在りし日の裏庭(短編集)
霧江
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黒い雨、赤い傘
「彼女はなんでいつも傘を持っているのに、差さないの?」
パトリシアはつまらない質問だと分かっていながら、どうしてもそれしか言葉が出てこなかった。
助手席に座るカレンの視線の先には、赤い傘を腕に下げバス停に立つ一人の女がいた。
「えっと……、合図なの。傘を閉じていれば接触可能、差していれば不可」
昼過ぎから降りはじめた小糠雨は、一九七八年冬のロンドン市街を目に映るよりも暗く寒いものにしていた。
「きっとあの傘はアメリカ製ね」
「なんで? 世界中の西側諸国に『傘』を貸しているとか?」
ソヴィエトを領袖とする東側陣営と、アメリカ・イギリスを筆頭とする西側諸国が繰り広げる
イギリスは独自の核戦力を保有しているが、その大半がアメリカと『共有』をすることで成り立っている。
東西両陣営は米ソの構築する核の傘の下、見えない戦いを繰り広げていた。
この傘の下では前線と銃後の区別なく、すべての人々にどちらかの陣営に参加するよう強要すると同時に、何色の傘であれ、世界中にいるパトリシア・アイレイを、――おそらく赤い傘はあのキム・フィルビーやジョージ・ブレイクを――核攻撃の恐怖から守ってくれる。
それでも衰退の一途をたどるここイギリスでは、冷戦の流れ弾が飛んでくることもある。
核戦争の恐怖を煽る不確かな情報はいつでも供給過剰なくらいだ。
今では止まない雨のように、それは
「行ってくる」
カレンは意を決したように車の扉を開けると、パトリシアを呼び止める。
「ねえ、信じていいのよね」
「大丈夫、『ニンブル』はあなたに惚れてる」
パトリシアは努めて明るい声でカレンを送り出した。
* * *
カレン・ブロウトンはここ数年の転向者の中でも間違いなく最上の部類に入るだろう。
この春大学を卒業したばかりの彼女は、もともとは税関職員だった。
だが大学の専攻がロシア文学だったことと、どんな人間でも愛し過ぎるところが、結局彼女をこの世界に引きずり込むことになった。
カレンは文学部時代に知り合った知人から、預かった禁輸品をそれと知らずに国外にもちだそうとした。
パトリシアは尋問を担当したときのことを今でもよく覚えている。
ロンドン中心部から南に約四十七キロメートルのところにガトウィック空港はあった。
ガトウィックの税関職員のあいだで『検査室』と呼ばれる小さな部屋で、私はカレンと初めて話をした。
「この女から荷物を預かったのね」
パトリシアは、引き伸ばして粒子が荒くなっている顔写真を机に置いた。
「はい」
「中身が何なのかも?」
「コンピュータは、あまり詳しくなくて……」
「税関職員が
パトリシアは手にしていたタバコを吸い込んだ。あっという間に半分が灰に変わり床に落ちた。
「断りきれなくて……」
「あなたの『女』なのね」
「それは……」
「まあいいわ。でもこの事があなたの周りに知られたら困るでしょうね」
「脅しですか?」
冷めた紅茶に口をつけてから、震える声でカレンは訊ねた。
「あなたを助けたいの、私はその方法を知ってる」
「……どうすればいいんですか」
「続けて」
「え?」
「つづけるのよ。今までどおり。バレた素振りを見せてはだめ。それから知っていることを全部話して。そうじゃないと……」
パトリシアは細く柔らかいカレンの指を手にとった。
「こんなきれいな爪がなくなるのは惜しいからね」
カレンは素直な女の子だった。
聞かれたことにはすべて正直に答え、自分の爪を守った。
彼女の言葉は正確であるばかりか、ときに鋭い洞察力の片鱗を見せ、カレンの説明に立体感を与えていた。
パトリシアは熱っぽく語るカレンに保身以上の何かを感じ、強く惹かれた。
カレンの自白した情報から新しい密輸ルートが発覚、その線を辿っていくと一人の女に行き着く。
暗号名『ニンブル』は、そんなカレンによってもたらされた黄金のリンゴだった。
ニンブルは本名をリュドミラ・ヴァレンティナ・マヤコフスカヤと言う。
ソビエト大使館通信連絡員の妻だった彼女は、当初、監視対象から外れていた。
旦那は自らの職務に忠実でないばかりか、毎夜、酒に溺れては部下に抱えられて帰っていくような男で、とても重要な仕事を任されているように見えなかったからだ。
だが、それは煙幕に過ぎなかった。
* * *
フロントガラス越しに、親しげに会話する二人が見えた。
二人はすぐに接触場所である、路地裏のカフェへと消えていった。
傍目には仲のいい友人か、姉妹にしか見えないだろう。
リュドミラが
表向き完璧な外交官夫人を演じていたリュドミラにとって唯一の弱点が女だった。
カレンはリュドミラを見るなり、一度で彼女の性癖を見抜き、自分を工作に使うよう、パトリシアに進言すらした。
今にして思えば、この時カレンは一目惚れしたのかもしれなかった。
カレンはすべてのスパイがそうするように、偶然を装ってリュドミラに近づき、意気投合し、すぐに『女同士の秘密の関係』を作った。
最初に取引を持ちかけてきたのは以外にもリュドミラからだった。
彼女はこちらの要求にあっさりと応じ、かえって関係者を困惑させた。
その場に居合わせた人間曰く、彼女の態度はまさに
だがリュドミラが信用を得るために用意した情報は正確だった。
彼女のもたらした情報によって、IRAによる二件の爆弾テロ計画を未然に防ぎ、
かれこれ六回目になる二人の密会も、今回が最後だった。
本国の命令で召還されることになった旦那に帯同する形で、リュドミラはソビエトへ帰るのだ。
中でどのようなやり取りがなされているか、パトリシアにはわからない。
店に
それも最終段階に入った今ではどうでもいいことだ。
十五分は経っただろうか。
雨は強くなるばかりで、雨粒は目の前の景色を歪めていく。
いい加減我慢できなくなったパトリシアが、火のついたタバコを咥えてハンドルに寄りかかっていると、店からリュドミラが出ていくのが見えた。
彼女はこちらをちらりと一瞥した。
揺れる黄金色の瞳を見たパトリシアは、結末を確信した。
コートの襟を押さえたリュドミラは、少し歩いてからタクシーを拾い、夜の街へ消えていった。
一分待ってから、パトリシアはカフェに車を寄せた。
店内に入り、入口の近くのボックス席を陣取る顔なじみに声をかける。
「彼女は」
「裏口ですよ」
「ここを見てて」
ぶっきらぼうに命じられ、中年男性は新聞を脇に抱えたままため息をついた。
パトリシアは躊躇なくカウンターのスイングドアを通り、キッチンを抜けて裏口へ出た。
カフェのバックヤードは狭かった。
雨が降っているというのに、すえた嫌な匂いのする黒いゴミ袋や、足の折れた椅子が無造作に置かれている。
足許には赤い傘が落ちていた。
「カレン」
ゴミの中に埋もれる彼女の身体は、パトリシアの目の前に広がる、悪趣味な静物画の一部となっていた。
パトリシアは仰向けになっていた彼女の身体を起こし脈をとる。
胸からおびただしい血を流していたが、まだ生きているようだ。
カレンのわずかに開いた瞳に、見覚えがあった。
怒りと後悔。
「ミラーシャは、彼女は、私を愛していた」
「そうね」
「あんたは? 彼女に何をしてあげたっていうの……!」
「あなたは求めすぎた」
直近のイスタンブールからの情報には、カレンに知らされていない内容があった。
――ニンブルは疑われている。モスクワはニンブルの恋人のが内通している事を把握している。
パトリシアが調査したところ、カレンはパトリシアの監視の目を盗んで部屋を借り、リュドミラと密会していたのだ。
パトリシアが部屋を詳しく調べると、ソ連側が仕掛けたと思しき
カレンは一線を越えていた。それが命取りになった。
調査結果を受け、
カレンを切り、リュドミラを活かす。
KGBにカレンを差し出すことでリュドミラの疑惑を晴らし、
――西側のスパイを身ぎれいなまま、クレムリンの中枢へと送り込む。
それが今回の作戦の最終段階だった。
もちろんカレンは知らない。
「あなたが死ぬべきだった!」
カレンはパトリシアに呪詛の言葉を投げつけ、カレンの両手がパトリシアの喉元を捉えた。
瀕死なのが信じられないほどの力でパトリシアの首を締め上げる。
「うっ……くっ、」
どこにこんな力が残っているのか。パトリシアは抵抗したがる本能を必死に押さえつけながら苦痛に耐える。
彼女を受け止められるのは私しかいない。
パトリシアは身体が重く、意識が遠のいていくのを感じた。
彼女はカレンの身体と折り重なるように倒れた。
カレンには既にパトリシアの体重を支える体力は残っていなかった。
皮肉にも倒れたことで、パトリシアはカレンの戒めから逃れることができた。
パトリシアは混濁する意識の中でささやく。
「リュドミラはあなたではなく、私たちに助けを求めたのよ」
雷に打たれたようにカレンが目を見開いた。
リュドミラもこの結末を知っていたのだ。
溢れ出すカレンの血液の温もりとは対照的に、雨粒は彼女の身体から容赦なく熱を奪っていく。
パトリシアが冷たくなったカレンのまぶたにやさしく手を当てると、カレンの目は閉じた。
リュドミラは
これからの出世如何によっては、裏切り者を始末し、祖国に有益な情報をもたらした英雄として黒海沿岸に
どちらにしろ、以降の彼女への工作は
雨は流れた血を洗い流し隠すように二人を濡らした。
パトリシアはゆっくりと立ち上がると、落ちていた傘を広げ、カレンの冷たくなった身体にそっとかけた。
傘が雨からカレンを守るように。
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