馬
@wizard-T
草原を走る
ぼくは馬だ。ただ草原を走っている馬だ。それ以外の何でもない。
好きなのは走る事。嫌いな事は……特にない。
ああ強いて言えば走るのを邪魔される事と走れなくなる事は嫌いだ。
ぼくは今日も、いつものように草原を走っている。この草原はぼくのふるさととか言う訳じゃない、たぶんだけど。
いつからそこにいるかはわからない。今日もぼくは走る。風がある時もあればない時もある。風がある時に走るのは気持ちいい。でも追い風はあんまり好きじゃない、向かい風もそんなに好きじゃないけど追い風よりはいい。好きなのは横風だ、横風を受けながら走るのは実に気持ちいい。
ああ、シマウマさんたちだ。おはよう。
「おはよう」
シマウマさんたちも、ぼくと同じように朝から走っている。でもぼくと違い、みんなで走っている。ぼくはひとりぼっち。シマウマさんたちはたくさんで走っている。
ぼくには親はいない。いやいたんだろうけど、いつの間にかいなくなっていた。子どももいないし、一緒に走る仲間もいない。
そしてその事について、さしたる不満がある訳じゃない。かと言って、ぼくはひとりが好きだと言う訳でもない。要するに、別にどうでもいい。
ぼくはシマウマさんたちとはけっこうちがう。ぼくの体には黒いシマなんて一本もない。あるのはちっぽけな頭の白い模様だけ。あとはぜーんぶ真っ黒。
ああでも別に、気になんかしていない。ぼくもシマウマさんたちも同じ四本の足と、四つのひづめを持った生き物。それに色だってちょっとだけ似ている。
それからたてがみに耳、頭、しっぽ。おんなじ物を持っているし、おんなじ物を食べる。おいしい草だ、ありがとう。
この草原では、雨はめったに降らない。嫌がる仲間もいる。でもぼくは好きだ。お日様が元気に輝いている下を走るのも好きだけど、顔に水を当てながら走るのも気持ちが良くて大好きだ。
曇り空?ああ涼しくて走りやすいから大好きだよ。
君はようするに空が大好きなんだね、そうシマウマさんから言われた事もある。そうなのかもしれない。カンカンの日照りとか、空がめちゃくちゃ低くなるような真っ黒な曇り空でも、水滴じゃなくて水のかたまりが降って来るような大雨でも、僕は走るのをやめたくない。ぼくはただ、走りたいだけなんだ。
もちろん走っていると、のどがかわく。この草原にはなかなか水が飲める所はない、でもぼくはその場所を何個か知っている。教えてあげてもいい。
ああそうここここ、どこから来てるのかわからない長ーい川の根っこにある、おっきな池。ぼくはここの水が大好きだ。なぜって?おいしいから。他には何にもない。
でもこの水を飲んでいる時間はあんまり好きじゃない。どれぐらい好きじゃないかって言うと寝る事と同じぐらい好きじゃない。
だって水を飲んでいる間と寝ている間は、走れないから。それ以上の理由なんか何もない。
寝ている時は二回に一回ぐらい夢を見るけど、いつもいつもどこかを走っている夢。草原だったり、海の上だったり、空の上だったり、それから岩山だったり。でも不思議な事に、二回として同じとこを走った夢を見た事がない。なぜだろう。
草原を走っている夢は百回以上見たけど、全部が全部ちょっとだけ違っている。ある日は木が全然生えてなくて向かい風がびゅうびゅう吹いていて、ある日は雨が降っていて木の葉っぱがやたらに濡れているのがよく見えていた。
そしてもうひとつ、ぼくには好きじゃない時間がある。お水を飲んだり草を食べたりするとどうなるか、答えは簡単。
おしっこやうんこがしたくなる。走りながらするような事ができるはずもない。だから止まらなきゃいけない、つまり走れない。それがいやだ。
ぼくはなるべく他の仲間たちが立ち入らない所へ行き、そういう物を出す。出し終わるとちょっとだけ体が軽くなった気がする。また走りたくなる。でもぼくが出した物を丸ごとかぶる事になっちゃった地面や草はどうなるんだろう。草は喜んでいるかもしれないってどこかで聞いたけど、そんなものなんだろうか。
あっシマウマさんたちだ!おーい、おーい、どこへ行くのー。誰も聞いてない。どうしたんだろう。まあいいや、ぼくもなんとなく一緒に走ろう。
シマウマさんたちはものすごい速さで走ってる。でもぼくの方がちょっとだけ速い。いつも走っているおかげだろうか。その内ぼくはだんだんとシマウマさんたちの群れの前の方に出て来ていて、気が付くと全部のシマウマさんたちを追い抜いていた。
でもちょっと気合を入れすぎちゃったからゆっくりにしよう。でも、誰も追い付いて来ない。何がどうしたって言うんだろう。
シマウマさんの仲間がふたり、死んじゃった。シマウマさんたちは泣いていた。なんでも、チーターさんにおそわれて、シマウマさんの仲間がふたり死んじゃったらしい。
「キミぐらい速く走れていたらね……」
女の子のシマウマさんに、そんな事を言われた。ぼくは何も言わないで、そのままその女の子のシマウマさんから離れた。
―――チーターさんは、シマウマさんをおそう。なぜなら、そうしないと生きられないから。チーターさんはシマウマさんを食べている、ぼくが草を食べるように。
そしてチーターさんが死ぬと、そのチーターさんを土の中に住んでいる生き物が食べる。その生き物が、ぼくやシマウマさんの食べる草を大きくする。きれいな流れだと思う。
もちろん、ぼくだっておそわれたことは何回もある。でもぼくは走れなくなるのが嫌だから、逃げる。
シマウマさんたちだって、そうした。でも逃げられなかったシマウマさんたちが、ふたり死んじゃった。かなしいかもしれないけど、しょうがない事の気もする。だってそうしないとチーターさんが死んじゃうんだから。
ぼくはふたたび、ひとりで走った。寝っ転がった僕より三倍ぐらい高い背丈の木になってる木の身を食べているキリンさんたち。もしぼくがキリンさんみたいな背丈だったらどうしてただろうか。
たぶんこんなに速くは走れないだろうし、ひとりっきりで過ごす事もないと思う。でもぼくは馬だ、真っ黒な馬だ。キリンさんじゃない。
キリンさんがぼくの事をどう思っているのかはよくわからない。わかるのは、わからないだろうって事だけ。ぼくだってキリンさんの事をどう思っているのか、正直よくわからない。首が長いなあ、家族みんなで一緒に食べ物を探すのは大変だろうなあ。
それ以上の事はよくわからない。
でもわかったとして、一体何があるんだろうか。少なくともぼくはどうでもいいし、キリンさんだって別に関係ないと思う。
キリンさんはぼくの事なんか気にしていないみたいだった。ぼくだって気にしない事にする。それでいいじゃないか。ぼくはキリンさんの事を忘れて、再び走り始めた。
今度はのんびりと走る事にした。深い理由は何もないけど、走っていると言うか歩いている感じだけど、たまにはいい。
こうしてのほほんとしていると、すべてがゆっくりと進んで行くように思える。お空の雲も、浮かんでばかりで動こうとしない。草もゆれないでじっと立っているだけ。
あっ、お花が咲いてる。間近で見たくなって首を近付けると、ぼくの鼻息でゆれちゃった。ちょっとかわいそうかもしれない。それでもきれいなお花を見ることができたぼくは満足して、再びゆっくり走る事にした。
今ぼくが出しちゃった鼻息が一番強いぐらいだったおだやかな日。いや、おだやかだった日。
グルルルと言ううなり声が聞こえた。チーターさんだ。ぼくを狙ってるんだな、って事にぼくはすぐ気が付いた。
もちろん、チーターさん以外の生き物にも狙われた事は何べんもある。ぼくっていう草食動物がチーターさんのような肉食動物から狙われる事は別に全然珍しくない。これまでも何回も狙われて来たし、逃げて来た。
もちろん今回も逃げた。全力で走って逃げた。嚙まれたり引っかかれたりするのは痛いし、死んだりしたらもう二度と走れなくなっちゃう。
それは嫌だ、何よりも嫌だ。だからぼくは逃げる。もちろんチーターさんは追って来た。やっぱり速い。でもぼくはチーターさんに比べれば長く走れる。ぼくが逃げるには、なるべく長く走るしかない。
でも今日のチーターさんはなぜかやたら長く走っている。どうしてだろう。
でもぼくは逃げる、とにかく逃げた。そのおかげで、気が付くとチーターさんの姿は消えていた。今回もまた、ぼくは逃げ切れる事が出来た。普段からたくさん走っていると速く走れるんだろうか。ぼくにはよくわからない。
わからないからまた走る。走っているとよけいな事を考えなくてすむ。走っているだけでぼくは幸せになれる。夜は寝る物とかみんな言うけど、ぼくは眠たくなかった。走っていたかった。暗くなると前が見えなくなるから走りにくいんじゃないかとかみんな言うけど、ぼくは気にならない。
走っているといろんな所に行けるから、そっちの方が楽しい。この草原がぼくのふるさとかもしれないけど、ずっと同じ所ばかり走ってちゃつまらないじゃないか。だからぼくは、前が見えなくても走る。
走った先の景色がどうなってるかを想像するのは、実に楽しいじゃないか。
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