3

「ええ? 血液製剤? 何でそんなもん撒いたんすか?」

 柚木はでかい声を上げ、持っていた煙草を灰皿に押し付けた。

「うん──ええ? マジっすか……さすが、すげえことしますね。え? はは、うん、これからでもオッケーっすよ。朝までにきれいにしとけばいいんですよね? はい、毎度」

「仕事っすかぁ、代表」

 漫画雑誌を退屈そうに捲っていた渡邉がぱっと顔を上げて柚木を見る。柚木はスマホをしまい、頷いた。

「でも壁の血液製剤拭くだけだって。肉片とか骨片とか飛び散ってるわけじゃねえし、別に犯罪現場でもなんでもねえっつーから楽な仕事」

 新海からするとひどく物騒な台詞を呑気に口にした柚木は、欠伸を噛み殺し、伸びをした。

「作業着だけ着てきゃいいな」

「じゃあここにいる面子だけで足ります?」

「そうだな。志麻と堀田ほりたは呼ばなくていいや」

「了解っす。つーか、なんでそんなもんぶちまけたんっすかねえ?」

「それがなあ……」

 柚木は会話を思い出そうとするかのように宙に視線を投げた。

「なんか、気を引きたい相手がいたんだってよ?」

「えー」

 新海も内心、同じように呟いた。まったく、依頼人が男か女か知らないが、どんな相手の気を引こうとしたのやら。

「やだなあ、壁に血ぃブチ撒けられて喜ぶ相手とか怖くないすか? 何、吸血鬼?」

 渡邉は向かいの席から立ちあがった石津に訊く。石津は坊主頭を傾げて「さあな」と答えた。わけがわからねえとかぶつくさ言っている渡邉を見て柚木は笑う。

「まあ普通、違う意味で引くよな。お前の気は引けるけどな」

「そうっすね、めっちゃ食いつきますよ自分。つーか相手にじゃなくて壁にっすけどね。拭かなきゃー! っつって引き寄せられちゃう。そんじゃ俺準備してきまーす」

 渡邉と石津、それから岡本というのがぞろぞろと出て行く。のんびりと立ち上がった柚木は、新海に振り返った。

「今日は運転手いなくていいわ」

「ん」

 頷いた新海に手を上げて、柚木はだらだらと歩いて行った。


 それが柚木を見た最後になった。

 なんて言ったら死んだようだが、勿論そういう意味ではない。

 その仕事の後、柚木は姿を見せなくなった。渡邉や石津、他の面々が通常どおり喫茶店に現れているから気にしていなかったのだが、三日ほど見かけていなかったので訊ねたら、出張中だという答えが返ってきた。今回の仕事絡みかと訊いたら、それは無事終わって、まったくの別件だという。

 出張って何だとは思ったが、まあ、少なくとも怪我や病気ではないらしいと安心はした。

 翌日の夜、石津から頼まれて運転をしたが、まだ柚木は不在のようだった。

 作業着の上に胴長なので、体格では個人を判別できない。志麻だけはでかいから立ち上がると人定できるが、それ以外は背丈もあまり違わないのだ。しかし、五人しかいないし、喪章を巻いたやつもいなかった。

 車を返し、部屋に戻って、ぼんやりと天井を見つめる。どこにいるのやら、とは思ったが、それ以上考えることは敢えてしなかった。


「たっだいまぁー!」

 それから数日後の夕方、新海がビルの管理人事務所、とは名ばかりの居住スペースにいたら、馬鹿でかい声とともにドアが勢いよく開いた。正に転がり込むように入ってきたやつを見て、新海は眉を顰めた。

「ここはお前の家じゃねえぞ、ミツ」

「いじわる!」

「いや意地悪じゃねえから。そういうことで帰れ」

「なんでだよう!」

 ぶーっと頬を膨らませたミツは高校一年生で、当然ながら制服姿だ。本名は新海しんかい禎光さだみつ、まるで侍か刀のようだからみんなミツと呼んでいる。

「せっかく遊びに来てやったのに!」

 態度はでかいが、ミツは全体に小づくりだ。小柄で顔が小さい。ただ、声は馬鹿でかい。

「いらねえし」

「あー、そういうかわいくないこと言うと母さんに言いつけるよ」

「高校生にかわいくないとか言われたくねえわ」

 ひひひ、と笑ったミツの顔は姉に瓜二つだ。小柄なところも姉に似ている。新海の父は長身で、幸い新海は父親の体格を受け継いだ。しかし、どうやらミツは祖母、母、と受け継がれた小さい遺伝子をもらったらしい。ミツは、ソファに座る新海の隣にどさりと腰を下ろした。

「うわ、前からスプリングやばかったけど、最終段階じゃん! へたってんじゃん、完全に」

 軋むソファに上がったミツの叫びを聞いてそういえばこの間ここで柚木とやったなと思い出し、詳細も色々思い出しそうになったから慌てて記憶に蓋をした。

「いいんだよ、別に」

「だけど、お客さんとか来たらさあ」

「滅多に来ねえし、居心地よかったら長居されんじゃねえか」

 ソファの座り心地とは関係なく長居するやつは目下出張中であることだし。

「ふーん。そういうもんなんだ」

「それはどうでもいいけど、何の用だよ」

「えー、叔父さんの顔見に来ちゃだめなわけー」

「そんな暇じゃねえだろ」

「まあね」

 ミツは今時の子供らしくやたらと多忙だ。塾やら習い事やら、友達付き合いやらでいつもバタバタしている。まったく、自分の高校時代と比べると様変わりしていると思う。ミツには二つ違いの妹がいるので──こっちはその父親に似て標準的な身長──姉の苦労はいかばかりか、といつも思う。

「母さんが、叔父さんの様子見てこいってさー。あとこれ」

 ミツは背負ったままだったでかいリュックをさっと膝の上に下ろしてごそごそし始めた。身体も顔も小さいから、そのままリュックに入ってしまいそうだ。

「はい、もえから」

 渡されたのは茶色っぽい瓶だ。受け取ってみると、プラスチック製で、黄色いラベルが貼ってある。

「ビタミンCだって。煙草ばっかり吸って食べてないんじゃないかって」

 もえ、というのはミツの妹だ。毎度思うが、何故「禎光」の妹に「もえ」と名付けたのか。それぞれは別にいいと思うが、なんというか、バランスが悪い気がする。まあ、あくまで新海の個人的な意見だから、姉に言ったことはない。

「そりゃどうも。女子中学生に健康を心配されるとは……」

「たまには遊びに来てって、もえも言ってたよ」

「分かった。今度な」

「今度っていつだよー。マジで来てよ、そしたら母さんもその度に少し気が済むんだからさあ」

「……」

 新海が口を開きかけたちょうどそのとき、前触れなく突然ドアが開いた。

「新海、いる──」

「あーっ! お客さんだ! お客さん来たよ!」

 ミツの馬鹿でかい声に素で仰け反ったのは、二週間ぶりに見る柚木だった。

 細身のデニムにネイビーのシャツ。右手に白いビニール袋をぶら下げている以外、鞄ひとつ持っていない。自宅から来たのか出先からきたのか、それとも上の階にあるユズキクリーンサービスの事務所から来たのかさっぱり分からなかった。

「あ、悪ぃ。出直すな」

 踵を返しかけた柚木に、ソファから立ち上がったミツがダッシュで駆け寄った。

「いいんです! お客さんですか!?」

「え?」

 柚木は混乱した顔でミツを見下ろし、新海を見て、またミツを見下ろして、「いや」と呟き、また新海を見た。

「えーと、お客さんではなく、ビルに入ってるテナントの者ですが」

「そうなんですかあ! 叔父がいつもお世話になっております!」

ミツはほとんど立位体前屈状態でお辞儀した。

「オジ?」

 柚木の目が再度目の前というか足元の高校生と新海の間をうろうろしたから、ソファに座ったまま声をかけた。

「柚木、それ俺の甥」

「オイ?」

「だから甥っ子だ、姉の息子。おいミツ、その人は俺の友達だからお辞儀しなくていい」

「友達!!」

 今度は垂直飛びをするくらい飛び上がったミツは、本日一番でかい声で「友達!!」と繰り返した。



 柚木を捕まえて色々訊ね、一方的に喋りまくったミツは名残惜し気だったが、塾だか何だかがあるとかで、新海にビタミンCの瓶を残して風のように去っていった。

 文字通り竜巻に巻き込まれたふうの柚木はまだぽかんとして、ミツが去ったドアを見つめていた。

「禎光──」

「ああ?」

「って、戦国大名みたいな名前な……」

「ああ、名前だけ見たらどんなごっつい野郎かと思うけど、アレだからな。しかし破壊力はごっつい男以上だと思うぜ」

 新海がパック入りのアイスコーヒーをグラスに注いでテーブルに置くと、柚木はようやく目が覚めたような顔でどうも、と呟いてちょっと笑った。

「確かに、すげえ破壊力だった。お姉さんって、あんなん?」

「姉ちゃんはあそこまでじゃねえ。見た目は一緒だけど」

 新海が思わず笑うと、柚木は突然思い出したのか、隣に腰かけた新海にビニール袋を渡して寄越した。

「彼にもあげればよかったな」

「何だ?」

「出張の土産」

 本当に出張だったのか、と思いながらビニール袋を開けると、小さな四角い包みが幾つも入ってる。取り出してみると、五センチ角くらいの包装紙に漢字とパイナップルの絵がでかでかと描かれていた。

「これ──」

「台湾のパイナップルケーキ」

 以前会社の同僚から旅行の土産にもらったことがある。

「剥き身で悪いな。箱で買ったんだけど、上に置いてきたから。あ、甘い物食えなかったら誰かにやって」

 柚木はそう言ってアイスコーヒーに口をつけた。

「俺も甘いのあんまり食わねえけど、それ結構美味いよ」

「──台湾?」

「うん、台湾」

 にっこり笑って頷いた柚木に何を訊こうか迷っていたら、柚木が先に口を開いた。

「あんたが便所入ってる間に禎光くんが言ってたけど」

「ミツでいい。親すら禎光って呼ばねえんだから」

 煙草を銜えながら言うと、柚木は律儀に言い直した。

「ミツくんが、あんたの様子を定期的に知らせてくれって、連絡先教えてくれた」

「まったく」

「どこまで報告すべきだろうな?」

 柚木はにやにやしながら煙草のパッケージを取り出し、一本銜えた。

「つーか、家族仲いいんだな、あんたんとこ」

「ああ、別に悪くはねえけど、特別よくもないんじゃねえかな」

「そうか? でも甥っ子が様子見に寄るとか、独居老人でもねえのに」

「俺が心配っていうより、あいつの罪悪感の問題だろ」

「あいつって、ミツくん?」

「いや、姉」

 柚木は煙草を銜えたまま首を傾げ、煙を吐いた。そうしてソファの上に足を引き上げて向きを変え、肘掛けに凭れて新海の腿に伸ばした両足を載せた。

「重てえ」

「で?」

「──俺が会社辞めた理由がな、姉絡みで」

 言いながら新海は柚木の足を掴んで引っ張り寄せた。

「危ねえ!」

 引っ張られて完全に仰向けになった柚木はぶつぶつ言いながら煙草を摘んだ。

「灰が顔に落ちるじゃねえか」

「落ちてねえだろ。それに落ちても熱いのは俺じゃねえし」

「お前な」

 足を蹴り出すのを抑え込み、柚木の脚の上に両腕を載せて煙を吐く。

「うちの姉ってのが、離婚しててシングルマザーなんだけど、ミツと、もう一人子供がいて」

「ビタミンCの子?」

「ああ、そう。もえっていうんだけどな。もえの同級生の父親が姉に熱上げちまって」

 たまたま保護者会で一緒になったとか、そんな話だった気がする。詳しい経緯は新海も知らないが、男の一方的な恋心だったのは間違いないらしい。何せ、相手は妻子持ちだ。ただでさえ忙しいシングルマザーの姉にしてみれば、そんな無駄なことに費やす時間はない、というやつだ。

「ミツくん、お母さん似っつったもんな?」

「ああ。顔はすげえ似てる」

「美人なんだな」

 確かに、姉は美人だ。だが、誰もが振り返るような美貌ではないし、一体何がそこまで男の心を奪ったのかは知らない。

「まあ、それで、何遍も誘ってみたが断られて、保護者会の用事を理由に家まで押しかけて、無理矢理思いを遂げようとしてるところにたまたま用事があって寄った弟登場、みてえな」

「うわあ」

 柚木は煙を吐き、灰皿を探すように煙草を持った手を彷徨わせた。自分の煙草を灰皿に放り込み、柚木の腹の上に灰皿を載せてやる。

「そんでまあ、思い切り顔ぶん殴ったら鼻折れたわな。で、転んだ時に手首も折ったわ、そいつ。そこら中血だらけで男はわんわん泣き出すし、姉は姉でパニクって男に怒鳴り散らして挙句蹴ってるし、まあ、女の子蹴りつーか何のダメージもなかっただろうけど、そりゃ修羅場よな。それは別にいいんだけどよ」

 どこかで見たやつだと気付いたのは、少し落ち着いた姉が差し出したタオルで男が顔を拭ったときだ。知り合いというほどでもないが、日常的に見る顔──。

「それが、ほんっと偶然なんだけど、うちの会社の取締役で」

「はあ?」

「しかも大事な大口取引先の娘婿でな」

「……」

「ご想像通りですよ、会社員の世界なんてお前。ごたごたは当然あったけど、端折って最後だけ言えば、俺は早期退職。破格の退職金を頂いたし、まあもう、最後はどうでもよくなっちまって」

「──それでここにいんの?」

 新海は、仰向けのまま煙草を銜えている柚木に目をやり、唇を曲げて笑った。

「そう、それでここにいんだよ」

 姉の話は母から伯父に伝わり、すぐに伯父から連絡がきた。

「大手にはちょっと届かねえけどいいとこで、待遇もよかったし、普通に昇進もしてたし、気にすんなっつっても無理なのかもしんねえけどなあ。俺はもうほんとにどうでもいいんだけど」

 溜息を吐いた新海を黙って眺めていた柚木は、煙草を捨てた灰皿をテーブルに載せた。

「なあ新海」

「ん?」

「じゃあ、あんたは次の仕事が決まるまでここにいんの?」

「ああ」

 そう、そのつもりだった。雇用保険を貰いながら求職活動だけするのと、ビルの管理人をやりながら活動するのと。普通なら前者だが、伯父は管理人なんて毎日いなくてもいい、面接でもなんでも行ってこいと言ってくれたから、ありがたく甘えた。

「……そうか。早く決まるといいな」

 笑った柚木の顔はいつも通りで、本当はもう次の仕事のことなんて考えてもいないのだと言うのを躊躇した。

「──ああ」

 下から伸びてきた手が新海のうなじを掴んで引き寄せる。引き寄せられるままに屈み込んで口付けた。舌も吐息も絡め取るようにねっとりと舐め回し、ネイビーのシャツから見える喉元を指でなぞる。ボタンをひとつ外したら、柚木はもがいて新海を押しやった。

「やべ、駄目だ、新海!」

「ああ? うるせえよ」

「いや、マジでちょ──退けっつの!!」

 細く長い脚が新海に絡みつき、新海はあっという間にソファから振り落とされた。

「痛えな! 落とすな!」

「やめっつってんのにあんたがっ」

「つーか何だ今のは、寝技かなんかか」

「何だっていいじゃねえか」

 柚木は腹立たし気に言ってシャツのボタンを留め直し、べたべたになった口元を拭って立ち上がった。

「ちょっと新海んとこに土産置いてくるっつって来たから、上から誰か来るかもしれねえし!」

「んなもんお前──」

「鍵だってかけてねえし!」

「ああ──」

 確かに、新海が不在でなければ、基本的に施錠なんかしないし、ミツが帰った時も当然そのままだ。

「仕方ねえな……」

「じゃあ俺上戻るから」

「なあ柚木」

「何」

 ドアのところで立ち止まった柚木が肩越しに振り返る。新海はソファの脇の床に尻をつけたまま、柚木が身体をこちらに向けるまで待った。

「次の仕事は当分決まんねえ」

「何で」

「探してねえから」

「……そう」

「上、全員帰ったら来いよ」

「呼べば来ると思ってんのか?」

 柚木はへっ、と生意気な顔で笑って出て行った。


 その夜遅くなってから、柚木は出張用の荷物と思しき小さいボストンバッグを抱えて降りてきた。

 新海の作った豚肉と白菜と塩昆布の炒め物を食い、デザートにパイナップルケーキを食った柚木が、その後は延々と新海を食わされて──何を、どこでかは省く──散々喘がされ、やっぱり来るんじゃなかったと泣いたのはまた別の話だ。


 

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