5.兄の後輩さんは時代劇がお好き
人間は長い歴史において、移動・運搬の合理化に心血を注いできた。運んであげると駄賃がもらえるし、運んでもらうと楽ちんだから。
萩乃の生きるこの世界は、他のどんな世界よりもトランスファーと呼ばれる技術が進んだ。
トランスファーは、大きく分けて三種類がある。
実用化された順に、アイテムトランスファー、フルトランスファー、ソウルトランスファーだ。
アイテムトランスファーは無生物の運搬。
二百年前も今も、駄賃アンド楽ちんの精神は変わらない。変わったのは「路」である。かつて主役であった道路・線路・空路などが、路をゆずり亜空間路が今の主役を務めている。
現在、たいていの裕福な家庭には移動運搬室がある。猪野家ともなると移動室と運搬室が別れている。
萩乃の兄は移動室からフルトランスファーして会社に行った。午後三時前には戻ってくるそうだ。なぜなら、昨日約束した後輩が訪ねてくるから。
萩乃はいつもより一時間早く自己学習を始めている。終了時間を一時間早くするためだ。
大森くんのゲームのサポート担当と初対面する今日くらい、なにも律儀に定刻を守らなくてもよさそうだが、萩乃は一貫してそういう考え方をしない性格の持ち主なのだ。
そうして午後三時を迎えた。
運搬室に亜空間路から箱がいくつか届き、道路からきた人たちが第二遊戯室に運んでいる。今日はゲーム専用カプセルを設置するための土台が作られるのだ。
作業の陣頭指揮を執っている女性が吉兆寺桜だ。身長は萩乃とほぼ同じくらいで、萩乃の兄より頭一つ分低い。そして童顔だ。
第一客室で萩乃が待っていると、兄と桜が入ってきた。
萩乃と桜の自己紹介が終わり、兄が一言加える。
「萩乃、この吉兆寺くんはなあ、時代劇がお好きなのだよ」
「あらまあ、そうですのね」
「あ、ええまあ。その、子供の頃の話なのですが、祖父がよく古いテレビ映画などを観ていましてね。その横で一緒に眺めているうちに、いつの間にか私も好きになっていたのですよ。うふふふ」
好みの話題になったことが、桜は嬉しいらしい。目が輝いている。
対する萩乃も、時代劇はわりと好きなほうだ。
「吉兆寺さんは、どのようなお話が一番お好きなのでしょう?」
「桜とお呼びくださって構いませんよ」
「はい。桜さん」
「うふ。私の一番はですね、なんと言っても水戸の御老公様です」
「あらまあ、わたくしもそうですわ」
「へえ~、萩乃さんも黄門様フェチなのですか!?」
「はい」
昨夜兄が言った通り、萩乃と桜は馬が合っている。
兄がここぞとばかりに割り込んでくる。
「あれは、いつだったかなあ。宴会の席で吉兆寺くんは、一人全役チャンバラを披露してくれたのだよ。いわゆるスイッチが入った状態になってね」
「あー、猪野先輩、覚えていてくださったのですか。とても光栄です!」
まんざらでもないらしい。
その一人全役チャンバラとは、どんな宴会芸なのか。
「あらまあ、面白そうですわ」
「どうだい吉兆寺くん、一つここで?」
「えぇー、よしてくださいよぉ猪野先輩。そんなぁ~」
桜が赤い顔になって拒む。
「萩乃にも、見せてやってはくれないかなあ?」
「えぇ~、ここであれをだなんて、ここでですか? 私あれやるんですか? 私どうしよう。え、やっちゃっても、いいのですかぁ?」
どうやら桜本人は熱烈にやりたいらしい。
そうだと知っている兄が、すかさずゴーサインを出す。
「吉兆寺くん。少し懲らしめてやりなさい」
「はい、猪野様!」
桜はすっくと立ち上がり、まず両手を使って刀を構える姿勢をする。
そうしてすぐ動き出した。エア刀を振り回しながら、劇中のありとあらゆる音声と効果音を自らの口で発し、身体は複数の役を入れ代わり立ち代わりして、見事なまでの立ち回りを演じている。
セリフを適宜交え、刀が空を切る音、刀同士でぶつかり合う音、人が斬られたり刺されたりする音、風車の飛ぶ音、転んだり倒れたりする音、怒鳴り声、叫び声、呻き声、それらなにもかもすべてを桜がたった一人で、しかもあえて滑稽に見えるように宴会芸として、こなしているのだ。
萩乃が愉快に笑っている。もちろん兄も笑う。
「まあ桜さん、ペガサス級の芸能ですわ!」
超一流という程度の表現ではない。やがては廃れてしまうかもしれないが、ペガサス級というのは、超一流のさらに上を行くという意味で、現時点では最高級の褒め言葉なのだ。
「な萩乃、ものの見事にスイッチが入っただろう?」
「はい。お兄様」
桜の独演チャンチャンバラバラは、二分くらい続いた。
シラフでこんなことをやってのけるのだから、宴会の席で酒でも入ったりしたら、もうとんでもないことになるに違いない。
「それでは萩乃さん、明日は大森くんのゲームの始まりですよ。また三時にお会いしましょう」
「はい。お待ちしていますわ」
いよいよゲーム専用カプセルがやってくる。そして桜から使い方を教わり、実際にゲームを始めることになるのだ。
ペガサス級のパフォーマンスを見せてくれた桜は、静かに帰って行く。
「どうだい、楽しい人だろう?」
「本当、とっても面白かったですわ。くすっ」
先程のシーンを思いだすと笑いを隠しきれない。
また、ああいう芸当を初対面の者の前でも、即興で披露できる人間がテレビジョンの外にもいるのだと知り、とても新鮮な気分に浸れた。
「明日は兄さんはいないのだが、萩乃一人でも大丈夫かい?」
「はい。お兄様!」
爽快に返事する萩乃。そんな眩しい妹の笑顔を見つめながら、兄は桜を選んだのは正解だと強く思うのだった。
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