エガヲをミセテ オムニバス短編集
冨井 李 jose
世界はエガヲで満たされる ~掌の中にある世界~ 前編
世界は僕の掌の中にある。
例え話?
そんなんじゃない。
くだらないデマ?
残念ながら本当のことだ。
ついに頭がイカれたのか?
…ははっ。ある意味そうかもしれないな。
「おい、お前の見せてみろよ。」
「えっ、まだ始めたばかりだから全然だよ。」
「いいから、いいから。」
終礼後の教室。
クラスメートたちは身を寄せ合って談笑している。
授業や恋愛、テレビ番組の事など。
でも、大体の生徒は机の上に青く光る玉を並べて、見せ合いっこをしてはそれについて話し合っていた。
青く光る表面に、所々白と緑、茶色などのグラデーションが彩やかな球体。
ワールド・クリエーション。
世界でも最大手のIT企業が開発した超高性能箱庭型シミュレーションゲーム。
平たく言えば地球を運営するシミュレーションゲームなのだが、野球ボール大の地球儀のようなジオラマがハード機となっている世界的ヒットゲームである。
ジオラマの中は地球を模した環境が広がっており、数多のNPCが生活している。
プレイヤーは天候や大地を管理し、人々にミームを送って思いのままに世界を構築していく。
やり方はいたって簡単。
世界に求めることを頭の中で念じながら球体を握るだけ。
それだけでゲームの地球は地殻を変えたり、嵐を引き起こしたり、津波を招いたりする。
人々は産業や文化を発展させたり、戦争などを起こしたりする。
僕はあまり興味が無かったので持っていないが、おそらく全校生徒の半分以上はプレイしていると思う。
曰く、ゲームの中で必死に働く人々を眺めるのが面白いだとか、この国を軍事大国にして世界のリーダーにしただとか、非科学的な要素を入れてファンタジーな世界を作っただとか。
みんな、神様にでもなったかのような感覚を覚えるのだろう。
ゲームの中の人は身勝手な理由で天変地異を起こされたり、自分の中の正義を刷り込まれたりして大変だ。
僕は教科書をかばんに仕舞い、件のゲームについて会話している集団の脇を抜けて教室から出た。
階段を降りて下駄箱にたどり着くと、外は雨が降っていることに気がついた。
六限目までは晴れていたのに。誰かがゲームを操作して雨でも降らせたのだろうか。
ゲームをしている連中を頭に思い浮かべながら、慌てて教室へ傘を取りに行った。
「ただいまー。」
僕は家のドアを開けて中へ入る。
さしたる特徴のない2DKの室内には返事をする者はいない。
父も母もまだ仕事をしているのはわかっていたが、幼い頃からの教育の成果なのか、ついつい独り言のように声をかけてしまう。
雨に濡れた傘を仕舞い、靴を脱いで浴室へと向かう。
帰り道の途中で急激に雨脚が強まり、傘を指していても僕の体はズブ濡れになった。
朝の天気予報では、雨がパラつく程度でしょう、と言っていたのに、全く当てにならないなと心の中で嘆息を漏らす。
カバンをリビングに放り投げ、脱衣所で服を脱いでから浴室へと入る。
バルブを捻るとシャワーヘッドから温かいお湯が注がれた。
シャワーのお湯は雨に降られて冷えた体を心地よく温めていく。
頭と体を洗っているうちに風呂を沸かしておこうと思い、浴場に付いているコンソールを操作した。
『お風呂を沸かします』とアナウンスが鳴ってから浴槽にお湯が溜まり始める。
昔の人は火を起こすところから始めていたのだから、風呂が喋って勝手にお湯が貯まるのを見たら卒倒するんじゃないかな。
僕は文明の発達に感心しながら体を洗い始めた。
じっくりと長風呂を楽しんだ僕は、満を持して風呂から上がった。
熱を帯びた体を冷ますため、キッチンの冷蔵庫からペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出す。
キャップを捻り、パキッと音を立てたペットボトルの中身をゴクゴクと飲み干していく。
ミネラルウォーターの冷気は長湯で温まった僕の体に染み渡っていく。
冷えたと思ったら温められて、かと思えば冷やされてと、僕の都合に体が踊らされていると考えたら何だか可笑しくなってきたな。
独りでニヤニヤしながらリビングの時計を確認する。
今は午後5時を少し回ったあたり。
両親が帰ってくるまでは時間がありそうだったので、そのままリビングのソファに座ってテレビを見る事にした。
「ただいま。」
母が帰ってきたのは六時に差し掛かる頃だった。
見ていた番組のエンディングが流れている時に母の声が室内に響いた。
僕が家に帰ってきた時と同じようなやり取り。
「おかえり。」
母に返事をするが、特に反応は無い。
ソファに座ってテレビのチャンネルを回していると、廊下から母の姿が現れる。
両手には近所にあるスーパーのビニール袋を持っていた。
仕事帰りに買い物でもしてきたのだろう。
母は僕を一瞥すると、何を言うでもなくキッチンへと向かった。
キッチンからはビニール袋の擦れる音と冷蔵庫の開く音がする。
これから夕食の準備を始めるのだろう。
僕はテレビのチャンネルを回してみたものの、特に見たい番組も無かった。
ふと、今日の晩御飯の内容が気になり始めた。
昨日はトマトソースパスタとサラダだったけど、今日は何が出てくるんだろうか。
「ねぇ、今日のご飯って何?」
ただ何となく聞いただけ、というのが抑揚のない声に表れてしまう。
「カレーよ。」
僕の調子に合わせるように、母は必要最小限の情報をボソリと呟く。
「そう。」
先週の今日も確かカレーだったかな。
というよりも、毎週この日はカレーを食べていた気がする。
市販のルーに玉ねぎとじゃがいも、人参の入った、特にこだわりのないオーソドックスなもの。
特別まずいわけではないが、舌鼓を打つほど美味くもない、所謂カレー。
夕食への興味を失った僕は、別に見たくもないテレビのバラエティ番組を眺めながら時間を潰した。
父が帰ってきたのは八時過ぎだった。
夕食の準備を終えていた母は、父と僕を呼んでキッチンにあるテーブルへ座るよう促す。
父はハンガーにスーツを掛けながら鷹揚に返事をした。
僕はリビングのソファから立ち上がり、キッチンへと向かう。
テーブルに視線を向けると、皿に盛られたカレーライスに、半身のゆで卵が乗っているサラダ、コップと麦茶の入ったピッチャー。
僕の想像した夕食が具現化されたような内容だ。
父と母が席に着くと、みんなで頂きますをして食事を始めた。
食べる前には頂きます。これも幼い頃からの教育の賜物だ。
僕はスプーンでカレールゥとライスを掬って口の中へ入れる。
玉ねぎの甘みとカレールゥのピリッとした辛さが口の中に広がる。
まさしく、僕の想像していた通りの味だ。
夕食は淡々と進んでいく。
みんな無言で、キッチンにはスプーンと皿が当たる音、誰も目を向けていないテレビのノイズ。
他の家族だと夕食は一家団欒の時間であり、学校での出来事や仕事の苦労話などで盛り上がるものなのだろう。
だが、僕の家はみんな口下手だから無駄話をすることはあまり無い。
別に家族同士仲が悪いわけじゃない。
僕には誕生日プレゼントを買ってくれるし、年明けにはお年玉だってもらってる。
父と母の仲も普段はそっけないが、稀に夜の営みも行っているようだ。
仲の良い家族の条件ってそんなもんでしょう。
夕食を食べ終えた僕は、お皿を流し台に置いてから自室へ向かおうとした。
「和人。」
キッチンから出ようとした所で母に声をかけられた。
僕は振り返って母の方を向く。
「中間試験、どうだった。」
一昨日、学校で行った中間試験の事を言っているのだろう。
僕は今年、高校の受験があるから成績が気になっているようだ。
「まぁまぁだったよ。」
「そう。」
母は僕から視線を外すと、テーブルの上にある食べ終わったお皿を流し台へと運び始めた。
「はぁ、疲れたなぁ。」
自室に戻った後、僕は何ともなしに呟いた。
別に何かをやったわけじゃない。
いつも通りの日常をいつも通り送っているだけなのに、この言いしれぬ疲労感は一体何なのだろう。
同じ事を繰り返す毎日は徒労だと言うより他にない。
でも、ただひたすらに繰り返している日常の中にも確かに変化は存在しているはずだ。
昨日は晴れだったけど今日は雨だった。
昨日の晩御飯はパスタだったけど今日はカレーだった。
はぁ、いずれも新たな一日を彩るにはスパイスが足りない。
僕の人生はこれまでも、そしてこれからも今日食べたカレーのような日々を送るのだろう。
だから、受験して少し良い高校に受かった所で何かが変わるとも思えない。
地球はただ自転と公転に沿って世界を回しているだけだ。
本当は少し勉強をしないといけないのだが、自分に都合の良い事だけを並べ立ててサボる口実を作り出す。
最初は冗談のように考えていたのだが、それが僕の本心となっていくから驚きだ。
机へ向かおうとした僕の体は、気がつけばベッドの上だった。
柔らかいマットレスの上で横になっていると眠気が襲ってくる。
まだ寝るには早い。一日が勿体ない。
勿体ない?さっきまであんなにくだらないと思っていたのに。
気だるい体と薄弱な意思は、寝返りを打つという妥協点を見つけた。
体を右から左へ。
その時、僕の左腕に何かが当たった。
固くて、少しだけひんやりとした感触。
僕はその正体を手に取った。
掌に握られていたのは青と白、茶色のグラデーションが綺麗な玉。
クラスメート同士が見せ合っては会話に興じていたアレである。
「どうして…」
親に買ってほしいとねだった憶えは無いし、もちろん買ってもらった憶えも無い。
自分で買うだけのお金も持って無い。
無い、無い、無い。
でも、掌の中にはそれがある。
なぜこれがあるのかと親に聞いてみるべきか。
…いや、折角だから少しやってみようか。
熱中してるクラスメートの気持ちがミリ単位で解るかもしれない。
やり方はクラスメート達が散々話しているから知っている。
というより、覚えたくなくとも覚えてしまった。
僕は掌の玉へ向けて起動するように念じる。
玉はより一層輝き出すと、電子的な起動音を鳴らした。
『コネクテッド。ワールドクリエーションをプレイしていただきありがとうございます。まずはユーザーネームの登録をお願いします。』
頭の中に電子的なメッセージ文が流れてきた。
掌の神経から直接脳内へ作用するとは聞いていたけれど、自分の中に他人の意思が流れ込んでくるようで不気味な感じだ。
『和人 平で。』
電子的メッセージ文へ応えるように、僕の名前を頭の中に思い浮かべる。
『コレクテッド。ようこそ、和人様。まずは本機の利用事項に関して説明します。まずは…』
玉は使用方法の説明文を頭の中に垂れ流してきた。
だが、大体の使い方やゲーム性はクラスメート達に聞いている。
実際、頭の中で流れる説明文とクラスメートから聞いていた内容に大きな差は無い。
早送りが出来ないかと煩わしく思っていると、玉は説明の最後で気になる文言を残した。
『以上が本機のプレイ方法になります。最後に、本機はワールドクリエーションのオリジナル機となっています。本機へ伝えられる指令は最初の一つだけですので、ご注意ください。』
玉の中の世界に命じられる内容は一つだけ。
オリジナル機とか言っていたが、とんだ不良品じゃないか。
瞬く間にゲームへの興味が薄れていくのを感じる。
まぁ、折角始めてみたんだし、その最初で最後の指令というのを送ってみましょうか。
別にゲームの中の世界がどうなろうと興味はない。
でも、戦争をしろ、とか、生きてるうちは死ぬまで働け、とか、ゲームの中の人が苦しむような指令は後味が悪い。
どうせなら誰も困らない、みんなが幸せになれるような内容にしよう。
石油が枯渇してもトイレットペーパーがなくならないようにしろ、とか。
世界中で起きている戦争は銃火器で行うのではなく、ポーカーで勝敗を決めろ、とか。
どれも限定的過ぎて、面白くない。
では、もっと広義な内容にしてみてはどうだろう。
世界が平和になりますように。
でも、何か普遍的で面白みに欠ける。
あぁ、それならこうしようか。
「世界が笑顔で満たされますように。」
中々に詩的な表現で良いんじゃないだろうか。
『コンプリート。それでは、和人様の指令を世界へ反映します。』
受諾の電子的メッセージが頭の中から消えると、玉は輝きを失った。
「一体、これの何が面白いのかねぇ。はあ、まぁいいや。おやすみなさい。」
掌の玉をベッド脇のテーブルに置くと、一人きりの空間で教育の成果を披露した。
そして、ゆっくり瞼を閉じると、あのゲームはプレイヤーからの問いかけに対してコから始まる言葉しか収録していないのだろうか、とくだらない事を考えながら眠りに付いた。
ジリリリリリリリリ!!!
喧ましいスマートフォンのアラームは虚ろ虚ろな僕の意識に張り手をかます。
右腕は未だ覚醒しない脳髄から離反するかの如く、自動的にスマートフォンの画面をタッチしてアラームを止める、という刷り込まれた動作を行う。
毎朝の決まったやり取り。習慣。
半ばマットレスと一体化したような体を起こし、洗面所へと向かう。
歯を磨いて顔を洗う。
顔面に触れる水は頭の中の靄を洗い流していく。
自室へと戻って着替えを済ませる。
服装にこだわりは無いので、見た目が珍妙にならない程度を心がけてタンスの中から服を引っ張り出す。
定時に繰り返される動作。日課。
キッチンへ向かうと、母が朝食を準備して待っていた。
父は朝食が並んだテーブルの席に座り、電子タブレットで記事を見ながらトーストを啄んでいる。
「おはようございます。」
僕は教育の証を呈示する。
「おはよう。」
「おはよう。」
両親は僕を見ることなく、オウムのように無機質な返事をする。
儀礼的な反応。反射。
僕は父の斜め向かいに座り、テーブルに並んだ朝食を眺める。
六枚切り食パンのトーストに、マーガリンの入った容器、焼いたベーコンが二枚、目玉焼き、キャベツのサラダ、コップと紙パックの牛乳。
昨日と全く同じメニュー。
「頂きます。」
まずはトーストに手を伸ばす。
手に伝わるのは熱々の感触ではなく、マーガリンを塗りたくっても溶けるか溶けないかという生温さ。
気にすることなくマーガリンへと手を伸ばし、食パンへ塗りたくる。
案の定、トーストの上に広がるのは黄色い液体と個体、そのどちらとも言い難い物。
僕はそれを口に入れては咀嚼し、嚥下する作業を繰り返す。
繰り返す。
会話の無い食卓に華を添えるのは、トーストを齧る音と誰にも見られていないテレビが垂れ流すノイズ。
幾度となく再生されてきた朝の時間が過ぎていく。
家を出発した僕は、徒歩で学校へと向かう。
学校までは歩いて15分程の距離がある。
近くも無く、遠くもない。
いつものように歩く道すがら、幾人かのサラリーマンとすれ違う。
どこか俯きがちで生きた屍人のように無表情な彼ら。
僕が五体満足に日常をこなしていった結果のモデルケース達。
いつもは目を合わせないように顔を背けるのだが、そんな彼らの中に一人だけ笑顔で出社する若者がいた。
フレッシュなスーツに身を包んだ推定20代前半の男性は、今日という一日が素晴らしいものになるであろうと確信しているようだ。
死人たちの中に生者が一人。
ゾンビ物のB級映画だろうか。
若者がゾンビ達の餌食になりませんようにと心の中で祈った。
僕は黒板を凝視しながらノートを取っていた。
朝礼を済ませ、現在は一時間目の社会で米ソの冷戦について学んでいる。
先生は複雑な社会情勢をとても楽しそうに解説している。
30台後半メガネの男性教師は、普段から生徒を上手くイジりながら授業を進めるので生徒からも人気があった。
普段からもこの先生の授業中は割と賑やかになるのだが、今日は何というか、度が過ぎているというか。
一度、先生から目線を離して両隣のクラスメートに視線を向けてみる。
右隣の片岡は机に突っ伏して寝ていた。
机の前方に教科書を立てた状態で置いているのは、少しでも寝ている姿を隠すためだろうか。
運動部の片岡は部活で疲れているのか、授業中に寝ていることが多い。
決して不真面目な奴では無いが、睡眠への欲求には抗えないのだろう。
因みに、昨日僕の隣でワールドクリエーションについて話し合っていたクラスメート達の一人である。
あぁ、もしかしたらゲームのやり過ぎで夜更しをしている可能性も出てきたな。
彼は良い夢でも見ているのか、その寝顔はとても楽しそうだ。
左側で僕と同じく授業のノートを取っている進藤は満面の笑みを浮かべている。
目尻を下げて口角を吊り上げているが、そこまで楽しい物だろうか。
クラスの中でも秀才と評価される彼には、僕も勉強を教えてもらうために声を掛けたりもする。
勉強が出来て性格も明るい彼はクラスの中でも人気が高い。
そういえば進藤も昨日の帰り際、片岡達と楽しげにワールドクリエーションの話をしていたな。
おそらくゲームをプレイしているのだろう。
何だか笑顔の二人に挟まれると僕も笑顔にならなければいけない気がしてきた。
僕はあまり笑わない方だけど、雰囲気に飲まれそうになる。
挟まれたオセロや将棋のコマはきっと今の僕みたいな気持ちになっているのだろう。
あぁ、将棋はひっくり返らずに取られてしまうか。
決して悪くない心地ではあるのだが、周りの雰囲気に流されてしまうのも癪だ。
ここは、あえて仏頂面を貫こうと心に決めた。
4時間目の終了を告げるチャイムが鳴り、昼休みへと入った。
僕はいつものように学食のある1階へと向かう。
教室から出て廊下を歩いているのだが、周囲がとても五月蝿い。
聞こえてくるのは笑い声。
僕のクラスから、隣のクラスから、そしてすれ違う生徒から。
彼らは一様に貼り付けたような笑顔を浮かべている。
もちろん、笑顔ではない生徒もいる。
煩わしさを顕にする者や戸惑いを浮かべる者、普段とそう変わらないであろう者。
僕は居心地が悪くなり、学食へ向ける足を早めた。
「何だ、これは…」
僕は思わず呟いた。
いつものように学食は大勢の生徒で賑わっていた。
ゲームの話や恋愛の話、スポーツの話など、みんな楽しそうに会話をしながら食料を咀嚼していく。
僕は学食の騒々しさをとても気に入っていた。
群れるのが苦手な僕にとって、昼休みは居場所を確保し辛い。
クラスメート同士の距離が物理的に近い教室では、否応なしに相応のコミュニケーションを求められるからだ。
食事をする時は食事に集中したいし、くだらないと思いながら行う会話に意味はあるのだろうか?
翻って学食は学年、性別を問わず生徒たちの坩堝。
カウンター席さえ確保できれば一人の空間に集中できる。
母の作るテンプレートな弁当に集中できて、クラスメートとのテンプレートな会話を行わずに済む。
何より、学食を包む生徒達の喧騒は僕というマイノリティをマジョリティの中へと溶かしてくれる。
個人を求めつつ、集団から離れたくない矛盾を抱える僕にはピッタリだ。
だから、学食が賑やかなのは別に構わない。
問題は質の違いであった。
いつもの学食を包んでいたのはテンプレートな会話。
今日の学食に溢れているのは耳をつんざくような笑い。
笑い、嗤い。
それでもカウンター席を確保して弁当を広げ始めたが、5分と居られなくなって学食を出た。
仕方が無いので、校庭の端にあるベンチへ腰掛けて時間を潰すことにした。
一つ問題があるとすれば、教室と学食以外での食事は校則で認められていない事だ。
結局、弁当は半分も食べられなかった。
午後は理科の授業から始まった。
先生は笑顔で元素記号について教鞭を取る。
水兵リーベ…僕の…船…
サンセットビーチで休暇を楽しんでいたリーベ軍曹がプライベートクルーザーを港に繋ぎ忘れてしまった時の一言だ。
軍曹の性根が捻くれてしまうのも頷ける。
しかも流されたクルーザーは何故かクラーク博士が持っていた。
おまけにシップスなんてセンスの無い名前をつけてやがる。
船の名前が船って何だよとキレたリーベ軍曹は、いつかクラーク博士に牛乳をぶっかけて『ママのミルクでもしゃぶってな』と罵倒する、という大志を抱いた。
…はぁ、教室に広がるお花畑に釣られて、つい下らない想像をしてしまった。
それに腹が減っているからか、内容がトゲトゲしている。
6時間目の数学教師は凛とした佇まいで授業を進めていた。
50代女性吊り目の教師は注意をする時の声が鋭いので、授業中はいつも緊迫感に包まれている。
一日中賑やかだったクラスも例に漏れず、昨日までの姿を取り戻したかのよう。
だが、黙々とノートを取るクラスメートのうち、半数以上は常に笑顔を貼り付けている。
片岡と進藤もそうだった。
終礼が終わり、教室には弛緩した空気が流れる。
いや、気が緩んだのは僕を含めた数名か。
今日のクラスは伸び切ったチューインガムのようにたわんでいたから。
…流石に、唯のジョークで片付けられるほど僕の肝は座っていない。
左隣にいる進藤は教科書をカバンに詰めている所だった。
「なぁ、進藤。お前今日どうしたんだ?」
「えっ、あぁ、平か。どうしたって、何が?」
…どうやら自覚がないらしい。
「どうしたも何も、今日一日、ずっと楽しそうだったじゃないか。何か良いことでもあったのか?」
「別に、いつも通りじゃない。それよりも平こそどうしたんだ?」
笑顔の作用で圧縮された進藤の両目。
その目が僅かに開いた。
「お前も笑えよ」
…全身の筋肉が硬直した。
悪寒が
ブレる視線が白みがかるのを感じる。
鼓動は頭の中。
脳髄に直接、警笛を鳴らす。
ガタッ!!!
気がつけば僕は教室から飛び出していた。
廊下を走り抜け、階段を1段飛ばしで駆け下りる。
「ハッ!ハッ!ハッ!ハッ!」
手が震える。
下駄箱から靴が出せない。
辛うじて掴んだ靴を放り投げる。
上履きを靴箱に突っ込む。
開いている出入り口を突き破る。
「ハァッ!ハァッ!ハァッ!ハァッ!」
校門を突破し、ただ脚を動かす。
逃れるため。
学校から。
悪寒から。
大通りを抜ける。
駅前を走る。
階段を駆け上がる。
…気がつけば、僕は人気の無い近所の公園に居た。
ここは僕がまだ小さかった頃によく通っていた所だ。
本能は人間がいない場所へと僕を誘導してくれたようだ。
普段はあまり運動をしないからか、機能し続けた僕の両脚は休息を求めている。
視界の端には木のベンチが映っていた。
右手が重い。
視線を向けると、右手は通学バッグを握りしめていた。
「…忘れてなかったんだ。」
ベンチにバッグを置き、僕はその隣に座る。
乱れた呼吸は収まってきたが、臓腑を蔓延る悪寒は少しも無くならない。
空腹のせいかもしれない。
結局、弁当はほとんど食べられなかったから。
バッグから弁当を取り出して容器を包んでいたナプキンを解く。
弁当の蓋を開けると、中には様々な食材が混ぜ合わされた食料。
走ったせいでグチャグチャになってしまったのだろう。
母に申し訳なく思いながらも、箸で中身を掬って口に入れる。
味がない。
匂いもない。
無味無臭。
いや、体が摂取することを拒んでいるからだ。
それでも僕は咀嚼し、嚥下する。
食道と胃は明らかな不快感を示す。
そんな事は関係なしに栄養の摂取を繰り返す。
僕は何らかの行動をしていないと、居ても立っても居られなかった。
「ただいま。」
僕は力のない声を発しながら家のドアを開ける。
外はすっかりと暗くなっていた。
こんなに帰るのが遅くなったのはいつぶりだろうか。
玄関で靴を脱ぐと、リビングへと向かう。
「おかえり。」
キッチンからは母の声が響く。
僅かに弾んだ声色。
その主を仰ぎ見れば、僕へと向けているのは微笑み。
「ははっ。」
僕の口元は乾いた笑いを溢す。
「頂きます。」
テーブルに並んでいるのは生姜焼きと大根のサラダ、茶碗に盛られた白米、コップ、麦茶の入ったピッチャー。
珍しくも無いメニュー。
右手に握られた箸を生姜焼きへと伸ばす。
場を満たすのは食器が当たる音とテレビのノイズ。
焼き増しの繰り返し。
ゆっくりと視線を上げる。
そこには父と母の幸せそうな笑顔。
「ごちそうさまでした。」
夕食を生姜焼き3口で切り上げる。
食欲なんて元々無かった。
弁当を食べるのが遅くなってしまったからだ。
そうだ。
きっとそうに違いない。
「和人。」
その場から逃げるように立ち上がり、足早に自室へ戻ろうとした所を母に呼び止められた。
ドクンッ
心臓が跳ね上がる。
背筋には節足動物が這い回っているような不快感。
湧き上がる炙く。
黒い、黒い。
…母の言葉は無視できない。
教育の否定。
大丈夫だ、大丈夫。
いつも通りだ。
だから振り返ろう。
振り返って教育の成果を…
「おやすみなさい。」
母は呟いた。
口元は三日月形。
下がった目尻。
そこに居たのは、僕が良く知る、知らない誰か。
「うわぁああああああぁぁ!!」
教育の成果をかなぐり捨て、自室へとひた走る。
乱暴にドアを開け、飛び込むように中へと入る。
急いでドアを締めて鍵を掛けると、悪寒が膝を震わせる。
下半身は体重を支えられなくなり、その場にへたり込んでしまった。
夜の挨拶をする笑顔の母。
その右手には青く光る玉が握られていた。
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