第16話『Glasses』
「最近、帰ってくるの遅いね?」
ソファの上、カレンがテレビを横目に言った。
声のトーンはいつもと変わらず軽く、無邪気で、無関心そうで──
それでいて、少しだけ濁っていた。
「仕事が長引いただけ」
僕はジャケットを脱ぎながらそう返した。
カレンは返事をせず、ポテチの袋をくしゃりと鳴らす。
「……ふーん。じゃあ、“恋”じゃないんだ?」
言葉が止まった。
何かが胸の奥でざらついた。
「何の話」
「べつに。なんとなく。
でも、“恋”とかって、案外簡単に人の表情を変えるよね」
カレンは薄く笑ったまま、リモコンをぽちぽちといじる。
テレビに映ったのはドラマのキスシーン。
音は出ていなかった。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ距離。
でも、彼女の言葉だけが妙に冷たく感じた。
「君にそういうこと言う資格、ある?」
思わずそう返したとき、カレンは不思議そうな顔で僕を見た。
「ないよ? でも、知ってる顔って、すぐわかるもんだよ」
部屋を出ると、冷えた夜風がジャケットの裾を巻き上げた。
背後のドアが閉まる音は、妙に静かだった。
スマホを取り出して、リサの名前を探す。
“今夜、少しだけ時間ある?”
送ったあと、画面を見つめたまま歩き出す。
このあと、後半ではユウが自分からリサに会いに行く描写、
そしてふたりの間に“何もないはずなのに、確かにある”空気感を描いていく流れに繋げられる。
◇ ◇ ◇
“今夜、少しだけ時間ある?”
送ったメッセージに、返事はすぐに来た。
《大丈夫。今、街のほうにいる。喫茶店でもいい?》
あの喫茶店だった。
数日前、雨宿りのように入ったあの静かな場所。
ガラス越しに見えた彼女は、ノーメイクだった。
コートの襟を立てて、コーヒーを両手で包み込むように持っていた。
どこか、その姿が“誰かを待っている”というより、“ひとりであることに慣れている”ように見えた。
「こんばんは」
僕が声をかけると、彼女は少し驚いたように目を細めた。
「……ほんとに来たんだ」
「来ちゃだめだった?」
「ううん。来てくれて、嬉しい」
そう言って、コーヒーの向こうから小さく笑う。
特別な話はしなかった。
最近観た映画の話、好きな音楽、街の空気の変化、
そういう“くだらないものたち”を、何も求めずに言葉にした。
リサは、相槌が上手いわけじゃない。
でも、ちゃんと聞いてくれる。
それだけで、言葉は自然に続いた。
「……絵を、描こうと思った」
ふと、僕は言っていた。
「描きたいってわけじゃない。ただ、気がついたら筆を握ってた」
「……描いたの?」
「まだ」
「じゃあさ、描けたら見せてよ」
リサはそう言ったあと、少しだけ沈黙を置いた。
「別に感想とか言わないから。ただ、見たい」
その“感想を言わない”という言葉に、なぜか救われた。
正しいとか美しいとか言われなくてもいい。
ただ、見てほしい。それだけなら、描いてもいい気がした。
帰り際、喫茶店のドアを出たあと、リサがふと立ち止まった。
「ユウくん」
「なに」
「君の目って、ほんとに綺麗ね。
でもそれって、すごく脆いガラスみたいでもあるの」
「……壊れそうってこと?」
「ううん。誰かが手を伸ばしたときに、指を切るような鋭さがあるってこと」
それが褒め言葉なのか、警告なのか、僕にはわからなかった。
けれどその夜の会話の全部が、
確かに“どこか温かい場所”に変わっていくような気がした。
帰宅後、部屋の灯りが妙に眩しく感じられた。
カレンはもう寝ていた。
その背中に声をかける気にはならなかった。
机の隅に置いていた鉛筆を手に取る。
画用紙に触れただけで、手が少しだけ震えた。
◇ ◇ ◇
深夜三時、街はしんと静まり返っていた。
冷蔵庫のモーター音だけが部屋の空気を揺らしている。
カレンは、背を向けて眠っていた。
彼女の寝息は、一定のリズムで続いている。
少し乱れた毛布の隙間から、うっすらと肩のラインが見えた。
僕はそっとベッドを抜け出して、机に向かった。
机の端に置いたスケッチブック。
何度も買おうとして、何度も棚に戻したやつ。
それを開くのは、リサと喫茶店で別れてから初めてだった。
ペンでも、絵の具でもなく、鉛筆。
芯の柔らかさが紙に沈む音は、妙に静かだった。
最初の線は、うまく引けなかった。
腕が重い。手が震える。
描こうとして、ペン先が宙で止まる。
でも、次第に少しずつ線が紙の上に落ちていった。
輪郭にならない線。
意味のない影。
でもそれは、確かに“どこかの誰か”を描こうとしている感触だった。
気づけば、僕はひとりの横顔を描いていた。
目元の下にうっすらと影を落とすまつげ。
少し疲れた笑い方の口元。
見たことのない光を映す瞳。
それは、リサだった。
「……まいったな」
僕は鉛筆を置いて、紙を見つめた。
好きだとか、救われたとか、そんな明確な気持ちはない。
でも、“この人に見せたい”と思った。
そう思ったのは、矢墨レン以来だった。
「……やっぱり、君も描くんだ」
声がした。
振り向くと、カレンが枕に頬を押し付けたまま、目を覚ましていた。
起きていたのか、寝言なのか、判別できなかった。
「……見てたの?」
「ううん、起きたら描いてたから、びっくりしただけ」
カレンは身を起こして、薄く笑った。
「その顔、久しぶりに見るなぁって思った」
僕は答えなかった。
「……ねえ、ユウくん」
「なに」
「もし、また“描けなくなった”ときはさ──
また、あたしのとこに戻ってきてよ」
その言葉に、僕の背筋が冷えた。
「……なにそれ」
「別に〜。保険? でもあたし、そういうとこ強いからさ」
カレンはふにゃっと笑って、ベッドに戻った。
その背中が、夜の中で妙に真っ白に見えた。
もう一度、紙を見る。
描いた横顔の線は、まだ完成していなかった。
でも──それでもいいと思えた。
完成しなくても、この線だけは、今の自分にとって確かな“生きてる証拠”だった。
◇ ◇ ◇
リサからメッセージが来たのは、夜の十時を過ぎた頃だった。
《今日、少しだけ顔見たい。近くにいる?》
短い文だったけど、文末に“?”がついているのが珍しくて、すぐにジャケットを羽織った。
喫茶店は閉まっていた。
だから、二人は駅前のファミレスで向かい合っていた。
店内は学生ばかりで、どこか明るかった。
リサはグラスのアイスティーにストローを沈めながら、うつむいていた。
「……あのね、たいしたことじゃないんだけど」
「うん」
「さっき、前の旦那とすれ違ったの」
その言葉に、僕は少しだけ身を硬くした。
「向こうは気づかなかったけど、私の方は……ね。
なんか、思い出すのが悔しくて」
悔しさ、という感情をリサの口から聞くのははじめてだった。
「……それで、君の顔、見たくなった。
不思議だよね。慰めてほしいとかじゃないのに、顔だけは、見たくて」
「……僕は、なにもできないよ?」
「うん。だからいいの。
私、もう“何かしてくれる人”に期待するのやめたから」
そう言って、少しだけ笑った。
帰り道、別れ際に彼女がポケットから何かを取り出した。
「これ」
「……なに?」
「お守りみたいなもん。
私、昔、美大に行こうとしてたことあるんだよ。途中でやめたけど」
手渡されたのは、小さな鉛筆削りだった。
傷だらけで、金属の角が少し錆びていた。
「まだ使えるよ。君の線、見てみたいなって思った」
家に戻ると、紙の上に残された昨日の線が、どこか違って見えた。
“見せたい”と“見たい”が重なった。
それだけのことなのに、胸の奥がざわめいた。
それが、きっかけだった。
誰かに何かを描くということ。
その行為が、まだ自分の中に“残っている”こと。
描くことは希望だった。
でも、同時にそれは、折れてしまう準備を始めるということでもあった。
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