届かないはずの言葉 -write-
高さが不揃いな石段を一歩ずつ踏みしめて上る。石と石の隙間から生えた草や、苔が灰色に色を付けていた。
「那岐、私たちって階段も歩かないといけないの? 空飛んだりさ……?」
「無理だな。基本的に生きてた頃に出来なかったことは諦めてくれ」
「でも、さっき扉を通り抜けたよ」
「霊体だから。壁の向こうが見えていて、通れるって意識すれば出来るんだよ。それ以外は普通の人間と同じ。地面の下へ落ちていかないのがその証拠さ」
「へぇ、いろいろ複雑なんだね」
風が吹き、葉が揺れる音が幾重にも重なり耳に届く。鳥居をくぐり境内へと入ると、薄緑に色付いた木陰と灰色に色の抜けた拝殿が視界に広がり、涼しげな空気が漂い始めた。隅に建てられた手水舎からは、冷たそうな水が溢れ出ている。
拝殿の隣に生えた大樹が、晴さんの記憶に残っていたものだろう。汚れて所々解けた注連縄が張られている。
「ここです。この木とお賽銭箱の延長線にある柵。その下です」
「あれを掘れば?」
「はい、その下に入っているはずです。お願いしても良いですか」
「分かった。それじゃあ明日の朝、日の出の時間にここで」
「はい」
「明日楽しみだね。晴さんは、このあとどうするの?」
「僕は、もう少しここにいます。それにしても、神社に幽霊がいるっていうのも面白いですね」
「あ、確かに」
二人の笑い声を聞きながら境内を散策していると、蜘蛛の巣が張り巡らされた倉庫のなかに、いくつか道具があるのが確認できた。だいぶ錆びれて誰も手入れをしていないような光景。誰も手を加えなくなった空間は、現世から切り離されたようで生気が感じられない。
そっと扉から離れ、二人の元へ戻ってから、晴さんに別れを告げ俺は神社を後にした。
一日が過ぎるという感覚がなくなってどれくらい経つのだろう。朝を迎えることも、明日が来ることも、ただ時間を判断するための基準でしかなくなっていた。いつからかと考えても、もう思い出せない。靄がかかったように曖昧な記憶。本当に俺は生きていたのかと疑うほどに。
振り返ると、まっすぐに伸びる水平線から昇る太陽が空を赤く染める。夜の空気で湿った石段に光が当たり、俺以外すべての影が伸び始めた。一段上るごとに、明度を増す世界。
参道を進み鳥居をくぐり、音のない静謐な世界を足元だけを見ながら歩く。俯いて見える世界は狭いが、進む道だけは常に気に掛けることが出来るから、どこにいても、一人になっても安心する。でも今は下だけを見ていられない、だって一人じゃない。
顔を上げる。視線の先には、既に結雨と晴さんの二人が大樹の下で待っていた。まだ日の出直後だというのに早いな。
「おはよう、那岐」
「おはようございます、探偵さん」
柔らかな表情を浮かべる二人の顔を、交互に見比べる。おはようなんて、久しぶりに聞いた気がするな。
「お、おはよう」
「ほら結雨さん、ちゃんと時間通り来たじゃないですか」
「間違えたかぁ。マイペースだから、遅れると思たんだけどな」
「何の話だ?」
「那岐が時間通り来るか、どうかって話。ちなみに私は、遅れるかなって思ってたんだけれど」
「一応依頼を受けている身だ。時間は守るさ」
張っていた気が、一気に弛緩する。もし掘り起こして何も出てこなかったら、なんていう無駄なことを考えすぎて、強張っていた肩の力が抜けた。おかげで余裕が出てきた。
「あ、笑ってますね」
「本当だ、笑ってる」
「からかうなよ。ほら、タイムカプセルを開けるんだろ」
考えている以上に、頬が緩んでいたらしい。
表情をみられないように、結雨がすでに用意してくれていた道具を手に取る。それと同時に伸びた自分の影。錆び付いた取手のざらざらとした感触が伝わってくる。手のひらから錆びの香りが伝わって来そうだと思いながら、昨日確認した場所へ大きな四角を描く。
「この範囲内を掘るけど大丈夫だよな」
「はい。お願いします」
「私も手伝うよ」
隣に並んだ結雨と一緒に、硬くなった地面を傷つけていく。土を掬うと、むわっと暖かな自然の香りが広がる。多くの生き物が眠る、命の匂い。
空が青くなり始めた。朝焼けが消える。
何度かはずれを引きながら、数か所目を掘り起こす。そろそろ見つかって欲しいという気持ちが通じたのか、金属がぶつかる音が聞こえる。
その乾いた音に、思わず顔を見合わせた結雨の表情が晴れた。
「今の音って」
「晴さん、たぶんタイムカプセルですよ!」
傷つけないよう慎重に、でも急いで掘り起こす。土の中から現れた錆びた缶に手を伸ばして、土を払ってから晴さんの足元に置く。
「あ、あぁ、これです。懐かしい、僕が8歳くらいのときに埋めたんです。探偵さん、開けてくれますか!」
膝をつき、固く閉じられた蓋をゆっくりと開ける。
キィ、ガコン。
金属音と共に蓋が開き、中から四十年以上前の空気が溢れ出した。缶の中の止まっていた時間が動き出す。
赤・青・白など色とりどりのビー玉に、シルバーのミニカー、そして、風化し黄ばんだ紙が顔をのぞかせる。その他にも色鉛筆や写真などが入り、小さな宝箱のように見えた。
「懐かしい。タイムカプセルって言って、当時遊んでいたものを手あたり次第詰め込んだんですよね。その折りたたんだ紙は手紙で、たぶん僕の祖母へ伝えたいことが書いてあるはず」
「いま伝えたいことは?」
「あるけど、さすがに伝える手段がないですからね。この状況ですら奇跡なのに、これ以上の贅沢は言わないですよ」
「箱の中、色鉛筆が入っているから一言、書いてみるか?」
「でもどうやって」
缶の中から青い色鉛筆を一本取り出し、右手で握る。ひんやりとした木の質感。
「晴さん、手を出して」
「こう……ですか」
晴さんの出した手へ、俺自身の手を重ねると、僅かにピリッとした電流のような衝撃が走り、右腕の感覚がなくなった。カランと乾いた音が響く。
指から落ちた色鉛筆が、地面の上を転がった。
「う、腕が動きます。触れます!」
「時間がないから、伝えたい言葉を手紙に書き加えて。これなら晴さんの筆跡で文字をかける」
動く左手で紙を抑えると、鉛筆を拾い上げた右腕が勝手に文字を綴り始める。文字から目を離し、空から舞い落ちる木の葉を一枚、目で追う。
ときどき右腕の動きが止まり、空に弧を描く。
「那岐、これってどういう状態?」
「一種の憑依なんじゃないか。自分でもよくわからない」
正直言って分からない、この言葉だらけな世界。
それでも目に見える現実、それさえ信じていれば間違えないと信じている。
「那岐は手紙とか書くの?」
「たまにな。この仕事だと手紙が楽なんだよ、死んでるから色んな契約とかできないし」
「それもそうか、でも手紙はどこで書いてるの?」
「探偵事務所」
「私も行って書いて良いのかな」
「大丈夫だろ。寧ろ、あいつは喜ぶ」
手紙の内容を読み取らないよう、晴さんの動かす手から意識を離すために結雨と会話を続ける。この一枚に込められた想いは、俺たち部外者が知ってはいけないものだろう。
「探偵さん、ありがとうございます。書けました」
「もう大丈夫か?」
「はい」
その声に呼ばれたように、腕の重さが戻ってくる。掘り起こしたタイムカプセルの蓋を閉じ、その上に手紙を乗せる。
結雨が道具を片付けてくれ、残すのは晴さんの祖母に届けるのみとなった。実体化を解き、賽銭箱の前に腰を下ろす。空はまだ群青色。皆が起きだすにはまだ早いだろう。俺たちは、揺れる小枝に風を感じながら街が動き出すのを待った。
空高く日が昇り、生き物の動き出す音が聞こえだす。蝉の声、車の駆動音、子供の走る足音。
空気中に轟く音に空を見上げる。拝殿の朽ちた屋根越しに、ラムネの瓶のような薄い青をした空を、大きな鉄の鳥が横切っていた。
「お二人とも」
顔を戻すと、晴さんが鳥居をくぐり、こちらへと向かってきていた。
「祖母が庭の水やりをしています。お願いできますか?」
「分かった。結雨も良いか?」
「私も大丈夫だよ。晴さんも、もう思い残すことはないですか?」
「ええ、さっきも言いましたが僕はもう十分救われました。これ以上を望むのは我儘です」
憑き物が落ちたような柔らかな表情に、俺たちは決意を固めた。
俺と結雨は実体化し、タイムカプセルと手紙を手に取って神社を後にする。参道を見守る二匹の狐象に笑われた気がした。
来た道を戻り、門扉の無い家の前に立つ。伸びた自分の影が表札を隠す。
俺の隣に並んだ結雨の表情は少し強張り、口元を固く結んでいる。緊張が見えるその頬を軽く引っ張り、顔を覗き込んだ。
「はひ、ふふの」
「なんだ?」
「なにするのって言ったの」
「緊張しすぎ。もっと力抜いて、笑えてないぞ」
「もう、もう少し優しくしてよ。それに那岐だって笑ってない」
膨らました頬を撫でながら訴えかけられても、なにも言い返すことが出来ない。俺がうまく笑えないから結雨を連れてきたのだ。笑えていないのは仕方がない。
「悪かったな。行くぞ」
そう言って覚悟を決め、庭で水を撒いている晴さんの祖母に対し声をかけた。じょうろから流れる水が粒となり、光を反射する。
「こんにちは、おはようございます」
「あら、おはよう」
「預かりものがあるので、渡したいのですがよろしいですか?」
尋ねると、どうぞと俺らを庭まで招いてくれる。
歩く俺らの後ろに、晴さんが付いてくる気配だけが伝わってくる。
「預かりものってなんだい?」
「お孫さんの晴さんから」
「晴って、晴ちゃんのことかな?」
「はい。おばあちゃんに渡してほしいと」
結雨に視線を向けると、手紙を乗せたタイムカプセルを手渡し、説明を始めてくれた。
「昔、晴さんが埋めたタイムカプセルです。お隣の神社に」
「そういえば、そんなことがあったね」
「はい。あと、この手紙には大人になった晴さんが、おばあ様宛に書いた言葉も綴られています。ぜひ受け取ってあげて欲しいのですが」
「これ、本当に、晴ちゃんが?」
「はい。手紙に書いてあるか分かりませんが、おばあ様ことを凄く大切に思っていたようですね」
震える手で手紙を開き、目を細めた。文字を撫でるように視線が動くが、そこにどんな言葉が、どんな想いが込められているのか俺たちは知らない。
「駄目ね。歳を取ると文字が滲んで見えなくなっちゃって」
目元を拭って顔を上げる。
「二人ともありがとうね。わざわざ遠くから来てくれたんでしょ」
「大したことないです。俺たちは、これさえ届けられたらそれで十分なので」
「晴ちゃんも、貴方たちみたいな人に出会えて幸せだったのかね。あの子に最後、ありがとうって言ってあげたかったな。あの子が初孫でね、あの屈託のない笑顔が大好きだったのよ。おばあちゃんって言ってくれるたびに嬉しくて、ついついお菓子とかあげちゃったりして。懐かしいわね。本当、あの子のおばあちゃんになれて幸せだったわ。ふふふ、いやね、同じことを拓哉さん……あの子のおじいちゃんも言っていたのを思い出したわ」
過去の思い出を一つ一つ丁寧に開封していくように、タイムカプセルを抱きしめる。その言葉は俺たちにではなく、後ろにいる晴さんへと向かって真っすぐに伸びる。
「あら、ごめんなさいね。関係ない話ばっかりしちゃって。せっかくだし、少し休んでいくかい?」
「いえ、折角ですが俺たちはもう行きます」
「あらあら、そんなに急ぐのかい。それは仕方ないね。晴ちゃんが繋いでくれた縁だから、二人とも近くに来たらいつでも遊びにおいで」
「はい、ぜひ。その時は、私も美味しいお菓子を持ってきますよ」
「それは嬉しいね。……晴ちゃんに届けばいいのに、出会ってくれてありがとうって」
そろそろ時間だ、俺たちはもう戻らないといけない。そのことを結雨に伝えると、一言だけと呟き空を見上げた。結雨につられ、おばあさんも何もない青空を見上げる。
「おばあ様の想い、しっかり晴さんに伝わってますよ」
そう言って俺たちは実体化を解いた。
おばあさんが視線を戻すが、そこにはもう俺たちの姿は無い。影の無くなった俺たちは、もう命との接点を持たない。
「さっきの子たちは――」
視線がある一点で固定される。その先にいるのは俺でも、結雨でもない。ただ晴さんが立っているだけの空間。
果たして何が見えているのだろうか。
「可笑しいわね。突然いなくなっちゃったと思ったら、そこに晴ちゃんがいるような気がするわ」
「おばあちゃん」
目を見開いた晴さんが、ゆっくりとした足取りで俺たちの間を通り、おばあさんの前へ進む。心なしか声が震え、肩を揺らす。
「晴ちゃん。おばあちゃんはね、幸せだったよ」
誰に伝えるわけも無く呟いた言葉が、晴さんへと届く。本来なら届くはずのなかった想い。
「おばあちゃん、ぜんぶ、全部受け取ったよ。これでもう思い残すことない。元気でね」
振り返った晴さんは、右目から流した涙をそのままに、俺たちに向かって微笑んだ。それは確かに、この二日間で一番きれいで、夏空のように透き通っていた。
「探偵さん、結雨さん、僕は幸せだ。時間だけが無限に進んでいく、希望も夢も無いこんな世界で、貴方たちに出会えたことが奇跡だった。ありがとう、お二人に幸あれ」
徐々に体が光に包まれると、その瞬間、風が吹いた。柔らかな夏風に乗って、淡い桜色の光の粒が俺たちの間を通って空へと向かう。
祓えた。そう実感すると、体に入っていた力が抜け溜息が零れる。
想いや願いを果たし、未練という枷を外された魂は、重力から解放され空へと落ちていく。
どこまでも高く、いつか俺たちの声が届く未来へと向かって――。
「綺麗だね」
「そうだな。結雨は何か思い出せそうか」
「さっき那岐が記憶を取り戻そうとしたとき、ちょっとだけ何か掴めたよ」
空を見上げるのをやめ、俺の方を向く。まっすぐに向けられた視線は、俺の目の奥を射抜くように力強い。
俺は視線から思わず目を逸らし、歩き始める。その隣を喉を摩りながら結雨が付いてくる。蝉の声が大きくなる。この声はどんな蝉だったか、いくつ夏が巡っても分からないままだ。
「なあ結雨」
「なに?」
「守ることの出来ない約束なんかしない方がいい」
「……さっきの、また遊びに来るってこと?」
「そうだ。いつか苦しむのは自分だぞ」
「でもさ、希望は持っていて欲しいじゃない。『いつか』っていう約束があれば、それを希望に生きていられる。明日を願えると思うの……ダメかな」
「別に理由があるなら否定はしない」
「ありがとう。また明日のお仕事、手伝って良いんだよね?」
「ああ、明日も頼む。僅かだけど記憶が戻ったみたいだし、このまま続ければいずれは」
「やった。よろしくね、那岐」
一人で歩いていた世界はモノクロで、どこへ向かっても同じ景色に見えていた。それが今では、隣で一緒に歩いてくれる人がいるだけで、世界に色彩が蘇ってくる。夏空の下、同じ白でも青や黄色が複雑に溶け合って、目の前の世界が作られているのを感じる。
それでも手首の締め付けられるような痛みはいつも通りだ。
ふと見た木には、羽化に失敗した蝉が孤独そうにしがみ付いていた。
ああやっぱりこの世界は、いつまでも、どこまでも不平等だ。
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