その月は満ちて嗤う

あずま八重

第1話

 むせ返るような赤い臭気と熱の中、十六夜の月に切り取られたシルエットの目だけに光が灯るのを見た。

 ――死にたくない!

 その一心で逃げ出す。命の恩人を死に追いやった後悔など、この危機の前では無いも同然だった。

 赦しを乞うてどうする? やらなければ喰われていたかもしれない。あれは間違いだったと認められるのか? ヒトのなりをした怪物でなく、ヒトだったなんて認めてしまったらそれはただの――

「違う! 俺は悪くなんかないッ!」

 色濃く伸び迫る影が視界の端にチラつく。警戒するあまり、足がもつれて倒れこんだ。それでもまた愚直に逃げ続ければいいものを、振り返り、見てしまったからにはもう立ち上がることなどできない。

 よく分からない声が出た。瞳孔が開いていくのが分かった。――ここで死ぬのだと悟った。

「お前も苦しむがいい」

 けれど絶命したのは、呪いの言葉を吐き捨てた、その狂人のほうだった。


     *

 ――何事か、叫んでいたような気がする。

 そんな感慨だけを残して去った夢を追いかけるように起き上がった。掴めるはずもないのに伸ばされた腕を落とせば、ねっとりとした汗が頬を伝って下顎へと流れていく。ひたいにまとわりつく伸びた前髪をわしゃわしゃと掻き上げて熱気を飛ばしていると、部屋のドアが遠慮がちに叩かれた。

「大丈夫? うなされてたみたいだけど……」

 小さく開けたドアから顔を覗かせ、マリアが声をかける。ただの悪夢さと答える私に、妻はいつものように少しだけ悲しそうな目をして「そう」とだけ返した。

「もうすぐ日没よ。まだお湯も残ってるから、ヒトのうちに汗流してきたら?」

「ああ、そうするよ」

 ベッドから立ち上がった私が歩み寄るのに合わせ、マリアは招くようにドアを引き開ける。ふわりと優しくただよう夕食の香りに鼻をひくつかせれば、大きなお腹を揺らして彼女は笑った。

「もうすぐ出来るから。ほら、早く早くっ」

 背を押されるままに裏口へ向かい、外に置かれた小さな浴槽の湯で手早く汗を流す。ところが、用意されていたタオルで身体を拭いている間に陽が沈んでしまったようで、この身は黒々とした体毛に包まれた。

 仕方なくタオルを背にかけて中に戻ると、配膳を終えたらしいマリアが鍋を左腰に当てて運んでいた。

「まーたそういうことして……。少しは身重の自覚持ってくれよ」

「だーかーらーぁ、このくらい平気だってば」

 間に合わなかったんだね。そう言って空いている手で私の頭を撫でる彼女のお腹にすり寄り、ちょっとねと返す。

「いいわ。拭いてあげるから食べてて」

 鍋をカマドへ戻しに行くのを見送り、前足で食卓の椅子をズラして座面に跳び上がった。目の前の深皿には、好物のシチューが具沢山で盛られていい匂いを放っている。

 一番上に乗っていた芋を犬歯でくわえあげ、少々熱いのも気にせず奥歯へ送ってむ。芋はホクホクで、自身の甘みに他の野菜のそれと肉の旨味もしみていて美味い。続いて鶏肉も頬張れば肉汁がジワリと広がって、止められないよだれが口の端からこぼれた。

 香ばしい匂いのする小かごを手にマリアが戻る。私が食べやすいようにと棒状に切って焼いたパンを深皿に数本取り分けてから私の後ろに回り、背にかかったままのタオルを広げて首まわりから優しく拭き始めた。

「たまにはいいわね。乾かしてすぐって、毛がすごくふんわりするから好きよ」

 さっそくパンを食べたい思いもあったが、気持ちもいいので食事は中断する。背中に胸、腹に太ももと流れて最後に尻尾。一通り拭き終えたマリアは、膝をついて私を抱きしめた。

「どうか、貴方が無事に帰りますように」

 願いと祈りを込めて、回された腕が一層強く締まる。「大丈夫」の一言が出せないのは、抱きしめられているせいだけではなかった。

 食事を済ませ、着替えを二つと三回分の食料をくくり付けてもらった背負い具をくぐり、前足を通す。

「それじゃあ行ってくる。こんなときまで独りにするのは心配だけど……」

「大丈夫よ。この子も居るんだから、寂しくだってないわ」

 お腹を撫でて微笑むマリアに頷きを返し、月明かりが細く差す森の奥へと駆け出した。


 私が人狼になってから、そろそろ五年になる。その月日は長いようで短く、この身について分かったこともそれほど多くはなかった。

 一つ。日没から夜明けまでは狼の姿になる。

 人狼は自由にヒトから姿を変じられるものと思っていたが、実際は制限があるようだ。声の質に多少の変化はあるものの、しゃべれることは良かった。放浪していた時期は、日没前に宿へ引き上げて部屋にこもり、ドア越しにやり取りしたことが何度もある。

 二つ。新月の夜は狼にならず、ヒトのままでいられる。

 うっかり野宿をする日に当たったときは肝を冷やした。狼の身であれば寒さにも強いし、野犬や熊にもすぐに対応できるからだ。もちろん、狼姿であっても手酷くやられたことは在って、襲われていたマリアを助けたときが最たるものだった。介抱されたことで人狼であると知られ、それでもなお献身的に尽くしてくれた彼女と一緒になるのは必然だろう。それからというもの、新月の日は一晩中愛しあえる貴重な日になった。

 三つ。〈狂い月〉の夜は、ヒトと狼の中間――獣人姿になり我を失う。

 満月は〝カラッポ〟だ。満ちる・欠けると表現こそすれ、満ちてなどいない。カラの器を混沌で満たすために地上の人狼どもを狂わせ、その渇きを血で癒そうとしている。だから、〝満月〟よりも〝狂い月〟と呼ぶ方が私にはしっくりきた。獣人に変じている間の意識は希薄で、記憶まで吸い上げてでもいるのか翌朝目覚めるまでのこともほとんど覚えていない。

 そんな日に、マリアと一緒に居るわけにはいかない。だからこうして前夜の内に距離を取り、我が身を縛りつけるのだ。


 山中のいつもの崖下に着き、朝まで仮眠を取る。夜明けと共に起き出して服を着た後は、軽く食事を済ませてまきを集め、崖を少し登ったところにある洞窟へと移動する。ここならヒトに戻ってから目覚めるまでの無防備なタイミングで獣に襲われる心配も無いし、奥には湧き水もあるから喉の渇きに悩むことも無い。

 少し遅い昼を済ませた後は、前回の狂い月で使ったかせの強度を確認して補強し直す。そうして一息ついた頃には日没も近く、首と手足の五ヶ所に枷をはめた。

『お前も苦しむがいい』

 ふいに昨日の悪夢が蘇る。ときどき見ては心を締め付けるあれは、決して消せない、私が犯した罪の記憶だ。

「アンタの望みどおり苦しんでるさ。こんな不便な体にされて、な」

 不可視の何かと目が合った気がして吐き捨てる。呪いそのものになったアイツか、はたまた、ざわざわと身の内で膨らみ迫る狂気が見せた幻か……。どちらにせよ、歓迎できたものではない。

 まだ残る理性で、今回も無事にやり過ごせることを祈る。あと三週ほどで産まれる我が子を抱かずしてどうこうなど、なってやるものか。

 そうして今夜も、狂い月に意識を明け渡した。


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