さくら
皇ゆずきという男は、群青にとってさほど重要な存在ではなかった。やろうとしていたことが突飛過ぎて、関心も興味も覚えなかった。理想が高いとか言う話ではなく、理想そのものが意味不明だったのだ。
事実、彼には色々と聞かれたり、また答えたりしたはずなのだが、その会話はあまり覚えていない。だからなのか、それとも何の意味もないのか、皇ゆずきが群青に宛てた手紙の内容だけは、一字一句、句読点に至るまで記憶していた。
ーー群青さん。今だから言えることなのですが、私は私の夢をもう随分も前から諦めていました。真人も地人も、引き返せないところまで進んでしまった。お互いに殺し過ぎてしまった。怨み過ぎてしまった。
私は、諦めていないフリをしていただけです。私は、私が思っていたほど強くも逞しくもなかった。残念ながら、貴方のことも、結局、最後までよくわからないままでした。
群青は、この手紙を読み終わったあと、皇ゆずきを殺した地人を一日で捜し出し、皆殺しにした。こんなにも地人を殺すことに執着したのは、後にも先にもこれきりだった。
手紙の最後は、こう締めくくられていた。
ーーですが、私の妹は違います。あの子は、とても強い。強いからこそ、不可能な道を歩き続けるでしょう。だから、どうかお願いします。私の妹を、皇さくらを守ってあげてください。どうか、あの気高い魂が、いつまでも美しくあり続けられるように。
では、さようなら。もうすぐ私は殺されるでしょう。「敵」と闘うかどうかは、まだ迷っています。
群青が皇さくらと出会ったのは、この手紙を破いて四年後のことである。
「群青助監! どうかご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」
「あぁ、なるほど」
「え?」
「いや、こっちの話さ」
その輝くような笑顔を見た瞬間、群青は名家が名家たる所以を理解した。
数十年前、世界が滅びようとしていたあの時、「名家」の祖先達は、自分達の子孫が将来有利になれるよう、働きかけていたのだ。誰もが諦め、自分のことで精一杯になっていた時にも、人の未来を信じていた。その最高の前向きさが、この少女にはあった。
「それじゃぁ、どうぞよろしく。ゆる〜くね、頑張っていこうか」
群青は嘘偽りなく笑った。
桜と言う樹木は、すでに絶滅している。日本人が最も愛した花が枯れ落ちていくたびに、人としての矜恃も、温かさも、共に消えてなくなったのかもしれない。
だからこそ、皇さくらの
この星で最も素晴らしい賜り物。皇の
そう。彼らは、【無幻霊蘭桜・七景】が持つ恐るべき能力を知らない。皇さくらの
ーー
自らに不利になる誓約を立てることで、
皇が立てた誓いは、「敵から攻撃されない限り、絶対に能力を発動しない」と言うもの。相手がどんな
初撃を防がれた隼士は皇から距離を取った。完全に殺したと思ったのに、彼のナイフは弾かれていた。打ち合った衝撃に、右手が震えている。これは初めての経験だった。あの細いサーベルには電信柱のような重さがあった。
「【一景・俊花巫空】!!」
皇は二本あるサーベルのうち、一本を投げ捨てた。コンクリートに転がるそれは、何だか頼りない音を立てて転がっていった。
皇が捨てたサーベルは隊の装備として支給された見かけだけの武器である。装飾やデザインを華美に誂えていても、戦闘では役に立たない。だが、それとは逆に、彼女が今手にしている物は皇家に代々伝わる秘剣である。軽く、強く、しなやかだ。隼士の技倆により斬れ味を数十倍にまで高めたナイフすらも、軽々と折る。だが、
ーー疾すぎる。防戦に回っていたら押し切られる。怪我をしているとは思えない。
汗が耳の前を伝って落ちた。たった一合の打ち合いで、彼我の差を痛感させられた。武器の扱いで勝負していたら、まず勝てない。そう、これは勝たなくてはならない闘いだ。
右手右足を前に、半身の基本姿勢。こちらから、仕掛ける。
「はっ!」
曲刀のしなりが風を裂く。相手の間合より数歩外から切っ先を叩き付ける。が、簡単に捌かれた。
「ぅ……」
切っ先が打ち上げられた。が、手首を回転させ、懐への侵入を防ぐ。防いだはずなのに、敵はまだそこにいた。逆手に構えた左手のナイフは、サーベルの刀身を根本に向けて擦り、前への推進力とする。右手のナイフが、皇の喉笛を裂いた。
「ふぅ……」
皇は、隼士の背後、数メートル向こうにいた。瞬間移動でもしないと、その動きの幅を作るのは無理だろう。
舞い落ちた花弁は、地面に触れると溶けて消えていく。見上げると荘厳な薄桃色の絶景があるのに、下を向けば血やゴミで汚された地面がある。不可思議な光景だった。
ーー今のが
花弁が視界の妨げになる。が、隼士は構わず突っ込む。デザートイーグルを横撃ちしながら右へ左へと動き回り、皇を撹乱する。皇も走りながら弾丸を回避する。それでも追い掛けてくる弾はサーベルで両断した。
皇が消えた。隼士は首を振って背後からの突きをかわす。常人ならばこの「異常」に対抗するためにまず距離を取るだろう。だが、隼士の脳にそのような思考はない。デザートイーグルでサーベルを打ち払いつつ間合いを詰める。それに対して皇はバックステップ。とにかく一定以上の距離を保つことに注視する。
特殊フラググレネード〈暁〉が皇の背後で炸裂した。反転する瞬間に死角になった手で投擲していたのだ。
「あ!?」
皇の体勢が大きく崩れた。これで終わり。右のナイフが煌く。皇の右肘を斬り落とす。ことはできなかったが、右から来る不意打ちはかわした。
「ぅそ」
皇に背を見せるように回転。左のナイフを脇腹に叩き込む。
「あ、ぐ!」
僅かに外した。銀の隊服を裂かれ、白磁の肌が露わになる。皇の脇腹に幅10センチの斬り傷が生まれた。隼士は止まらない。右回し蹴りを彼女の小さな頭に叩き込む。直撃。皇が吹っ飛んだ。その先に隼士は回り込んでいる。が、ナイフで皇を斬り殺すことはできなかった。皇はまた隼士から大きく離れた場所におり、傷口に何かを塗り込んでいる。
ーーおそらく、この花弁が散っている範囲内での瞬間移動能力。連発はできないのか、それともしていないだけか。
隼士のこの推測は概ね当たっている。現在展開されている【一景・俊花巫空】は、桜の幻樹の半径30メートル以内における皇と花弁の位置を交換するものだ。瞬間移動ではないため、皇と移動先の間に動きの線はなく、その間で待ち構えていても意味はない。また、桜の幻樹は常に皇の半径10メートル以内に存在するため、彼女の能力が制限されることはほぼない。
この領域内で皇さくらを捕らえることは至難の技。さらに、
ーーこいつは「七景」と言った。これは「一景」だとも。今後能力が強化、更新されていくと見た方がいいな。
ここから導き出される結論は、
ーー手早く殺す。
隼士は駆けた。彼が行うことに変わりはない。ただ、殺す。疾さで翻弄し、能力で撹乱し、技で刈り取る。
「……っ!」
皇が能力を発動。駆け出した隼士の横腹に飛ぶ。渾身の突き。と見せかけて刃を捻り、大きく振る。一点攻撃から範囲攻撃への高速転換。
隼士が右手のデザートイーグルの背で刃を弾く。弾いた瞬間にナイフに持ち替え、返しの攻撃も受け止める。同時に左の人差し指が引き金を三回引く。三発とも当たらなかった。皇の天性の反射速度は、隼士の指の動きを上回った。だが、
「は?」
次の瞬間、隼士の左手が握っていたのは、刀身が1メートル近くある長刀だった。皇の肋骨の間をすり抜け、心臓を貫く完璧な角度の刺突。皇のサーベルは隼士の右のナイフで抑え込まれている。ここで、終わった。
長刀が皇を貫いた。その瞬間、
「っ!」
皇の身体が桜吹雪に変わった。隼士のグリップに手応えはなく、まるで空を突いたような感覚だけが残る。
それは、皇ではなかった。彼女を模した分身だった。
本物の皇は、その場から大きく離れた場所で片膝を立てて荒い呼吸を落ち着けようとしていた。
「【二景・春雲】」
【無幻霊蘭桜・七景】の第二フェーズが始まったのだ。
ーーおよそ二分と言ったところか。
読みは当たっていた。隼士は殺害開始からの時間を遡り、「次」の能力発動までの合間を考える。少しずつ能力が強化されていき、なおかつ
隼士にとって、これは戦闘ではない。殺人である。その思考回路は、彼がどうしようもなく暗殺者の沼に浸かっていることを表している。だが、本人はそれに気付いているし、それで良いと思っている。
皇は闘いだと思っているだろう。その時点で、彼女の死因は決まっていた。隼士に殺されると言うことだ。
ーーあとは、あの瞬間移動と分身が同時に発動しているのかだけ、だな。
確認するには、前に出るしかない。そして、隼士はそのことに躊躇しない。
「っ!? まだ来るの!?」
普通、未知の能力に出会えば探りの段階を踏むだろう。そんな常識すらこの男には通用しないのか。
だが、私は負けない。皇は歯を食いしばる。
「シッ!」
皇が二人になった。常に背後に回ろうとする方と、正面で待ち受ける方。しなる曲刀は変幻自在の間合いを持つ。それが二本、二人。隼士が初めて、受けからのカウンターができなくなった。だがそれでも、皇の刃は隼士に届かない。ナイフが順手逆手に翻り、皇の猛攻を芸術的に捌く。
皇が一歩踏み込んだ。サーベルの根本で隼士の右のナイフを逸らす。が、ナイフが消え、込めた力のままにサーベルが空を切る。即座に隼士は別のナイフを召喚。もう一人を銃で牽制しつつ、皇の首を斬り裂きに行く。が、また瞬間移動で逃げられた。
そこまでは隼士の想定内。くるりと反転し、もう片方に向き直る。が、やはり逃げられた。
瞬間移動と、分身。同時に使用されると隼士でも攻めきれない。時間を稼ぐと言う意味では、皇の
一瞬の危機感。ゆえに、出し惜しみはしない。
ーー来い。
右手に刻まれた血の門が、淡く光った。そこからまず現れたのは、鋭い爪を有した前脚。そして、鋼鉄すら噛み砕く顎と牙。
銀と黒の中間色の毛並みをした狼が、軽やかな足取りで着地した。狼は一度大きく身を震わせると、その目蓋を開けた。深い緑の瞳は、賢者の静謐さを宿していた。
『久しい』
狼が人の言葉を口にした。
『久しいが、何一つとして善くない。腐臭が酷くて敵わん』
皇が流れる汗を拭った。つい数秒前まで灼かれるような命のやり取りをしていたのに、流れた汗は冷たかった。
「〈攻種〉……!!」
〈攻種〉とは、人語を解する新生種の総称である。
この世に存在する新生種のほとんどが、ウイルスによって進化系統を食い潰されたものの成れ果てだ。脚クラゲのようにコミュニティーを作り、繁殖を成功させた種は極めて少ない。
真人や地人が知らない新生種が、今この瞬間も生まれては死に、死んでは生まれてを繰り返している。人の言葉を操る種が出てきても何らおかしくないのだ。
『よいのかファルコ。我との契約は三度。ここで使うが真に賢明か』
「あの女と同じ匂いのする真人が、まだこの辺りにいる。一人残らず喰い殺せ」
『承知した』
小声の会話は、皇に聞こえていない。聞かせていない。次の瞬間、狼が風の速度で駆け出した。
もちろん、それを易々と見逃すほど皇は未熟ではない。サーベルで狼の首を突き刺す。だが、狼は傷一つ負わなかった。サーベルが触れた瞬間、その身体が溶けたのだ。
「ど、どういう……!?」
隼士が召喚したこの狼に、名前はない。あるのは特異な能力、自身の身体を液状化させると言うものだけ。
狼は、皇を流し目で見るだけをして、通路の奥に消えて行った。
「あの〈攻種〉に、何をさせるつもりですか……!」
その問いに、隼士は沈黙を返した。静かに、愚直に、ひたすらにナイフとデザートイーグルを構えるのみ。相手に一切の情報を与えないことで、混乱させる。これは隼士のポリシーであり、また、この戦法は今の皇に極めて効果的だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます