帆純は料理が出来る人だから、私達は台所で並んでよく料理を作る。彼曰く、大学の時に一人暮らしをしてたから、自然とやるようになって、好きこそものの上手なれで上手くなったそうだ。私は大学の時は実家暮らしだったから、好きな時に起きて好きな時に好きなものを食べられる生活の話を聞いた時は単純に羨ましく思った。でもそれがずっと続くとなると、広い森の中にたった一人で放り込まれたようで逆に不安になるかもしれない、そんなことも思った。森と言うよりも、むしろ、素材と道具に該当するものなら何でも取り寄せられる牢獄のような部屋をあてがわれてこの中で自給自足しろ、と言われている気分の方が近かったように思う。大学の哲学の講義で年配の教授が授業にかこつけて私達に投げつけるように言った、我々は自由の罪に処されている、という言葉。あの生きる人間全てを傷つける言葉の刃のようなフレーズがあの時、脳裏をかすめた。

一緒に料理する時に作るのは、彼が一人暮らし時代によく作っていたというパスタやハンバーグが多い。女の子受けする男子ご飯みたいなメニューだけど、もう無理に気取る必要もないから、量を作る。あとは作る過程を楽しめる工作系の料理も良く作る。肉巻きおにぎり、餃子、ロールキャベツなど。どっちが作ったのか丸わかりだ、とか言いながら作る。私はひねくれているから、彼と笑い合って料理を作りながらも、料理って一見ほのぼのしてるけど、やってることは残酷だよなあ、と内心では思っていたりする。だって魚とか、鳥のお腹の中のものを全部掻き出して、彼らにとっては異物の米とか、いろんなものを煮詰めた得体の知れないスープや、生きている時は存在すら知らなかった同種の仲間の肉や、別種の見たこともない魚とか鳥の肉とかを代わりに詰め込んで、それを手間暇かけてるとか、って言って、おいしいおいしいって食べるわけだから。これが人間だったら、狂ってる、て思う。何でもおいしく食べる中華料理の楽天的なイメージと、嫌なら食べるな、という便利な戒めの言葉があるから、それらに甘えておいしく頂くけどね。

帆純は理系の人だから、この感覚を分かってくれると思う。実際に話したら、ブラック・ユーモアだと言って笑ってくれるかも。私達は食べる時には味の話はしない。ただおいしいね、とだけ言って笑い合う。その代わりに、お互いの食べる様子を互いにちらちらと見ている。おいしいと思うものを食べながら、好きな人と視線を絡め合うのは楽しい。彼の顔を起点に視線がいびつな円を描いていく。その円を行きつ戻りつなぞる形で彼と笑い合っていると、先のもの食う人間の浅ましさについての気づきも忘れる。一種のトランス状態になると言ってもいい。そんな時は自分がご飯を食べていることなど忘れて、既視感はあるけど絶対に行ったことがない学校の校舎の屋上の端で片足を目一杯空に投げ出して気が済むまで二人で踊っているような感じになる。私は彼と同じ学校ではないから現実逃避以外の何物でもない。でもそれは次元を飛び越えて、まだ何も知らなかった頃の二人が出会ったかのような贅沢な時間だ。

だから食事の時間は嫌いだが、食べるという行為は好きだ。だって食べることで子どもに戻れるから。だから私には嫌いな食べ物がない。彼も嫌いなものはないと言っているから、その意味では、私達は一番純度の高い子ども返りが出来ている。

でもこの子ども返りもまた私達の遊びなのだ。子どもに戻った後は必ず大人に戻りたくなる。私達は子どもが絶対に飲めないものを互いに飲ませ合うことで大人に戻る。辛い時もあるけれど大切な行為だ。自分達が夢の世界の住人ではなく、きちんと大人であることを確かめて、安心するための。


帆純はテレビをほとんど見ない。情報収集はスマホで済ませているようだ。職場にも新聞があるから、特に不自由はしていないよ、と言っている。彼は忙しい人だから、見たいものをさっと見たいと考えているのだろう。嫌いなものは見たくない、が本当に叶う、いい時代になった。

本は好きなようで、ベッドルームのダブルベッドの枕元には本が積んである。自然科学の本と、古典小説が少々。昔読んだものを読み返している、と言っていた。私はテレビは普通に見るけれど、本は進んでは読まない。人に勧められたらベストセラー小説を読む位だ。あまり本を読むのは好きではない。実用書は必要に駆られれば普通に読み進められるから、本というより物語を読むのが得意ではないのだと思う。小説の世界は甘美だけど、自分をあの世界に投影することは苦手だ。気恥ずかしいというのか、自分があの世界にいると想像出来ないのだ。もちろん小説の主人公がかわいそうな目にあっていたら、人並みに心は痛むけれども。

ある時彼に「本が嫌いなの?」と聞かれた時に、そうかもしれない、と答えたら、少し残念そうな顔をされた。知らぬうちに態度に出してしまっていたのか、と思い、焦った。「どうしてそんなことを聞くの?」と聞いたら、ベッドの周りの本に興味を示さないからだ、と言われた。彼の私を見る視線が、一瞬射るような鋭さになったことにただならぬ気配を感じた。条件反射的にごめんなさい、と謝ると、きょとんとした顔で「なんで謝るの?」と笑われた。僕が綾を好きになったのはもっと別の理由だよ、そんなことも言われた。彼は目を逸らさなかった。楽しいことが別にあるのは、いいことだ、とでも言うつもりだろうか。自分自身にそんな風に言い聞かせているみたいに。最愛の人が嘘をつくのを見たくなかった私は、彼の視線から逃げるようにして、目を逸らした。

あの日は当たり障りのないことを話した後に、早めに床に就いた。私も彼も眠れなかった。月が明るい夜で、カーテンから漏れ出た月の光が、ほの暗い天井に無秩序な光のグラデーションを作っていた。美しいけれども見続けているとゆっくりと不安を掻き立てられるような光だった。それは私が知らない光だった。この光以外にも私が知らないものは世の中にたくさんあるのだろう。

私は彼の両親を知っている。彼の両親は二人とも気が優しくて穏やかな人だ。公務員をしているお父さんと専業主婦をしているお母さん。お父さんは子どものユーモアを忘れていない人で、ドラえもんに出てくるのび太のお父さんみたいな、古き良き時代の父親という感じがする。生け花が趣味で定期的に自宅で教室を開いているというお母さんは、そんなお父さんを三歩下がって見つめる、物静かな人。嫁いびりとは無縁の人。本当に花が好きなようで、京都の実家に寄る度に新聞紙に包んだ花を持たせてくれる。二人の立ち居振る舞いを見てると、勝ち気なうちの両親の粗を露わにされるようで、時々恥ずかしくなる。両親を通して間接的に私が責められているようで、居たたまれなくなる。でも、彼らですら、息子の帆純のことを全て知っている訳ではないだろう。

それでも構わない。私は私が知らないという事実を受け入れる。無知であることを受け入れる。でもその前に言葉にしたいのだ。言葉になる前に彼の手を取りたくはない。言葉になる前に彼の手を取ったら、ただの泣き落としになってしまうから。

疑惑の象徴の本達が暗闇で見えないことが救いだった。


「前に付き合ってた彼女はね」

「……」

「本が好きな子で、僕のマンションのベッドの上で寝っ転がって、いつも枕元の本ばっかり読んでたんだ」

「……」


返事の代わりに寝返りで答えた。擦れるシーツの音が耳元で響いた後で、私の右手が彼の左手に当たった。暗闇の中で彼の目が光った。彼の声はよく通る。胸板の厚いがっしりとした体形と、皮肉屋の私の母が甘いマスクと評した容姿にふさわしい、柔らかさの中に、凛とした強さがある声。声音そのものが意志を持ってまっすぐ進んでいくような、耳にした者を安心させる声。彼の腕の中で、その心音を感じながら、いつまでも聞いていたい。

だが、そんな声も、暗闇の中では進む方向が見えなくなるからか、声自体が行き場を失っているようで、物寂しく聞こえる。

だから私はテーブルランプを付ける。テーブルランプの照らす光の力で、彼の声の進む先を照らしてあげたい。その心を彼が望むやり方で癒してあげたい。


「どうして、そんな目をするの?」と彼に聞かれた気がした。

自分の意志とは裏腹に、ん、と声が漏れた。結果的に相槌になった。

彼は私の手を取った。そのまま口元に持っていく。

リップクリームを塗るように上唇で私の指を滑らせた後で、人差し指をゆっくりと口に含んだ。

テーブルランプの暖色の光のせいだろうか、虚ろに開いた彼の目は潤んで見えた。視界の端で、オレンジ色の湖が揺れていた。彼は私の指を舐めながら、私の反応を観察しているようだった。彼の言葉を勝手に想像した私に罰を与えようとしているのだろうか。そう考えた途端に顔が火照るのが分かった。指の腹をじらすように舐める舌の感触が、右手の指先から電流のように伝わると、吐息を漏らして悶えてしまった。思わずシーツに顔を押し付けた。くすぐったいのに切ない。泣くことも笑うことも出来ない私が感じたのは、恥ずかしい、という感情のみだった。またいつものように袋小路に追い詰められていたのだった。彼は人差し指を口から離すと、「こんなこと、言わなきゃよかったかな」と自虐的に囁いて、苦笑いした。

口では弱音を吐きながら、彼は私を攻める手を緩めない。彼は私の顔を自分の方に向けさせると、私の頬に手を添えた。これから私を執拗に責める手を添えられた私の反応を観察している。彼をまともに見つめることすらもう出来ないのに、こんなことを聞くなんて、ずるい人だと思う。薄目を開けて彼を睨もうかと思ったが、出来ない。代わりに熱い眼差しを向けた。彼の問いに答えられない私の今の姿を見せることで抵抗する。自分の手の平で自由に転がされている私を見ることで、彼は自己所有の実感に震える形で、癒されているはずだから。そう思うと彼がかわいく思えて来る。でも身体は言うことを聞かない。結局、私は彼と同じなのだ。彼を出し抜けないという現実に安心している。

彼はベッドの中でも良く笑う。いつもの人懐っこい微笑みがテーブルランプのほの暗い光の下では、周囲の暗闇に輪郭が溶け合う形でセクシーな微笑みに変わる。現にあの時も、昼間の面影が残る微笑みの奥で、君はぼくのものだ、と妖しく囁かれているように感じて、あの後は全身の力が一気に抜けてしまった。

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