1章 7月の消えた日 その2

 うわついた気持ちで俺は家のドアを開けた。

「ただいまー!」

「遅いよぉっ、お兄ちゃんッ!」

 玄関には学校制服を着た雪奈が俺のことを待ち構えていた。

 古きよき紺のセーラー服に赤いスカーフ、左右に髪を垂らした三つ編み。

 二つ前ぐらい時代を遡った三種の神器。

 だがこれは今現在も採用されている、雪奈の学校の制服である。


「どうしたんだ雪奈その恰好はッ!?」

「わわっ、ちょっと近い近いって!」

「いやだって、自宅警備員のお前がまともな格好してるから……」

「もー、お兄ちゃんが見たいって言ったんじゃん。ほらほら、どう? 可愛いマイシスターの制服姿だよー」


 スカートを指先でつまみ、雪奈はその場で片足を軸にくるっと一回転。

 だが運動不足の状態でそんなことをすれば、どうなるかは火を見るよりも明らかで。


「きゃっ……」

 バランスを崩して倒れかける。

「おっと……」

 こちら側に倒れてきてくれたので、難なく受け止めることができた。


「わ、お、お兄ちゃん……」

「危ないな、気をつけろよ」

「……………………」

「雪奈?」

「へっ!? な、なに?」

「大丈夫かお前、熱でもあんのか?」

 赤くなった顔の額に、自身のおでこをくっつける。

 ああ、やっぱり熱い。

「おっ、おっ、おおっ、おおお兄ちゃんッ!?」

「熱あるじゃないか? すごく熱いぞ」

「これはそのっ、……な、なんでもないんだよーッ!」


 胸にバンっと手をやられて突き放され、俺は後ろによろめく。

「なっ、何すんだよ!?」

「何すんだよじゃないよッ! お兄ちゃん、こんな時なのに帰ってくるの遅すぎッ!!」

「こんな時って……?」

「時間のことだよ!! 今日が7月1日のはずなのに、6月1日になってること!!」

「あー、それな……」

 言われてやっと思い出した。

 そういえば俺は、昼前までそのことで狼狽えていた気がする。


「なんでそんな呆けた顔してるのっ!? 時間が戻ったうえに、雪奈たち以外にそのことに気付いてる人がいないんだよ!?」

「んなこと言われてもな……。もしかしたら、夢でも見てたんじゃないか?」

「まるまる一ヶ月を過ごした記憶が全部、偽物だったっていうの?」

「まあ、その可能性もなきにしろあらず、じゃないか?」

 雪奈は眉間にしわを寄せてこちらを睨んできた。

 ふいに大きなため息を吐いて、ぼそっと呟く。

「……お兄ちゃんの、バカ」

「え、なんで今罵倒されたんだ?」

「教えてあげない。ぜーったい覚えてないって、今確信したもん」

「ちょっと待て。そこまで言われて引いちゃあ、男が廃(すた)る。今から全力で記憶をひっくり返して思い出してやらぁ!」


 俺は全神経を脳内に集中させ、あったはずの6月の記憶へアクセスしたが。


「……ダメだ、レポートに忙殺された記憶しか残ってない」

「まあ、だろうと思ったよ。お兄ちゃんの記憶力なんてミジンコ並みなんだから」

「いやいや、それはないだろ!? 俺の方が何倍もデカい脳持ってんだぞ!」

「脳の大きさがほぼ同じ人間だって、お兄ちゃんみたいなソシャゲロボットとN●SAの宇宙開発者ぐらいの差がつくんだよ? たとえミジンコの中にお兄ちゃんと同じ思考回路の個体がいたとしても、おかしくないよね?」

「俺だってソシャゲ以外にもできることはあるぞ」

「ネットの情報をコピペして、レポートを出すとか?」

「……なあ、本当なんでお前はそんなに俺の行動について熟知してるんだ?」


 雪奈は人差し指を一本立て、話し始める。

「行動が単純というか、テンプレ過ぎるんだよ。単一化されてるって言っても過言じゃないよね」

「俺だって日々、色んな事考えながら生活してるんだぞ。行動パターンだってそこまで少なくないはずだ」

「残念だけど、人間の行動パターンっていうのはある程度割り出されてるんだよ。心理学の学問以外でも、ロバート・チャルディーニっていう人をはじめとした色んな人がマーケティングで利用してるしね」

「うわっ、学問とか聞きたくないな……」

「だけど知らず知らずの内に、お兄ちゃんもその手のことにはかかわってるんだよ」

「嘘だぁ……」

 俺が疑念たっぷりに言うと、雪奈は伸ばした指をくるっと回し、やや声音を上げて訊いてきた。


「たとえば、学校に行く途中に中古レコード店の場所をご老人に訊かれたら、お兄ちゃんならどうする?」

「中古レコード店? そんなのわかるわけないし、他をあたってもらうだろ」

「でもお兄ちゃんは、スマホを持ってるよね? それで調べれば、もしかしたらその場所がわかって、教えてあげられるかもしれないよ?」

「うーん。でも学校に行く途中だろ? 時間がなあ……」

「じゃあ、続けて交番の場所を聞かれたら?」

「そりゃ、多分教えるんじゃないか? 場所も大体覚えてるし」

「たとえ遅刻寸前だったとしても?」

「肝心のレコード店を教えてあげられなかったんだし、交番ぐらい教えてあげないと寝覚めが悪いだろ」


 雪奈はくすっと笑って、手近なドアノブに手をかけて言った。

「そう、その心理を利用したのがドア・イン・ザ・フェイスだよ」

「ドア・イン・ザ・フェイス……って?」

「交渉術の一つだね。セールスマンがわざと難しい要求をして相手がドアを閉めようとしたところに顔を突っ込んだところからできた言葉なんだ」

「顔を突っ込んで、どうするんだよ?」

「今度はさっきと比較して簡単な要求をするの。相手はさっき断ってて負い目があるから、その要求はできる限り飲みたくなっちゃってるんだ。さっきのお兄ちゃんみたいにね」

「なるほど。本命の攻撃を当てる前に、相手に防御ダウンのデバフ効果をかけてるってことだな?」


 噛み砕いた解釈の正否を訊くと、雪奈は苦笑いを浮かべた。

「お兄ちゃんの思考って、本当ゲームが基盤だよね」

「やめろよ、照れるじゃないか」

「……まあ、いいけど。とにかく人間の行動っていうのは、割に単純なんだよ」

「へえ。じゃあ、行動が読まれにくいミステリアスな人間になるにはどうすればいいんだ?」

「とりあえず女の子ばっかり出てくるゲームをやめたらどうかな。本能に忠実すぎなんだよお兄ちゃんは」

「バカ言うな。生き甲斐を失った人間はただの屍(しかばね)じゃないか」

「……お兄ちゃんはきっと、ミステリアスって言葉とは無縁で生涯を終えると思うよ」

「あー、それならそれでいいよ。腹減ったし、レトルトのカレーでも食うかな」


 台所に向かって歩き出すと、雪奈が慌てて駆け寄ってくる。

「待ってよっ。6月1日に戻ってたことはどうするの!?」

「どうするのって言ったって……。どうしようもないだろ?」

「そんなの、思考停止だよ」

「他の方法なんてあるか?」

「原因を突き止めないと、また同じことが起こる。……そんな気がするんだよ」

「まさか。俺達は夢を見てたんだよ。幻の6月っていう、あり得ない夢をな」

 納得がいかないのか唇を尖らせている雪奈の頭を俺は軽くぽんぽんと叩いてやった。


「大体、現実的に考えて1ヶ月も時間が戻るなんて現象、起こるわけないだろ?」

「……それは、そうだけど」

「だからさ、もう忘れよう。前の6月なんて、なかったんだよ」

 なぜか雪奈は眉尻を下げて俯いてしまった。


「どうしたんだ?」

「……なんでもない。そうだよね、6月なんて……最初からなかったんだ」

「そうそう。……夕飯、どうする? 久しぶりに出前でもとるか?」

「ううん、別にいいよ。お兄ちゃんと一緒に食べられるなら、何でも美味しいから」

「嬉しいこと言ってくれるな。そうだ、久しぶりに何か作ってやるか?」

 腕まくりしながら言うと、雪奈はちょっと顔を逸らしてぽつりと言った。

「えっと……じゃあ、……ハンバーグがいいな」

「おし、任せろ。腕によりかけて作ってやるからな」

「うん。楽しみに待ってるね」


   ●


 夕食を追えて片づけをし、今は自室のベッドにごろんと寝転がっていた。

雪奈が風呂から上がってくるのをゆっくり待っているのだ。

その待機時間は、いつもならゲームに使っていた。だが今はそんな気分になれなかった。

幻の6月。雪奈にはそう告げたが、俺の中にも確かにその記憶のいくつかは鮮明に実感を伴い、生々しく残っていた。

大体、あの地獄のレポートデスマーチを忘れられるわけがない。

6月は本当にあったのだ。そしてそれは俺と雪奈の記憶以外から全て抹消され、また何食わぬ顔で再び新しい6月を始めた。


 信じ難い現象。だが信じるしかない。

 俺以外にも雪奈が同じ体験をしているのだから。

 だが一体なぜそんなことが起きたのか?

 人為的な理由だろうか、それとも自然現象か。


 いずれにせよ、この問題はたかが人間二人にどうこうできるものじゃない気がする。

 もしもこの不可解な謎を解き明かすなら、秘密組織や超常現象の研究施設、あるいは幾人かの魔法使いや超能力者の協力が必要になるだろう。


 しかし今の所、俺にはそんな知り合いも心当たりもない。

 ……いや、そうでなくても探しようはあるかもしれない。

 俺は枕元に置いてあったスマホを手に取った。


 文明の利器にして、現代技術の総結集。これさえあれば、世界中のありとあらゆる場所にいる人と繋がることができる。

 俺は指紋認証でロックを解除した後にSNSを開き、いつもより時間をかけてコメントを打ち込んだ。


『今日は本当は7月1日のはずなのに、なぜか6月1日になってるんだが。誰か心当たりのあるヤツいるか?』


 ……考えた割には、いつもの投稿とあまり変わり映えのしない投稿になったな。

 まあ、別にいい。凝った文章で警戒されるよりは、平凡で関係のないヤツには聞き流される程度のものの方がベターだろう。

 あとは何かしら反応があることを祈るばかりだが……。


 しばらく待ったが、返答はない。

 まあ、そりゃそうか。

 いくら世界と繋がっているとはいえ、俺のフォロワーは二ケタ台。

 こんなのご町内の回覧板程度の拡散力しかない。

 どれだけ便利なものがあっても、使うヤツの能力次第でその価値には天地の差が生じる。世界を変えるほどのそれこそ魔法ともなれば、ただの玩具やガラクタ同然にもなる。下手すれば精神をただ汚染するだけの毒となることだって考えられる。


 諦めてスマホを脇に放って、目頭に腕を載せた。

 そのまま大きく一つ息を吐いた時。


「いっ、いやぁあああああッ!」

「――雪奈ッ!?」


 俺は跳ね起きて武器になりそうな灰色のバインダーを手に部屋を飛び出し、階段を駆け下りた。

 雪奈は今、風呂に入ってるはず……いや、声の響き具合からすると、脱衣所か?

 だがどっちにしろ、切羽詰まった状況なのは間違いない……!


 廊下を曲がり、脱衣所のドアを開いた途端――


「おわっと!?」

 雪奈が転げるように走って、こちらへ飛びついてきた。

「おっ、お兄ちゃん、ごっ、ごっ、ゴが、ゴが出たの!!」

「ゴって、あれか? ゴキ――」

「言わないでッ! 言ったらアルミニウムと錆びた鉄でテルミット爆弾作るからね!?」

「……ようわからんが、わかった」

 つうっと背筋に冷たい汗を感じる。

 このままでは雪奈がいつ暴走を始めるかわかったものではない。


「なあ、雪奈。そのGはどこにいるんだ?」

「さ、さっきは洗濯機の下に潜り込んでたけど」

 と、雪奈が説明するやいなや。

 呼んだ? とばかりのタイミングでヤツはカサカサと這い出してきやがった。


「やっ、やぁあああああああああああッ!?」

「うぉっ、ちょっ、そんな抱き着かれたら退治できないぞ!?」

「だってぇ、だってだってだってぇ!」

 涙声で反乱狂になりながらたった一つの単語を繰り返す我が妹。

 Gのヤツはなぜかこちらへまっしぐらに突進してくる。

「ぐっ……、雪奈、一瞬でいいから離れててくれ!」

「うっ、うんっ……」


 雪奈が離れたと同時に、俺はバインダーを上段へ振りかぶり。


「南無三ッ!」


 もぐら叩きの要領でGへと振り下ろし、全身のパワーを右腕に集中させて圧迫してやる。

 一切の音が死滅した静寂。

「や、やったの?」

「おい、それはフラグ……」

 言いつつ、バインダーを持ち上げた瞬間。


 ブルァアアアアアッ!

 黒い物体が羽を上下させて弾丸のごとく顔目掛けて飛んできやがった。

「わっlhぎいぁpふんぐるいaじぇむyぐるうkなふjくとるwふるるpいえt!?」

 絶叫が喉を貫かんばかりに口からほとばしり出る。

 脳内の文字が全て死に変わったその時。


 ぷしゃぁあああああッ!

 霧状の水が敵に吹きかけられ、たちまち前進の勢いを失い、地面にぽとっと落下した。


「……この臭い、アルコールか?」

 雪奈は肩で息をしながら、小さくうなずいた。

「業務用のアルコールスプレーを常備しておいたの忘れてたよ。60%の濃度を越えるアルコールなら、この害虫を窒息死させることができるんだ」

「そうか……。はぁ、死ぬかと思った」

「うん。あの青い狸が銀河を破壊しようとするのも納得だね」

「いや、ありゃ猫だが……それより」


 俺はタオル一枚の妹から目を逸らし。

「……まず、着替えるか服を持って出ていってくれないか?」


 一拍の間を置き。


「――ぅっ、ヤァアアアアアアアアアアアッ!?」


 再び雪奈の悲鳴が家中に響き渡ったのだった。

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