第8話 聖書朗読
ジュエリーアップルの一件から二週間が過ぎた。
ヒルネはのほほん女子から、聖女昇格の第一候補として見られるようになっている。
近隣住民の覚えもいい。
ヒルネあてに西教会への寄付が増えているそうで、民への施しと見習い聖女の食事事情も改善の兆しが見えている。
ジュエリーアップルからはまだ新しい実ができていた。女神印の聖魔法は効果抜群だ。食事に甘味が出てくるので、少女たちの顔は明るい。
(お布施はおふとんでお願いしたいんだけど……どうにかならないかな)
小休憩を終え、廊下を歩いているヒルネはそんなことを考えていた。
絹糸のような金髪が揺らめいているのは神秘的で、誰がどう見ても、お布施は布団で、などと考えているようには見えない。
「ヒルネさま〜。初めて早く仕事を終わらせました」
聖女朗読の練習時間に、ジャンヌが息を切らせて走ってきた。
「ジャンヌ、おめでとうございます。頑張りましたね」
「はいっ」
ジャンヌが満面の笑みを浮かべ、ポニーテールを揺らしながら駆け寄った。
「今日は仕事が少なかったので休みなしで頑張りました」
「大丈夫ですか? あまり無理しないでくださいね。私なんかの聖書朗読に大した価値はありませんよ?」
「そんなことありません。ヒルネさまの聖書朗読はそれは素晴らしいもののはずです」
「どうでしょうか……」
(居眠りしないように読んでるだけだけど……)
聖書片手にヒルネは唸る。
朗読していると自分の声に眠くなってくるのだ。そのせいで何度か机に頭をぶつけたことがある。
対処法として、読み方に強弱をつけるようにしていた。
意識して読み方を変えれば眠くもならない。
「そうね。他は全然ダメだけど、聖書朗読だけは結構いいと思うわよ」
後ろから追いついたのか、ホリーが隣に並んだ。
「なんというか、ヒルネの朗読は独特なのよね。聞き手は引き込まれるわ。敬虔な信徒たちはきっと感動するでしょう」
「初めてホリーに褒められた気がします」
「あなたにもいいところはあるみたいね」
ふふん、とホリーが澄まし顔を作る。
「楽しみです」
ジャンヌはますます楽しみになってきたのか、声を弾ませた。
ホリーはジャンヌを見て、感心している。
「よく仕事が終わったわね。私付きの見習いメイドは十一歳だけど、一度もこの時間に終わらせたことはないわよ」
聖書朗読は午後四時からだ。
メイドは持ち回りの仕事が終わらないと、持ち場を離れられない。
「休憩なしで頑張りました」
拳を握るジャンヌ。
「あなたいつも元気よねぇ」
「それだけが取り柄なので」
完全にヒルネと寝ている加護のせいなのだが、誰も気づいていない。
朗読練習室に到着した。
中にはすでに聖女見習いたちが集まっている。
(貴族が見に来てる?)
部屋にはワンダの他に、男性の司祭、ちょび髭の貴族がいる。
教育係ワンダが全員集まったのを見て、口を開いた。
「本日は特別にボン・ヘーゼル伯爵が見学にいらしております。これも人前で聖書を読む訓練となるでしょう」
ワンダが言うと、ちょび髭のボン・ヘーゼル伯爵が一歩前へ出た。
年齢は四十代、垂れ目で優しげな男性だ。髪型はマッシュルームカットだった。
(きのこが食べたい)
ヒルネは伯爵を見て、きのこのバターしょうゆ焼きを思い出していた。
「聖女見習いの少女たちよ、私がボン・ヘーゼル伯爵である。私は幼い頃、両親を聖女さまに助けていただき、この世界に聖女さまが必要であることを悟った。君たちの存在が尊いものであると誰よりも理解している。新しい聖女になる君たちをいち早く見たいと思い、司教殿にご無理を言って見学させていただく運びとなった」
いわゆる、聖女フリークの貴族だ。
娯楽の少ない世界で、聖女は尊敬され、世界中にファンがいる。
酒場に行けば「俺は北の大聖女さまが好きだ」とか「いやいや、最近聖女になった子が将来有望だ」とか「西方の聖女に可愛い子がいるわ。癒やされる」など、誰が好きか論争を男女問わず繰り広げている。
ボン・ヘーゼル伯爵は他国にいたるまで世界中の聖女を記憶しており、彼に認められれば一人前の聖女と言われるほどだ。誰よりも聖女に詳しく、誰よりも聖女を崇拝している奇特な人物であった。
メフィスト星教への寄付金も莫大だ。
重要人物と言っていい。
(森に行けばきのこが食べれるかな? 王都できのこが売ってるのは見たことがないかも)
ヒルネの思考は飛んでいた。
「それでは聖書朗読をはじめましょう。今日は百二十ページ、光照らす山の章です」
教育係ワンダがいつもどおりの流れでスタートさせた。
一日十五人が朗読を行う。
ホリーとヒルネも今日の順番に入っていた。
最初の一人が立ち上がって前へ行き、朗読を開始する。
(この時間が一番つらいんだよね……ねむっ、ねむい……)
椅子に座って聞いているだけ。
とてつもない睡魔が襲ってくる。
何度かホリーが太ももをつねってくれたので、テーブルに額をぶつけることにはならかなった。
ホリーの朗読が始まった。
彼女は堂々としたもので、滑舌もよく、よどみなく読んでいく。八歳でこれだけ読めるのは素晴らしい。床に描かれている魔法陣からも星屑が舞っていた。
ボン・ヘーゼル伯爵も、うむうむと何度もうなずいていた。
ホリーの番が終わり、ヒルネの順番になった。
席に戻ってきたホリーが動こうとしないヒルネを見て、あせって太ももをつついた。
「……ヒルネ、あなたの番よ」
「うん? あ、そうか」
ヒルネが眠そうな顔でゆっくり立ち上がった。
部屋の後ろで見守っているジャンヌが心配そうに両手を組んでいる。
(寝ないように頑張らないと)
自分の聖書を台に広げるヒルネ。
朗読が始まると思いきや、ワンダを見た。
「ワンダさま、何ページですか?」
「……百二十ページ、光照らす山の章よ」
「はい」
ヒルネはこくりとうなずいて、ペラペラとのんびり聖書をめくっていく。
ボン・ヘーゼル伯爵はジュエリーアップルの件を聞いていたのか、集中してヒルネを見ていた。
ホリーとジャンヌは心のハラハラが止まらない。
ホリーは「早くしなさい!」と心の中で何度も叫んでいる。
「こほん……光照らす山の章……」
ヒルネがやっと朗読を始めた。
「汝、山に光が射すを見れば思う。汝、光がいずこへ射すか思う――」
細い声だが、よく通る。
ヒルネは眠くならないために大きな抑揚をつけて朗読をする。一定のリズムで進む。
どこか歌のようにも聞こえ、誰かに語りかけるようにも聞こえる、不思議な朗読であった。
(聖書を読んでると優しい気持ちになれるよね。女神さまと近くなるからかな? 眠気はどうにかしてほしいけど……嫌いじゃないんだよね)
気づけば魔法陣からキラキラと星屑が舞い、躍っていた。
美しいプラチナブロンドが揺らめき、碧い瞳が聖書へ落ちている様が幻想的だ。
ボン・ヘーゼル伯爵は最初こそ眉間にしわが寄っていたが、数十秒で聞き惚れたのか、すべてを忘れて聞き入っている。
「――羊の群れはやがて雲へ還るであろう」
ヒルネの朗読が終わり、ぱたんと聖書を閉じる音が響いた。
聖印を胸の前で切って自分の席へ戻っていく。
ボン・ヘーゼル伯爵はハンカチをポケットから出して、涙を拭いていた。感動したらしい。今にも拍手したそうな顔をしている。
初めて朗読を聞いたジャンヌも涙を流し、何度もうなずいている。
「聖書朗読だけは立派なのよねぇ……」
ホリーが今にも寝そうなヒルネを見て、呆れと称賛を混ぜたつぶやきを口の中で漏らした。
ヒルネはそれに気づかず、席に戻って眠気と戦っていた。
◯
その夜、ジャンヌがヒルネの部屋に入ってくるなり、大きな声を上げた。
「ヒルネさま! すごいです! 素晴らしいです!」
「どうしたの? 新しい布団がきたのですか?」
「違いますよっ。ボン・ヘーゼル伯爵がヒルネさまに金貨百枚の寄付をしてくださったんです! ヒルネさまが近い将来必ず聖女になるから、その支度金に使ってくれとのことですよ! これは大変に名誉なことですっ」
ジャンヌがぴょんぴょんと飛び跳ねている。
ヒルネはありがたいと思う反面、微妙な表情を作った。
(金貨もらっても自分で使えないんだよなぁ……聖女つらい)
ヒルネは強力なパトロンを得たことに気づいていない。
「あの伯爵さまが認めてくださったんです。ヒルネさまはやっぱりすごい人です!」
「うん? そうなの? ありがとう」
ジャンヌが嬉しそうなので、ヒルネも嬉しくなった。
(きのこ頭さんは偉い人みたいね。貴族でもお金がない人はいるみたいだし、ビジネスマンなのかな? あとでどんな人か聞いてみよう)
メフィスト星教の資金繰りによっては聖女への昇格が遅れることもある。
聖女服は高級品で、揃えるには金がかかるためだ。
「そんなことより、さ、早く寝ましょう。こっちにおいで、ジャンヌ」
掛け布団を上げ、笑みを浮かべて手招きをするヒルネ。
ヒルネはまた一歩聖女へと近づくのであった。
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