第2話
ここは帝國銀行目黒支店の殺風景な会議室だ。床はベージュかグレーか良く分からない色のタイルが敷いてあり、何かを引きずった跡があちこちに見られる。壁際には、折り畳み式の椅子とテーブルが畳んで並べられている。田嶋は木村と広い会議室で向き合っていた。田嶋と木村の間には折り畳みのテーブルが二つ並んでいる。テーブルの天板にはこげ茶色の木目が見えるが、これはもちろんプリントだ。
いわゆるコロナ明け以降は面談時には相手と距離を取るようになった。2mは必要だ。田嶋は相手と距離の遠い面談にはまだ慣れていないが、少しだけ声のボリュームを上げて話を始める。本当はウェブ面談の方が良いのだろうが、人事関連の話題について人はウェブ面談を嫌う。
「木村さん。これから言うことは、少しだけ残酷だけど、真実です。私はまどろっこしいことは言いません。法律的な観点から木村さんのために客観的な意見をしたいと思います」
木村が構えたような顔をした。少し涙が引っ込んでいるようだ。
「結論から言います。支店の飲み会に木村さんを強引に誘ってもパワハラにはなりません。裁判をやっても良いです。私が把握している事象が事実ならば、ほぼ間違いなく木村さんは負けます」
木村の口が開いて、何かを言おうとして止まった。整った白い顔に口だけが開いているようだった。口は奈落の底に繋がっているように暗く見える。表情はさらに陰がさしている。
「少しだけ専門的な話をさせてもらいます。パワハラという言葉は、一般的な用語となっていますが、法的に問題となる『パワハラ』は一般に思われているよりも範囲が狭いと考えて下さい。法律にはパワハラの具体的な定義はありませんが、厚生労働省によると職場におけるパワハラとは『同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為』と定義されています」
ここで一息つく。木村は微動だにしない。田嶋の顔を見ているようだったが、目は焦点が合っていないようだった。
「厚労省は、職場のパワーハラスメントの6類型として、過去の裁判例や個別労働関係紛争処理事案に基づき、典型例を整理しています。それは次のようなものです。一応、私も人事部なんで記憶しています」
田嶋は六つの類型を述べた。
①身体的な攻撃
暴行・傷害
②精神的な攻撃
脅迫・名誉毀損・侮辱・ひどい暴言
③人間関係からの切り離し
隔離・仲間外し・無視
④過大な要求
業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害
⑤過小な要求
業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと
⑥個の侵害
私的なことに過度に立ち入ること
「お分かりになるでしょう。飲み会の誘いは、どの類型にも該当しないのです」
木村がテーブルに目を落としている。
「もちろん、単に飲み会に誘うのみならず、断っても繰り返し執拗に誘う、断った後から無視をする、嫌がらせをする、人事評価を下げる等の事象があるのであれば、パワハラの類型には該当する可能性が出てきます。しかし、私が確認できた限りでは、木村さんにそのようなことは起きていないのではないでしょうか」
木村がテーブルから田嶋の方に目を上げた。右目から涙が零れる。色素が薄いのだろう。目の周りが充血している木村は、まるで白いウサギのように見えた。それでも田嶋は淡々と話を続ける。
「パワハラは法律で明確に決まっているものではありません。飲み会への参加を強要した人の態度、強要された人の抵抗の程度、職場の雰囲気等、様々な要素から『立場を利用して』『業務外の行為を強要する』パワハラへの該当性、違法性が判断されることになります。繰り返しになりますが、このような事案を山ほど見てきて、裁判例も勉強してきた私としては、今回の一件はパワハラではないと思います。もちろん、ウィルス感染症対策としても政府が自粛要請を解除した以上、ウィルス感染症対策としても問題とはならないでしょう」
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