第二十一話 ただ一つ、大切な気持ち
教室のある二階から、階段を上がって三階へ。さらに上へと足をかけたところで、上階から誰かが駆け下りてくる足音が聞こえ、陽一はそこで足を止めた。
「……陽一っ!」
姿を見せたのは、期待した通り星奈だった。無事見つけられたことに内心安堵しつつ、極力表情にはそれまでの心配を出さないように心掛けながら、陽一は片手を上げて応えた。
「おう。やっぱりこっちに来てたか。学には会ったか?」
足早に階段を下りてきて、隣に並ぶ星奈を見下ろす陽一。しかし星奈は彼の問いには耳を貸さず、息巻いて逆に問いを返した。
「陽一、教室で話してた女の子は!?」
彼女の剣幕に、陽一は思わず目を丸くする。彼についてきた将也も同様だ。驚いた様子で、陽一と星奈の間で視線を行き来させている。
戸惑いつつも、陽一は微かな苦笑を浮かべて、将也の方へ顔を向けた。同時に払いのけるように手を振って、彼に退散を促す。一瞬腹を立てる表情を見せた彼だが、ちらちらと星奈に目を向け――彼女が自分にまるで関心を見せないのを察すると、それ以上は何も言わず、すごすごと踵を返した。
将也が背中を向けたのを確認してから、陽一は視線を星奈に戻して、
「何もねぇ……ってわけでもなかったが。告られたけど、断った。それだけだよ」
「こくっ……! え、断ったの!?」
過剰からすれば過剰に思える星奈の反応に、陽一は苦笑の色を濃くしながら小さく何度も頷き、星奈の頭に手を伸ばした。荒っぽく彼女の頭を撫でつつ、陽一は応える。
「何そんな興奮してんだよ。断ったよ。前にも言っただろ、彼女作る気は今んとこねぇって」
「わ、ちょ、陽一っ?」
髪ごと頭全体を振り回され、星奈が困惑の声を上げる。
陽一にしても、胸中に疑問や怪訝な思いはあった。それでも、自分の手の中で目を回す星奈の顔から、ここ最近ずっと付き纏っていた虚ろな影が消えたように見えて、そのことに対する安心感の方が彼の胸を占めていた。
上階の踊り場から、無言のまま学が顔を出す。気づいた陽一がやはり無言のまま目配せすると、彼はおどけたように首を振って、覗かせていた首を引っ込めた。
陽一がようやく手を止めた。彼は不服げな眼差しを向けてくる星奈を見下ろして、一言。
「帰ろうぜ、星奈。帰って昼飯にしよう」
「……むー」
一方的にそう言われ、腑に落ちない様子の星奈ではあったが、彼女はむくれながらも頷いた。
もう一度軽く星奈の髪に触れて、陽一が歩き出す。その腕に、さも当然のように星奈の腕が絡みついた。
帰宅し、手軽に作ったうどんで昼食を済ませた陽一と星奈は、そのまま机を挟んで向き合っていた。
陽一は泰然とした微笑で、湯飲みを傾けている。一方で星奈は、かけるべき言葉が見つからないような、もどかしそうな表情で時折目を伏せては、陽一の顔をちらちらと窺っていた。
幾度か星奈が唇を震わせるが、そのたびに声は言葉を成さずに解けてしまう。それを数度見送ってから、陽一はゆっくりと口を開いた。
「学に何言われたんだ?」
ぴくりと星奈の肩が跳ねた。変わらぬ笑みで佇む兄の顔をしばし凝視した彼女は、ようやく少し表情を和らげた。
背中を押されたような錯覚。昔からずっと近くに感じていた温もり。安堵の息を漏らして、星奈は目を細めながら応える。
「……多分陽一に彼女はできないって」
「あの野郎、失礼なことを」
剣呑な声で呟いてみせる陽一だが、言葉に反して表情は穏やかだ。そんな彼の笑みを嬉しげに見上げながら、星奈が続ける。
「それと、私が陽一と一緒にいたいって思うのはおかしいことじゃない、って」
彼女の言葉に、今度は陽一が眉を揺らし、閉口して星奈を見た。慎重に表情を読み取ろうと目を凝らす彼の視線を、星奈は淡い微笑みで迎える。
そこに、必死で陽一に縋ろうとしていた星奈の面影はなかった。支えなければ崩れてしまいそうな脆さはなかった。陽一と軽口を叩き合いながらじゃれ合っていた頃の、懐かしい――実際にはそれほど前のことではないはずなのに、そう思えてしまうほど待ち焦がれた、いつもの星奈の表情だった。
「恋人でも兄妹でも、一緒にいたいって願うなら同じことだって。自分自身の選択で陽一を選ぶなら、誰も口出しできないって」
星奈の言葉に、安堵が自然と吐息となって、陽一の口から零れ出る。皮肉めいた笑みを浮かべて、陽一は呆れた口調で嘯いた。
「俺は前からそう言ってたと思うんだがなぁ?」
「陽一は当事者じゃん。鎌田先輩は立場が違うでしょ」
「まぁな。安心できたか?」
言い返されると、陽一はあっさりと厭味を引っ込めた。軽く肩を竦めて再度問いを投げかけつつ、お茶に口をつける。
星奈は黙って小さく頷いた。陽一が満足げに目を細める。
そんな兄の反応を見て、星奈の口元に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。陽一に気づかれないよう、慎重に笑い声を噛み殺した彼女は、何気ない調子で囁いた。
「ねぇ陽一」
「ん?」
「好き」
ぶふっ
羽毛のように軽く、甘い囁き声に、陽一がたまらず吹き出した。横を向いて何度も咳き込み、そのたびに背中を折っていた彼は、やがて幽鬼のようにゆらりと身体を起こしながら、
「おま……だからそういうからかい方はやめろっつっただろーが……」
恨み節を漏らす陽一に対し、星奈はクスクスと楽しげに、今度こそ隠すこともなく笑い声を響かせた。ただ、彼女は陽一から視線を逸らさず、
「嘘じゃないよ。大好き。大切な家族だもん」
続けて言うと、陽一は渋い顔で重たい溜息をつく。
「分かってるよ、ンなことは。だから余計に、人をからかうのにそういうこと言うなって言ってんだよ」
「ふふ」
「あーもう、嫌な笑い方しやがって……」
軽やかな笑い声と表情で、楽しそうに佇む星奈を睨んでいた陽一は、極めつけの渋面に、微かな苦笑を過らせた。鼻を鳴らし肩を竦め、抗議を諦めたように頬杖をつく。
と、テーブルに載せられた彼の腕に、星奈が手を伸ばす。撫でるように何度も触れ、そっと指を巻きつけた。
「ね、陽一は?」
内緒話をするような、小さな声で星奈が問うた。
求められている答えは分かり切っていた。それを認めて、陽一は億劫そうに目を眇める。彼の表情の変化に気づきながらも、星奈は物欲しそうな笑顔を揺るがせずに、その視線に真っ向から目を合わせた。
結局、ここで他の言葉を探せない辺りが陽一と学の器量の差なのだろうが、幸か不幸か、陽一自身がそれに気づく由はなかった。
「はいはい、俺も好きだよ。妹として」
精一杯投げやりに、陽一は仏頂面で吐き捨てた。星奈はそんな彼を見て、口元を緩める反面、少し困ったように眉根を寄せて、
「ほんと、時々陽一がちょろすぎて不安になるなぁ」
「喧嘩売ってんだとしても買わねぇからな」
毒づく陽一の横顔を、やはり星奈は満面の笑みで眺めていた。
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