賑やかな星

彼岸花

第一章 滅びの日

滅びの日01

 有栖川ありすがわ継実つぐみは走っていた。齢僅か十歳の身体を容赦なく突き飛ばす大勢の群衆に埋め尽くされた、生まれ故郷である関西の大都会の中を。

 本来ならば、顔を上げれば薄曇りの空を埋め尽くさんばかりにビルやマンションが建ち並ぶ、明るくて『文明的』な景色が見えただろう。地元民である継実はそれを知っていて、今でも視界の先にはたくさんのビルがある筈だ。しかし今は走る大人達に遮られ、年齢相応の背しかない継実の視界には建物どころか正面すらろくに見えない。

 元々たくさんの人で賑わっている、ある意味喧しい街だったが、今の喧騒は普段の比ではない。泣き声、雄叫び、罵声、懇願……負の感情を撒き散らしていた。楽しさなんて欠片もない『五月蝿さ』は、無関心を決め込まねば自分の心で蝕まれそうで、継実には聞き流す事しか出来ない。例え足下から呻きのような声が聞こえたとしても、だ。

 阿鼻叫喚とはこのような光景を言うのか。最近覚えた物騒な言葉の意味を、継実は身を以て覚える。

 小さな継実に『阿鼻叫喚な大人達』と張り合うほどの力もなく、感情を剥き出しにする大人達は幼い継実を気遣う素振りすらない。もしも継実が一人だったなら今頃彼等に突き飛ばされ、倒れたところを容赦なく踏み潰されているだろう。

 そうなっていないのは、彼女の片手を母が強く握り締めているからに他ならない。

 その母のもう一方の手を引くのは父であり、一家は一列に並ぶように駆けていた。継実の両親はどちらも表情が強張っており、母は継実の手を痛いほど強く握っている。きっと父も母の手を、痛いぐらい強く握っているのだろうと継実は思った。

 周りの大人達と同じく、自分の一家も必死なのだ。


「(なんか、怖くなくなってきちゃった)」


 そしてみんなが必死過ぎて、幼い継実はその感情についていけず、何事もないかのように落ち着いていた。開いている片手で自分の黒い髪を弄り、焦げ茶色の瞳で辺りを観察する余裕まである。

 冷静なのは良い事だろう。しかし今に限れば、もっと必死になるべきだと継実自身思う。

 何故なら、此処で暢気にしていたら『死ぬ』から。

 しかもその死の原因は、二つも訪れている。

 一つ目は、今このタイミングで襲い掛かる――――身体が浮かび上がるほど大きな地震。


「う、うぉあっ!?」


「きゃああああっ!」


 父が立ち止まり、母がしゃがみ込む。継実もその場にへたり込み、周りを走る大人達も一斉に足を止め、転ぶように座った。

 誰もが継実達と同じ行動を取るが、危険だから立ち止まったのではない。走れなくなるほど揺れが強いのだ。人間の身体すら耐えられない揺れに、人間よりも柔軟性に欠く建造物が平気な筈もない。道路が波打ち、電柱が倒れ、建物のガラスが次々と割れる。悲鳴が、叫びが、あちこちから上がった。

 やがて、周りに建つビルまでもが倒れ始める。


「ひ、ひぎぃやあああああああああ!?」


「キャアアアアアアアアアアア!?」


 テレビや映画でも聞いた事がないような、救いを求める絶叫。鼓膜が破れそうなほどの大声は、しかし崩落する数万トンのコンクリートの前ではあまりに無力。莫大な瓦礫により、継実より何十メートルも先を進んでいた人々は声も姿も一瞬で飲み込まれてしまう。

 瓦礫の下がどうなっているかなど、考えるまでもない。かつての形を完全に失った、人だったものがあるのだ。或いはもしかすると幸運にも ― それとも不運にも ― 生き延びた人がいて、助けを求めているかも知れない。

 しかし一部の人々は躊躇いながらも前進し、瓦礫の上を這っていこうとする。地震は未だ終わらず、瓦礫は崩れつつあるが、それでも上を進もうとする者は後を絶たない。

 何故なら、此処に留まり続けるよりも安全だから。ビルが倒れて出来た瓦礫と、これから倒れるかも知れないビルの傍。どちらがよりかは言うまでもない。ビル街のど真ん中では、舗装された道路よりも瓦礫の方が相対的に安全なのだ。

 更にもう一つの、何より最大の理由は、此処に留まってなんていたくないから。

 継実達が逃げていたのは、襲い掛かる地震からでも、崩れ落ちる建物からでもない。

 全ての元凶である『魔物』からだ。


【バルルオオオオオオオオオオオンッ!】


 その魔物の咆哮が、継実のすぐ後ろから聞こえてきた。継実はくるりと、無意識に背後を振り返る。

 すると継実から二百メートルは離れた位置に建つビルが、五つほど纏めて崩れる。地震の揺れによるものではない。さながら積み木を後ろから突いたように、そのビル達も崩落したのだ。

 大轟音を奏でながら瓦礫へと変わるビル達。朦々と舞い上がる白煙に飲まれ、一瞬で何千という命が消えていく。だが、最早この悲劇に悲しむ人はいない。

 ビルを幾つも突き崩し、それでもなお平静としている魔物が、自分達の前に現れたのだから。

 そいつは、ワニのように大きな口と、鋭い牙を持っていた。

 しかし断じてワニではない。溶岩が固まったようにゴツゴツした皮膚に鱗はなく、頭には目なんて一つも付いていなかった。身体に付いているのは脚ではなくヒレであり、アシカのような寸胴の体型をしている。

 何より目を惹くのはその大きさ。はあると、ネットのニュースで書かれていたのを継実は覚えていた。本当にそれほどの大きさなのかは分からないが、そうだとしてもおかしくないと感じるほどの圧倒的な巨体だ。

 こんな化け物の傍に居たら、踏み潰されてしまう。出来るだけ遠くに逃げないといけない。

 だけど逃げられない。


【バルルルルルオオオオオォンッ!】


 雄叫びと共に魔物がその巨体を動かせば、それだけで次々と建物が倒壊していく。倒壊の揺れが、立ち上がろうとする人々を転ばし、瓦礫の下敷きにしていった。

 加えて巨大な地震は今も続いており、人間達に立ち上がる事さえも許さない。大人でも這うのが精いっぱいな揺れの中、十歳の継実には動く事すら満足に出来ない有り様。

 大体逃げてどうなる?

 そのうち自衛隊が倒してくれる? なんて馬鹿げた考えだ。自衛隊だろうがなんだろうが、あの魔物は絶対に倒せない。何故ならこの怪物が現れてからかれこれ数時間が経ち、世界各国の軍隊が攻撃を仕掛けたが……通常兵器どころかような生き物なのだから。

 そしてあの魔物は今、世界に何百体も現れている。

 逃げ場なんて、もうこの地球の何処にもないのだ。


「継実! 立つんだ! 早くあっちに逃げるぞ!」


 それでも父は諦めずに立ち上がり、妻と娘を立ち上がらせようと、力いっぱい掴んでいた母の腕を引っ張る。

 継実の父の頭上から巨大なガラスが落ち、父を叩き潰したのは、その直後であった。


「あ、あなたぁぁ!? ああ! ああ!?ああ!?」


 母が悲鳴と嗚咽を上げる。継実から手を離し、ガラスの下敷きになった父を掘り起こそうと、割れたガラスを素手で掴んで投げ捨て始めた。自分の手がズタズタになってもお構いなしに。

 継実は動けなかった。涙も出なかった。悲しいとか、怒りだとかも湧かなかった。

 決して父の事は嫌いだったのではない。むしろ大好きで、とても尊敬していた。普通に死んだのなら、きっと母のように取り乱し、何日も泣き続けただろう。

 だけど今は違う。

 巨大な魔物が動くだけで、何千という人々が死んでいく。父はその何千のうちの一つに含まれてしまっただけ。

 継実はもう、自分が死ぬのは仕方ないと思っていた。父の方が少し早かっただけなのだと。


「ぇ、あ、きゃあああああああああああああああああああああああああ!?」


 そして母が、父の居た場所に近付いたがために、流れ込んできた瓦礫の下敷きになったのも……早いか遅いかの違いでしかない。

 みんな死ぬ。誰もが死ぬ。一人残らず死ぬ。だって、あんな化け物から逃げられる訳がないのだから。


「(私、こんなところで死ぬんだ)」


 自らの運命を悟った継実は、力なくその場にへたり込んだ。動かなくなった継実の傍を、大人達が這いずるように通り過ぎていく。誰もが死にたくなくて、必死に逃げていた。

 だけど彼等は飛んできた瓦礫やガラスに飲まれ、次々とその命を散らしていく。動かなかった継実にはガラスも瓦礫も当たらないというのに。生きる意思など放棄しているのに、死は彼女に降り掛からない。

 段々、足掻き続ける周りの姿が滑稽に思えてきた。

 ――――魔物が自分の方目掛け進み始めたところで、周りを見下す気持ちも萎えたが。


【バルルオォオオオオオン!】


 吼えながら進む魔物。真っ直ぐ継実の方へと向かうが、魔物は継実など見えてはいまい。奴にとって人間など足下のアリ、否、石の隙間に潜む微小生物程度の存在でしかないのだから。

 逃げもせず、抗いもせず、継実は座り続けた

 その時である。

 継実の傍を、一匹の『チョウ』が通ったのは。


「(……青い、チョウ?)」


 偶々視界に入ったその『虫けら』に、継実の意識が逸れる。

 煌めく青い翅を持つ、大きなチョウ。特徴的な外観故に、継実はそのチョウの種を無意識に特定する。

 アオスジアゲハだ。幼虫がクスノキの葉を食べる、アゲハチョウの仲間である。クスノキは強力な殺虫作用を持ち、そのため虫害に強く、街路樹として都会でも植えられている木々。そんなクスノキを餌とするため、アオスジアゲハは都会に進出出来た……要するに都市でもよく見られる、有り触れた昆虫という事だ。十歳の女児らしく、そこまで虫に興味がない継実でも種名ぐらいは知っているほどに。

 アオスジアゲハはゆったり、真っ直ぐ飛んでいく。その進む先には、ビルをも平然と薙ぎ払う魔物が居るにも拘わらず。

 野生動物の癖に迫り来る危険を察知出来ないのか。そんなのでよく成虫になれたものだと、継実は間抜けなチョウの姿に心底呆れた。

 間抜けが自分の事だと自覚したのは、それから瞬きほどの時間も必要ない。

 アオスジアゲハの翅が、不意にキラキラと輝き始める。

 太陽の光で輝いているのか? 否である。今日の天気は薄曇りであり、太陽は未だ出ていない。確かにアオスジアゲハの翅には光沢があるものの、曇り空で光り輝くような『発光』能力なんて備わっていないものだ。

 何かがおかしい。継実はそう思った。

 けれども、この後に起きたものに比べれば、翅が光る事など些末であろう。

 そう、些末だ。

 


「えっ?」

 

 思わず継実は声が漏れ出た。「何よそのインキチ攻撃」とばかりに。

 しかしアオスジアゲハの翅から出た何十という数の、太さ数センチのレーザーは瞬きしても消えない。車よりもずっと速く ― しかし『光』であるレーザーが何故目視可能なスピードで飛んでいるのか ― 空中を駆け抜け、あろう事かぐにゃぐにゃと、泳ぐウナギのように訳の分からない軌道を見せる。おまけにレーザーは互いの位置を認識しているかのように、揺れ動きながらも交わる事がない。

 幼い継実には、これらの光景がどれだけ『出鱈目』なのかまだ理解出来ない。されど放たれたレーザーが未だ建っていたビルを易々と貫き、積み上がった瓦礫を蹴散らすように粉砕するのを前にすれば、その力強さが如何ほどかは分かる。


【バギッ!? ギ……オオオオオオオンッ!】


 ましてや光の直撃を受けた魔物が苦しめば、継実は驚きを覚えた。核兵器すら通じない魔物が痛がっているのだ。ならあの光は、核兵器の威力さえも超えるという事になる。

 魔物が苦しむと、アオスジアゲハは空高く。翅から後方に向けてレーザーを撃ち、それを推進力にして飛行機のような速さで大空を駆けたのだ。アオスジアゲハの飛んだ軌跡として飛行機雲が出来、何百メートルもの高さに一瞬で達してしまう。

 魔物は飛行機雲からアオスジアゲハの位置を特定したのだろう。顔を向け、大きく口を開き……その口から、半透明な『ビーム』を吐き出した。

 ビームはアオスジアゲハを直撃した。したが、あろう事かアオスジアゲハはそのビームをまるで鏡に当たった光のように跳ね返す。直角に曲がったビームは都市の一部に当たり、ビームの当たった道路やビルが、弾け飛ぶ。

 どんな能力かは分からないが、魔物には当たった物体を溶かす力があるらしい。アオスジアゲハはその攻撃を防いだが、怒りを覚えたようだ。反撃とばかりに、今度は何百という数のレーザーを放射。雨のように魔物へと撃ち付ける。魔物は悲鳴を上げ、のたうち回り、ビルが何十棟も薙ぎ払われた。その傍に隠れていた人間も、きっと何万と薙ぎ払われた事だろう。

 人間の事など気にも留めない、闘争。

 継実は、そんな二匹の争いを茫然と見つめるばかり。訳が分からない。なんでアオスジアゲハがレーザーを出して、巨大な魔物と互角に戦っているのか? 考えたところで常識的な答えが出る筈もなく、継実は思考停止から身動ぎすら出来なくなった。無論化け物二匹は継実がそこから逃げなくても、戦いを止めたりしない。レーザーを、ビームを、物理攻撃を、都市のど真ん中でやりたい放題に披露する。

 そしてついに、継実に彼等の戦いの余波が襲い掛かる。

 ……小さなコンクリート片が、高速で飛んでくるという形で。


「いだっ!?」


 瓦礫は見事継実の額に激突、したものの、あまりの小ささ故に継実の頭を割るほどの威力はなかった。手にはじんわりと湿った感触があり、出血はしているようだが、それだけ。命に別状はないだろう。しかしそれでも物凄い激痛が継実の頭に走り、ひっくり返った彼女はバタバタと藻掻いてしまう。

 藻掻きながら、はたと気付いた。


「(あれ、もしかして死ぬのって……これより、ずっと痛い?)」


 ぞわりと、悪寒が身体に走る。

 人によっては、くだらないと思うだろう。痛い事が途方もない恐怖であるなどと。しかし継実はこれまで両親に大切に愛され、殴られたり叩かれたりされた事がない。友達とのケンカも殆どなく、しても悪口を言い合うだけ。習い事もスポーツではなく学習塾で、身体を痛め付けた経験がない。

 痛みを感じた事が、殆どないのだ。

 魔物に踏み潰されれば一瞬で死に、痛さなど感じないだろう。ビルの下敷きでも同じだ。けれども、例えば今のように飛んできた破片が原因なら? お腹に突き刺さった、腕や脚が千切れた、動脈を切られた……即死しない、苦しい死に方なんていっぱいある。

 楽に死ねるなんて、決まった訳じゃない。


「あ、あ、ぁぁ……!」


 ガタガタと、継実は震え始める。怖くて堪らず、身体が無意識に後退る。

 痛い死に方なんて嫌だ。いや、そもそも死にたくない。生きていたい。彼女はそう思い始めた。

 周りで死んでいった、多くの人々と同じように。


【バルオォンッ!】


 まるでその気持ちが伝わったかのように、未だ戦いを続けている魔物が跳ねた。巨体が暴れた勢いで、道路の一部が捲れ上がる。

 捲れ上がった道路は、継実目掛けて飛んできた。


「……ぁ」


 継実は気付いた。飛んでくる道路だった瓦礫は、自分の身体の何十倍も大きなものだと。頭上を通り過ぎる事も、手前に落ちる事もなく、自分の真上にやってくる事も。

 逃げられない。

 自分は此処で、死ぬ。


「い、やあああああああっ!」


 継実の悲鳴が木霊し――――
























 

























 これから始まるのは、彼女が紡ぐお話。


 荒れ狂う魔物をも踏み潰し、


 叡智で磨かれた星さえ打ち砕き、


 偉大なる神々を薙ぎ払う、


 野蛮で、


 残虐で、


 傲慢で、

























 故に美しき、生命の物語である。



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