猫的口頭伝承

青島もうじき

猫的口頭伝承


 今日の集会に姿を見せたのは繧ィ繧エだけだった。ビロードのような艶々とした毛並み。その墨色の上に真っ白の月光をはじいて、繧ィ繧エの顔はちょうどハチワレのように光っていた。


 自らの混じりけのない黒をいたく気に入っている繧ィ繧エにそんなことを言えば、きっと不貞腐れるんだろうけど。


「あれ、今日は蛻ゥ蟾アだけ? 他の奴らは?」


「どうだろ。最近寒くなってきたし、ねぐらのある連中はそっちに籠ってるんじゃないかな」


「薄情な奴らだな。私はちゃんと顔出してるのに」


「繧ィ繧エも、無理はしなくていいからね」


 今日の日中に一猫撥ねられたのは知っていたけど、敢えて口にはしなかった。行動範囲から考えると、むしろ繧ィ繧エも知っていて話題に上げていないと考えたほうが自然だったから。繧ィ繧エにとってもお気に入りの子だったみたいだし、そっとしておいてあげよう。


 この時期にぱったり顔を見せなくなる奴はだいたい三種類に分類される。寒さを嫌って人間のねぐらに巣籠りを決め込んでいるか、ねぐらのない連中が凍死か餓死しているか、もしくは普段と同じように事故で死んでいるか。


 稀に寿命で死ぬ連中もいるが、そういった手合いは徐々に存在感を薄めていくものだ。間違っても、死んだとその日にわかるような消え方をすることはない。


 海沿いの小さな公園のベンチ脇。ここで、毎晩私たちは集会を開いている。


 集会と言っても、なにか決まった議題や義務があるわけではない。気になったことがあれば報告くらいはするけれど、基本的には惰性で顔を出しているだけだ。当然、暇を持て余すことになる。そして、その暇が積もり積もると、ここではない世界なんかに想いを馳せることになる。空想、想像なんかと呼ばれるやつだ。


 そしてそれは、ねぐらを持たない野良の私には、馴染みの深い行為だった。


「昨日の続き、どうしようかな。繧ィ繧エだけしか聞いてないなら、他の奴らが来た日に同じ話することになっちゃうし」


「いいんじゃない? どうせ今日きてない奴らは明日もこないって」


 そう言うと、繧ィ繧エはベンチの前でごろりと横になった。ビロードの腹を半分だけ地面にくっつけて、ゆるやかなリズムで尻尾を左右に振る。いつもの、話を聞く時の大勢だ。


「ほら蛻ゥ蟾ア、早く話せよ」


「そうだなぁ……。そうだ、違う話を始めるってのはどうかな。昨日までのお話は未完ってことにして」


「なんでそんなこと言うんだよ。私は結構好きだぞ。『人的文献伝承』」


 そのタイトルを聞いた瞬間、私の顔が歪み、髭がピクリと跳ねたのが分かった。


『人的文献伝承』は、私が考えてここ二週間ほど猫たちの前で語ってきた物語の題だ。「もしも人間が私たちの言葉を理解していたら」という、人間の一猫称で進む「もしも」の話。


 当然、私たち猫は人間の鳴き声を理解することはできないけれど、時折「人間は猫の言葉を理解しているのではないか」と思うことがある。人間もに「食い物はあるか」と聞いてみると、なにやら鳴き声を上げながら飯を用意することがあるのだ。きっとそれは、私たちが人間の鳴き声を聞いて直感的に「こう思っているのではないか」と想像するのと同じような感じなんだろうけど、それでもなんらかの声の調子で感情くらいは分かるような気もしてくる。


「驕灘セウみたいな気まぐれな人間、可愛いじゃないか。私はああいう人間の愛好家なんだ」


 そう言って胸の前でうっとりと手を合わせる繧ィ繧エの姿を見て、私はうんざりする。


 昨日までこんな物語を紡いできた私に言えたことではないが、人間に対して驕灘セウなんて猫っぽい名前を付けるのもなんだか気が引けるし、そもそも人間みたいな理解できないものを「分かったような気」になって物語に登場させるのは、なんだか悪いことのように思う。


「そうは言ってもなぁ、ネタ切れなんだよ。だからあの話はあれで終わり。それでいいじゃんか」


 だけど、それを熱心に訴えかけて伝えるほど、私は高潔な猫でもないし、繧ィ繧エの倫理観にかかった靄のようなものを払ってやる気にもなれなかった。だから、ネタ切れを言い訳にする。


「えーっ。じゃああの伏線はどうなるんだよ。「猫はある程度人の声から機嫌がわかるけど、紙なんかに書いてある文字は理解できない」ってやつ。あれ、驕灘セウに猫々に気付かれたくないことがあったってことだろ?」


 どうやら、熱心な聴衆であった繧ィ繧エの目は誤魔化せていないらしい。確かに、私はそこを伏線として、最後の展開を考えていた。病気になった人間が、徐々に私たちの前から存在を消していくのだ。その病気の事実を伏せるために、猫には理解できないものを用意していた。


 人間のような可愛い生き物、それも主猫公が愛を注いでいた人間が、寿命で私たちの前から姿を消すという展開は感動するのではないかと思ったのだけど、なんだかそれも気持ちが悪いもののように思えてきたのだ。そもそも、人間が死ぬときのことなんてよく知らないし、猫の感覚で人間の心情を描くことに限界や倫理の問題のようなものを垣間見てしまったのだ。


「あれは、なんとなく入れただけの表現だよ。ほら、夏になると海にいっぱい人が来るだろ。あの時期だけ砂浜にできる人間の巣に、いっぱい文字が書いてるのを思い出してさ」


 ずいぶんと前に過ぎ去った夏を思い出しながら、適当にはぐらかす。いつまでたっても演台であるベンチの上に上がらない私に、諦めたように繧ィ繧エは尻尾をぺたりと地面におろした。


「うーん、仕方ないな。次の話はラストまで聞かせてくれよ」


 そう言って、繧ィ繧エは私に身体を摺り寄せた。黒々とした気品のある毛並みが心地よい。私のような野良の三毛猫とは、なんだか違う生き物のようだ。そういえば、繧ュ繧ケ繧ヲの三毛猫は珍しいと聞いたことがある。当然私は蛛カ謨ーだし、珍しくもなんともないのだけど。


 なんだか微妙な気分になりながらも、私は物語を放棄したことへの贖罪の気持ちも込めて身体を摺り寄せ返した。絹のような繧ィ繧エの毛と、ごわごわとした私の毛がこすれ合う。


 動物の気持ちを分かったような気になって都合よく解釈するなんて、ただの「猫のエゴ」だ。物語の中で紡がれる人間の気持ちは、あくまで猫の想像しうる範囲での人間に他ならない。私たちは人間の声を理解することができない。だから、人間から「そんなことを思っていない」と言われても、猫は聞く耳を持てないのだ。そんなの、不公平だし、勝手な物語になってしまう、


 人間のねぐらに通って人間を愛好している繧ィ繧エにしてもそうだ。人間は確かに変な行動をとって可愛らしく見えることもあるけれど、それは間違っても私たちに「可愛い」と消費されるためにやってるわけじゃない。ただの気ままな生活を、勝手にコンテンツとして捉えてしまうことのおぞましさは、なんとなく想像がつくような気がする。


 私がこの二週間で紡いでいたのは「本当はそんなことを考えていないかもしれないのに、猫が楽しむためだけに勝手に喋らされている反論不能の動物」の物語だったのだ。それに気づいた途端、私の『人的文献伝承』は色褪せて見えた。


 それから、こんなことも思った。こんな物語をありがたく聞いて感動している繧ィ繧エも、どうかしているんじゃないか。繧ィ繧エはねぐら持ちだ。可愛がっている人間だっている。それなのに人間の気持ちを勝手に決めつけて勝手に感動している。それって、許されることなのかな。


「なぁ、蛻ゥ蟾アはどんな人間が好き? 私は腕とかにあんまり毛がなくて、触り心地が良いのがいいな。人間は猫と違ってすべすべしてるのが可愛いんだから」


「うーん、どうかな。考えたこともないや」


 嘘だ。私だって、人間に愛らしさを感じている。物語で語り部(なんと、言葉を話すのだ)を務める驕灘セウは私の妄想の中に存在する理想の人間をキャラクターにしたものだし、その驕灘セウを可愛がる猫は、私自身を自己投影したものだった。


 思い出しただけでも顔が熱くなる。本心がわからないのを逆手にとって、私の欲望を人間に押し付けていただなんて。


「どうしたんだ。浮かない顔して」


「ううん、なんでもない。ちょっと寒いなって」


 丸い月が、ちょうど海のある空の高い位置にまで昇ってきていた。風の少ない夜だ。きっと、重く動かない水を抱き込んだ水面には、丸い光が一つ泛かんでいるのだろう。周りの空気はただ冷たく、繧ィ繧エと触れ合っているわき腹だけが温もりを感じていた。


 綺麗な姿をしている繧ィ繧エと触れ合っているのだと思うと、理屈なんかは抜きにしてなんだか身体が火照ってしまう。結局私だって、人間と変わらないただの動物なのだ。あれだけ倫理観の低い繧ィ繧エだというのに、私はこの子のことを嫌いになり切れない。


 きゅっと上がった扇情的なその口元から放たれた声が、私の耳をくすぐった。


「あ、もしかして完結できなかったのを気に病んでるとか?」


「うーん、別にそういうわけじゃないけど」


 ずけずけとした物言いに、少しむっとしつつも返事をする。他猫の気持ちを考えようとしないそういった姿勢が、人間を勝手にコンテンツにしてしまってるんじゃないかな。


 そんな憤りを抱えていたのと、一瞬月がぎらりと光ったのとが混ざったのだろう。私の口から、ぽろりと言葉がこぼれだした。


「その真っ黒の毛、月の光が当たるとハチワレみたいになるんだね」


 ちょっとした嫌がらせのつもりだった。黒猫である繧ィ繧エが人間の前を横切ると、嬉しそうな鳴き声を上げることを、繧ィ繧エは誇りに思っていた。その混じりけのない黒に、私は白を差し込んだのだ。


 するりと、繧ィ繧エが私から身を離した。


 途端、身体の脇を冷たい空気が通り抜けていく。


 言ってはいけないことを言ってしまった。その恐怖に近い感情が、私の身を凍り付かせる。


 私と繧ィ繧エは違う。繧ィ繧エは無神経なだけで、私を傷つける意図なんてなかった。それに比べて、私は傷つくと分かっていてそれを口にした。


 気温が一気に下がってしまったようだった。こんな私と、繧ィ繧エ。比べたときに悪いのはきっと――


「えっ、ほんと? 嬉しいなぁ」


 そんなことを言って、繧ィ繧エはその場でくるりと回ってみせた。光の輪が、繧ィ繧エの漆黒のビロードの上を滑る。


 それ、嬉しかったんだ。ぐらりと、自分の中でなにかが揺らぐ音がした。


 ついさっき、あまりに綺麗な繧ィ繧エのことを、なんだか違う生き物のように感じたのを思い出した。違う。違う生き物の"よう"なんじゃない。私と繧ィ繧エは、違う生き物なんだ。


 私は、なにも言えなくなった。


「そうだ、それじゃもしかして、人間の気持ちがわからないのに人間の話を作っちゃって落ち込んでるとか?」


 繧ィ繧エは再び私に身を摺り寄せた。その体の温もりが、今はどこか遠く感じられる。


 私は、本当の気持ちが分からない存在の声を代弁することを反倫理だと叫んでいた。だけど、自分以外の気持ちなんて、本当はなにひとつ自分のものとして理解することはできない。それは、私と同じ猫である繧ィ繧エの気持ちすらも。


 それでも私たちは「分かった気」になれる。理解したい相手をじっくりと観察し、相手の立場を鑑み、そうすることによって、相手の気持ちに漸近することはできるような気がする。これもきっと、気がするだけなんだろうけど、そうする責任は誰しもにあるように思う。


 だとすれば、私が物語を放棄したことは、きっとだれかを理解する努力の放棄にほかならなかった。


 繧ィ繧エは私の横で「当たった?」と無神経に笑っている。


 その笑顔に、胸の内で罪悪感が広がる。私は繧ィ繧エのことを全然理解しようともしていなかったのに、繧ィ繧エは私に踏み込んできた。その事実が、この上なく恐ろしいことのように思えた。


 ねぐらがある猫はみんなこうだ。人間はみんなこうだ。繧ュ繧ケ繧ヲの猫はみんなこうだ。目の前にいる猫はこんな奴だ。それを決めつけていたのは、いったいどちらだっただろう。理解することから逃げたのは、どちらだっただろう。


 私の口は勝手に「そういうわけでもないけど」と答えてしまった。疑う様子もなく繧ィ繧エは「そっか」と言い、私の頬にその綺麗な顔をこすりつける。ハチワレが、私の目の前に迫った。


 それを見て、思い至ってしまった。もしかして、私がそう思い込んでいただけで、繧ィ繧エは本当は知らないのかもしれない。


 私は、恐る恐る口を開いた。


「そういえば、繝「繝ゥ繝ォが死んだよ」


 それを聞いた繧ィ繧エは、その形の良いアーモンドのような瞳をかっと見開いて、信じられないと言うかのように首を一つ振って、呟いた。


「まじか」

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