言うが、小租田は茫然とした顔で息を呑んでいた。
「……うそ。もう、一時間も……?」
様子のおかしい小租田に、訝しげに黒木が問う。
「どうしたんだい? 何をそんなに……」
「だっ、だって……、うちには子供が……赤ちゃんいるのよ!? それを放ったらかして一時間も……ッ!?」
雪奈はごくっと喉を上下させ、ぽかんとしている黒木と要津に言った。
「小租田さんだけにかかわらず、ここにいる人はみんな現実でも実生活を持っている。それに必要な、大切な時間を、雪奈たちはこのツユバライに捧げないといけないんだよ」
黒木たちの顔から、少しずつ血の気が失われていく。
追い打ちをかけるように、雪奈は続ける。
「まだ雪奈たちはツユバライについて何も知らないけど。もしもそれが、膨大な時間を要するものだとしたら? 十時間、二十時間……ううん。下手したら百時間、二百時間も必要かもしれない。それだけの時間を6月の1ヶ月間から捻出しないといけない……」
「……じょ、冗談じゃないっ。ボクには仕事があるんだぞ!? なのに、こんなことに無駄な時間を使わないといけないのかッ!?」
「それは、その……」
要津が言葉を濁らせた、その直後。
「持ち越し」
浦野の端的な一言が、全ての音を遮り響いた。
その声は俺たちの心にあった焦りや苛立ちを一瞬にして鎮めてしまった。
少しして、雪奈が感心したようにうなずいた。
「なるほど……。それなら、時間の消費をほぼゼロに抑えて6月の時間を確保することができるね」
「……あの、俺にもわかるように教えてくれないか?」
雪奈は人差し指を立てて、空に弧を描いて言った。
「雪奈たちのこの世界での目的が、ツユバライっていう刀を入手することっていうのは理解してるよね?」
「まあ、な。散々言ってたし」
「要点は、その目的をいつ達成するかということにあるんだよ。6月30日に達成すれば、そのまま7月1日に突入してしまい、ツユバライに費やした生活は返ってこない。だけど新たな6月1日に達成すれば、手つかずの30日が残ってる」
「……そういうことになるな」
「なら、話は簡単だよ。今回の6月30日までにツユバライを入手する直前までこの世界で探索を進めるんだ。発見したら、新たな6月1日になるまで待つ」
「なるほど。それで6月1日にツユバライを入手したら残りの時間は現実世界に使えるし、そのまま永遠の6月を脱出することができるな!」
俺の言葉に、黒木たちの表情も明るくなる。
「そうか、だったら今回の6月はツユバライの入手に時間を使って……!」
「次回の6月は、今まで通りずっと現実で過ごせるってわけじゃん!」
小租田も何も言ってなかったが、ほっと胸を撫で下ろしていた。
希望の光に誰もが浮かれていた時。
「残念だけど、それは無理にゃよ」
……嘲笑うかのような声が、外部から水を差してきた。
「ツユバライでのおみゃあたちの行動は、6月30日23:59、59、999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999999……秒になった時点で、リセットされるのにゃッ!」
さっと俺たちの顔から血の気が引いていく。
「……じゃ、じゃあ……。1ヶ月以内にツユバライを手に入れられなかったら……」
小租田の震える声に、猫又は目を光らせて肩を震わせ、
「成し遂げたことはみーんな、何もかもなかったことになって、最初からにゃッ!」
全ての努力が、水泡に帰す。
考えただけで、如何(いかん)としがたい無力感に囚われる……。
「せいぜい、現実世界の時間をやりくりして頑張ってほしいにゃッ!」
乾いた空気の中、猫又の笑声だけがいつまでも飛び交っていた……。
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