第10話 快眠の予感
半壊した元大聖女の大教会。
ヒルネは入った瞬間に、ここに住むとを決めた。
(快眠の予感がする……!)
「なんというか、とても気に入りました」
「気に入ったって、どういうこと?」
「ヒルネさま。ちょっとこちらは……」
ホリーが声を上げ、ジャンヌが周囲を見回す。
「素晴らしい場所です」
そんなことを言うヒルネを叱るのはワンダだった。
彼女は切れ長の瞳を向け、視線を厳しくした。
「雨も入ってくる、いつ崩れるかわからない、そんな場所に寝泊まりするなど許せません。ヒルネ、修繕が終わるまで大人しく下の教会で寝なさい」
「いやです。ここがいいんです」
「あなたは大切な存在です。大聖女がここに住むと決めたら、他の聖職者がちゃんとしたベッドで寝るのを恐れ多いと思うでしょう。いずれ修繕されるのです。今は我慢なさい」
「誰がなんと言おうとここに住みます。ここがいいんです」
ヒルネはたたたと走って、大きな女神像にしがみついた。
小さな蝉のようであった。
「私は今、女神さまと一体化しました。離れることはできません」
ほっぺたを女神像に押し付け、ぶにっと顔をへこませる大聖女。
ワンダ、ホリーが盛大なため息をついた。
ジャンヌは今回ばかりはどうしていいかわからず、おろおろしている。
女神像に張り付いているヒルネを見た大司教ジジトリアは何を思うのか、一歩前へ出て、恭しく頭を垂れた。そして涙を流し始めた。
「ジジトリアさま……?」
ワンダが驚きの声を上げた。
ジジトリアは気にせず口を開いた。
「大聖女ヒルネさま……あなたのお気持ちはよくわかりました……。私が子どもだった頃、大聖女さまはこの大教会に住んでおられました……」
ジジトリアが半壊した礼拝堂を見上げた。
「かつては星屑が舞い、熱心な信徒が集い、聖獣が遊んでいた大教会は……それはもう美しく……幸せの象徴でございました。もう何十年も前になりますが、イクセンダールは笑い声の絶えない街だったのですよ」
ジジトリアは昔を思い出しているのか、少年のように目を輝かせた。
「いつかはここに大聖女さまがやってくる……そんなことをずっと夢見てきたのです。あれから幾千の時間が流れ……私は南方教会に大聖女さまを迎える最大の幸運を手にすることができました」
「ジジさま……」
ヒルネはジジトリアを見つめた。
彼の瞳を通じて、過去のイクセンダールが脳裏に浮かぶ。
(そうか……危険のない、いい街だったんだね……)
「大聖女ヒルネさまのご希望、しかと承知いたしました。必要なものを運ばせましょう」
「ジジさま……!」
ヒルネは女神像から離れ、ジジトリアに抱きついた。
「ヒルネ……今日からここがあなたの家ですよ」
「ジジさまありがとう」
「いいのです。きっと、前の大聖女さま――マルティーヌさまがあなたを呼んだのでしょう」
ジジトリアはぽんぽんとヒルネの背中を叩き、ゆっくりと離れ、ジャンヌを見た。
「さて、これから忙しくなりますね。お付きのメイドさん、お名前は?」
「ジャンヌと申します」
ジャンヌが背筋を伸ばしてハキハキと答えた。
「頼りがいのあるメイドさんですね。メイド長にこのことを伝えてください。彼女なら張り切って準備してくれるでしょう」
「かしこまりました」
ジャンヌは一礼して、パッと駆け出した。
疲労軽減、素早さの加護がある彼女は疾風のごとく走る。メイド服が真横になびいて、数秒で見えなくなった。
「ジジトリアさま……本当に大丈夫でしょうか?」
たまらずワンダが聞いた。さすがに心配だ。
ジジトリアは大司教らしく、落ち着いた表情でうなずいた。
「我々はこの大教会を修繕しようと何度も試しましたが、すべて失敗に終わりました。きっと、主の帰りを待っていたのでしょう」
「そうなのですか?」
ワンダが興味深いと思ったのか、顔を寄せた。
ヒルネとホリーも近づいた。
「大教会はどんなに雨が降っても崩れることはありませんでした。その代わり、人の手が入ることを嫌がるように、補修をすると知らぬ間に元の状態に戻っており……今の半壊状態が、かれこれ四十年続いております。イクセンダールでは有名な話ですよ」
「そんな逸話があったとは……無学をお許しくださいませ」
ワンダが頭を下げた。
はじめからその話を知っていたら、考えも違っていたはずだ。
「いいのです。王都には伝わる必要のない話ですからね」
ジジトリアがにこりと笑い、彼も一礼する。
「あの……ジジトリアさま、ワンダさま?」
ずっと黙っていたホリーが、言いづらそうに顔を上げた。
「なんですか、ホリーさま」
「私もここで寝泊まりしていいでしょうか? ヒルネをほうっておくのは心配ですし、それに、私もなんだかこの大教会が好きになってきました」
恥ずかしそうに言うホリーが、ちらりとヒルネを見る。
「ホリー! そうしましょう!」
嬉しかったのか、ヒルネががばりとホリーに抱きついた。
「ちょっと、大司教さまの前で……やめてちょうだい……」
ホリーは本気で恥ずかしいのか、じたばたとヒルネの拘束から抜け出そうとした。
引っ付き虫になったヒルネは意地でも離すまいとホリーに顔を押し付けた。
「毎日一緒に寝ましょうね。ね?」
「聖女は別々に寝る決まりでしょう。ダメよ。というか離れてちょうだいっ」
ホリーの水色髪とヒルネの金髪が交差して、聖女服がひるがえる。
さすがに見ていられなくなったのか、ワンダがため息をついて二人を引き離した。
「それ以上は千枚廊下の掃除ですよ」
ヒルネ、ホリーがぴたりと動きを止め、直立した。
「すみませんでした」
「申し訳ありませんでした」
鮮やかな動きで謝罪する大聖女と聖女。
千枚廊下の掃除はなんだかんだ時間もかかるし、見られると恥ずかしいし、できれば避けたいのだ。
ワンダが困った子たちね、と笑みをこぼし、一連の流れを見ていたジジトリアが、
「ほっほっほっほ」と楽しげに笑った。
四十年ぶりに、大教会に楽しげな笑い声が響いた瞬間であった。
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