いつか病む雨 ~comment sortir de l'éternité~
蝶知 アワセ
序章 JUNE ~MOIST AIR~
序章 JUNE ~MOIST AIR~
鉛色が空を覆っていた。
多分、鉛色なのだろう。雨雲は大抵、そういう色だ。
仰ぎ見る俺は、天から降り注ぐ水滴を幾千幾万幾億の矢のごとく受けていた。
雨粒は群がることで空の色を隠している。
ただの雨なら、雲の色を隠すなどの芸当は不可能だ。
だが俺には今の雲の色がわからない。
紅い。
紅いのだ。全ての雨粒が。
地に恵みをもたらし、屋根を鳴らし、心に郷愁を覚えさせる雨。
それが今、ゾッとするような朱色に染まっていた。
傘も持たぬ俺は雨の中、立ち尽くして雫に打たれていた。
肌を打つ。生温かい。
その温かさは人肌に触れた時の熱によく似ていた。
それになんだか、臭う。
なんの臭いだ?
俺は記憶に問いかける。
頼りない記憶だ。つい数分前のことすら思い出せない、ポンコツ。
だが人が持てる記憶は一つまでと自然の理(ことわり)で決まっているらしい。不満ではあるが、無力な人間はそれに従うしかない。
……いや、俺はそもそも人間なのだろうか?
手に持った刀に目を向ける。
錆びた銅色。見るからになまくらだ。普通の人間ならば、これでは半紙すらまともに斬れないだろう。
だがその刀は雨のように赤い粘液で濡れていた。
何を斬っていたのか、それは周囲を見ればすぐにわかった。
累々と横たわる人体。すべからく腕や脚、首や胴体からすっぱり斬られている。
そこから溢れたもので、地面は紅く濡れていた。
ああ、そうだ。
雨の臭いはこの粘液のものと一緒だ。
ではこの刀と地面の粘液はなんだ?
わからない。
わからないが、おぼろげながらも記憶が蘇ってきた。
俺は刀を振るっていた。
このなまくらで、逃げ惑う人々を片っ端から切り捨てていった。
男ばかりだった。身恰好からして、農業に携わる者か。
彼等は桑や鎌を振るってきた。
なぜか怒っていたようだ。
いや、怯えていたのか?
『なっ、なんじゃあのけったいな形(ナリ)のやっちゃあ……!』
『きっ、きっと、この辺で昔死んだお侍が妖怪になって帰ってきたんじゃ!』
『やられる前にやれ、ぶっ殺すんじゃッ!』
『じゃが、少しかわいそうじゃねか? あやつぁ、何もしとらんのに』
『おめぇの目は節穴か! よう見てみい、あの手に持った錆びた刀! ぎょうさん人の血ぃ吸わんとああはならん! きっと寸刻前、誰か斬ってきたばかりなんじゃ!』
『そ、そうじゃったんか?』
『人斬り侍に情けも容赦もいらねえ! おめぇ等、やっちまえぇッ!』
遠くにいても聞こえる大声の会話。
そこから先の記憶はない。
気が付けばこの惨状が広がっていた。
ああ、なんなんだ?
一体ここで、何があったんだ?
俺は地面を見下ろす。
ちょうど足元に、ヤツ等が持っていただろう鎌があった。雨雫と人体の液から生まれただろう紅い池に、揺蕩うかのごとく落ちている。
それを何気なく手に取ってみた。
なんの変哲もない、ただの鎌。ごくごく普通の農業用の道具。
刃の部分が空気さえ斬りそうな、冴え渡った光を放っている。毎日欠かさず手入れをされている証拠だ。
俺は魅入られるように刃の部分に触れてみた。
途端。
鎌の刃が赤銅色にみるみる侵食されていった。
一瞬のことだった。
今は元からそうだったように、刃には光など宿らない。ただみすぼらしい凸凹した銅色の表面を晒すだけである。爪で擦ってみたが、剥がれた錆の向こうからはまた同色の茶けた鉄が姿を現すのみである。
「……ははっ、ははは」
笑いが込み上げてきた。
触れた鉄が、錆びていく。
そのなまくらと化した刃で、俺は人を切り捨てていく。
なぜか。理由は分からぬ。
ただそのことが愉快で愉快で仕方ない。
ふらふらと歩いていくと、池があることに気付いた。血の雨が波紋を作ろうとも、長年讃えてきた澄んだ色はなかなか染まらぬようだ。
近くに行き、池を眺めやろうとした。
その水面に映る人影に俺は気付く。
自身の姿だ。異様に細い体、死人みたいに白い肌、光を吸い込まんがごとく淀んだ目、赤茶けた色が滲む服などきな臭い特徴はあれど、妖怪や物の怪の類ではなさそうだ。
だがこの身には、あの不可思議な力が宿っている。ただの人間であるはずがない。
だが、俺は一体何者なのだ?
この力はなんなのだ?
……どうだっていいじゃないか。
人を斬るのは楽しい、人を斬るのが楽しい、楽しいのは人を斬ることだッ!
「クッウウウウウックックック!」
喉から嗤いが込み上げてくる。
「クッ、クックククククキキキキキァーッハッハッハッハッハ!!!!!!」
嗤えば嗤うほど、身体から力が湧いてくる。頭の中にある邪魔っけな何かがぶっ壊れていく爽快感がある。
俺はただ人を殺せばいいのだ、そうだ、殺して殺して、殺しつくす!
殺して……。
「お兄……」
なんだ?
誰かが、呼んでいる。
俺のことか?
……なぜだか、そうだという確信があった。
「……お兄……起……て」
ふわりと、自分の体から魂が抜け落ちていくような感覚。
……消えていく。
心の中の荒々しい感情が。
この声に、身も心も任せたくなる。
……いや、任せていいんだ。
そうすればきっと、何もかも……上手くいくはずだから。
だって、アイツは――
●
「起きてっお兄ちゃん!」
目を開くと、妹の雪奈がいた。
雪奈は兄の尊厳をガン無視して、俺の上に馬乗りになっていた。しかし小柄で体重が軽いため、さほど苦には感じない。
格好は昨日寝る前に見たパジャマ。髪もロクにまとめていない。
まあ、それはいつものことなのだが……。
外からはぱらぱらと雨の降る音が聞こえる。
今日から梅雨明けとかSNSで見た記憶があるが、その結論は少し勇み足だったらしい。
「……雪奈。おはよ」
「おはよ。じゃないよっ!」
「なんだよ、朝から想像しいな。さっきまで変な夢見てたせいで、こっちは寝覚めが悪いんだよ……」
「夢なんてフロイト先生に任せておけばいいんだよ。こっちの方がもっとすっごく大変なんだからッ!」
「あー……なんだ?」
「はいこれっ、とりあえずスリープモードを解除してみて」
渡されたスマホの電源ボタンを押し、ロック画面を表示させる。
9:32。
「なんだ、あと8分は寝てられるじゃないか」
「そういう怠惰なタイムスケジュールを聞いてるんじゃないよ。それにどうせ講義中も寝る気満々なくせに」
「いや、引きこもりに言われたくないぞ」
我が妹、雪奈は社会的身分は中学生。しかし義務教育の身であるにもかかわらず、入学式以降まったく登校せずに二年生に進級し、現在に至る。
「いい加減、学校ぐらい行けよ。お前頭いいんだから、勉強しないで机に突っ伏して寝てればいいだけじゃないか」
「そうもいかないんだよ、今の学生は。お兄ちゃんの頃と違って、アクティブ・ラーニングが導入されるから、板書だけの授業じゃなくなるんだよ」
「……班活動とか発表が増えるのか。面倒臭いな」
「今はそんなこといいんだよ! それより、ちゃんとスマホを見て!!」
「なんだよ……。スタミナは零さないようにちゃんと調整してるって」
「違うよっ、日付だよ、日付!」
「日付? 今日は確か、ソシャゲのイベントが始まるから7月1日――」
スマホの画面には6月1日と映っていた。
6月1日……?」
「おっかしいなあ……。スマホバグったか?」
「……まあ、そういう反応になるよね。じゃあ、一階に来て」
雪奈は背を向けて入り口のドアへ歩いていく。
仕方なく気怠い体を動かして俺も付いていく。
居間に来た雪奈は、つけっぱなしになっていたテレビを指差した。
「あ、ちょうどいいタイミング。ほらお兄ちゃん、観て!」
「わーかったって。朝っぱらからそんな大きな声出すなよ」
俺は雪奈の隣に立ち、テレビの画面に目を向けた。
若い男がこちらを心細そうに見ながら、棒読み口調で告げる。
『……昨日、○○区のビル街で、16歳の女子高校生を殺害した容疑で、30代男性の会社員が逮捕されました』
「うわぁ、またか……」
確か1ヶ月前にも似たようなニュースを見た。
その時も、まだ若い子に酷いことをするなあって思ったっけな。
『殺人に使われたのは百貨店で購入されたナイフで、心臓部に刃の部分が深く刺さっていたそうです』
そうそう、そうだ。昼間のニュースの割には生々しい表現をするなってちょっと気分が悪くなって……。
……え?
頭の中の色素がすっと薄くなっていく。
ちょっと待て。
どうしてここまで、同じなんだ?
確かに似た事件が起こることはあるだろうけど、それにしたってあまりに……。
俺の思考は、女性の潤いを持った声で途切れた。
『次のニュースです』
……いや、考えすぎだ。きっとそうだ……。
『開始一ヶ月後に迫ったオリンピック。その熱気で今、東京中が盛り上がっています』
おお、明るいニュース。
さっきのと落差がありすぎる気がするけど、まあ口直し的な意味合いがあるんだろう。
実際、笑顔の人を見ると気分が和らぐ……。
……って、ちょっと待てよ。
俺は再び頭の中に霜が張ったような感覚を覚えた。
もう一度、キャスターの読み上げた文言を頭の中で繰り返してみる。
開始一ヶ月後に迫ったオリンピック。その熱気で今、東京中が盛り上がっています。
……一ヶ月後?
オリンピックは7月には開始されるはずだ。
それを1ヶ月後、なんて……。
「お兄ちゃん。今日は雪奈たちがなんと言おうと、6月1日なんだよ」
「うっ……嘘だッ!! だって俺、昨日6月末までのレポートを作ってたんだぞ!?」
「じゃあ、目の前の現実をどう説明するの?」
「……ろ、録画だ! 雪奈が俺を驚かせるために、録画した番組を見せてるんだろ!?」
「だったら、確かめてみればいいじゃん。ほら、リモコン」
渡されたリモコンで、俺はチャンネルを次々回した。
だがニュースをやっている番組はどこも16歳の少女殺害、オリンピックのことを取り上げていた。
「……なっ、なんで……!?」」
「お兄ちゃん、それにスマホの日付も見たでしょ。それでも納得できないなら、SNSを見てみるといいよ。タイムラインに表示されるコメントの時間表記はどれも、6月1日になってるから」
動かしがたい物的証拠の数々に、俺は言葉を失った。
間違いない。
昨日まで6月30日だったのに……、訪れた今日は6月1日なのだ。
「……タイムリープ、か」
俺の口から零れた言葉に雪奈はうなずく。
「そうだね。雪奈たちは……6月という時間の檻(おり)に閉じ込められちゃったんだよ」
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