トーキョーミクロコスモ
夏目りほ
幸福な転生
2016年6月6日。その日は朝からよく晴れた。梅雨入りが先延ばしになった理由を告げる夕方のニュース。二羽のカラスが電線にとまる。暗い四つの眼球が覗く六畳一間に、鈍い音が鳴り響いていた。
ーーあぁ。
ーー失敗した。
少しずつ音が遠くなっていた。左手の小指に温い液体が伝ってきた。
ゴッ、ゴッ、と。彼の耳が拾えなくても、その音は確かにあった。それは、緋山有の義父が、緋山有の顔面を殴りつける音だった。
三十路を過ぎた大の男が、まだ十一歳の男の子の上にまたがり、抑え付け、腕力のまま殴打する。緋山有にはその暴力の理由がわかっていたし、また、理由がなくても殴られることはしばしばあったため、この状況に疑問はない。
緋山有は、亡き母の再婚相手から日常的に虐待を受けていた。彼があまり学校に行っていないのも、同年代の男の子に比べて極端に小柄なのも、全てそのせいだった。
ーーイケると思ったんだけどなぁ。あれ、でも。
僕は何をしようとしていたんだっけ。記憶が混濁する。何よりも大切な何かがあったような気がして、そして、わからなくなった。最早何もかもがどうでも良い、どうしようもないことだった。
ーー次くらいは、マシな人生を送りたいな。誰かに愛されたいな。
ひゅ、と言う小さな呼吸音を最期に、緋山有は命を散らした。意識が途切れるのを覚えたか覚えないかしたその時、
「っ!」
緋山有は目を覚ました。
「う、あ?」
なんだ? そう言おうとした、言ったつもりだった言葉は形にならず、代わりに赤子の泣き声になった。それが自分のものだと理解する前に、視界に何かが割って入ってきた。
「あー。ひぃくん泣いちゃいましたよ。もー。旦那様が大きな音を立てるから」
「いやぁ、すまない。おーおー。
その何かは人だった。まだ若い、おっとりした優しそうな女性。そのことをやっと理解した瞬間、また唐突に視界の方向が変わって、さらに訳が分からなくなった。緋山有は誰かに抱え上げられたのだ。先程まで彼が見ていたのは天井だった。
「んー。よしよし。そう、良い子だ。ふふーん。流石は私と百合子の息子だ。もう泣き止んでいる」
「ひぃくん、お父さんに抱っこされて嬉しいんだね。あ、旦那様、気をつけてください。まだ首が座っておりませんので」
「お、そ、そうか」
緋山有が、「飛鷹」と呼ばれた彼が見上げると、口髭を生やした壮年の男性が、慈愛のこもった瞳でこちらを見つめていた。飛鷹の身体を優しく抱き上げる逞しい腕から、穏やかな温もりが伝わってくる。
「ほーら。うりうり。ひぃくんは本当に良い子だねー。お母さんに似たのかな?」
若い女性が指の原で頬をつついてくる。
「そうだな。この落ち着きは百合子に似たのだろう。だが、この子の凛々しい瞳を見たまえ。これは正しく私の血だろうよ」
「ふふ。本当ですね」
「ほ〜ら。高いたかーい!」
温かい。自分の肉体が、温かい。緋山有は、飛鷹と呼ばれた彼は唐突に感じることができた。自分は愛されている、と。確かに自分は、この人達に愛されている。その実感だけで、
「あ! ど、どうしたんだ飛鷹!?」
「あー、もー! 旦那様がいきなりそんなことするからですよ!」
大粒の涙が溢れてくる。自分がどうして再び意識を得ているのか、ここがどこで、彼らが誰なのか、そんなことはどうだって良い。何だって良い。彼はただ、ただひたすらに嬉しかった。近しい人に愛されると言うことが、どうしようもなく嬉しかったのだ。
かつての彼、緋山有は誰に愛されることもなく十一年の生涯に幕を下ろした。だが、彼はその記憶を持ったまま、風早飛鷹として新しい生を受けた。
それは、
十七年後、彼は世界を揺るがす少女と出会うことになる。
一級真民。それが風早飛鷹に与えられた身分だった。下から三級、二級とあり、上に上級、星祖とある。星祖は神に等しい存在として信奉されているため、人間としてはカウントしない。上級真民も下界にほとんど関与してこない。つまり、実質的な支配層のトップは一級真民であり、そしてその中でも風早家は特に力を持った家系だった。
圧倒的勝ち組。彼は三日もかからずそれを自覚した。
地上で第一次産業や肉体労働に従事する三級真民。
そして、そんな二級真民を支配する一級真民。一応は
結局のところ、一級は仕事と呼べるような足枷をほぼ持たない階級だった。人間を超越した彼らは、ただただ日々を趣味や芸術に費やし、優雅に、幸福に生きるだけで良かった。
「最近は雨ばっかりですね」
飛鷹の世話役の女性、鈴本が呟く。緋山有だった頃に住んでいたアパートの二十倍はありそうな広さのダイニング、その大窓から見える景色は暗く、一様に雨模様だった。鈴本の言葉に釣られて飛鷹も、カーペットに広げた本から窓の外に視線を動かす。
「また穢人がたくさん死にますね」
飛鷹の実父、風早賢吾が鈴本を睨む。
「鈴本くん、飛鷹の前でそんな穢らわしい名前を口にしないでくれるかな?」
「は、はい。失礼しました。以後気をつけます」
「わかればよろしい」
鈴本は二級真民だ。本来なら地上で農地警護をしているはずだが、風早家の特別な計らいによって
この世界では、上位真民の指先一つで下位真民の首が飛ぶ。絶対的な身分制度と言うテクスチャーの上に弱肉強食が成り立っていた。
「そ、そうだ。ひぃくん、また新しいご本を読むようになったんですよ」
「ほう! それは素晴らしい! 飛鷹は本当に聡明だな。私も鼻が高いよ!」
非常に無理のある強引な話題転換だったが、風早賢吾はあっさり引っかかった。
「んー。飛鷹。今度は何のご本を読んでいるのかな?」
父が覗きこんでくるのを背中で感じながら、飛鷹はカーペットに並べられた本を指差した。
「あ」
「ほほう。歴史書か」
「どうしてでしょうね。ひぃくん、気が付けば歴史書ばかり広げてるんですよ」
「良い良い。過去を知るとは未来を拓くことだ。やはり私の息子は素晴らしい」
飛鷹は父が喜ぶ姿に嬉しみを覚えつつも、少し冷めた気分の己に気付いていた。この人達は、飛鷹が一端の教養と自意識を持って行動しているなんて露ほども思っていない。生後三か月の赤ん坊の中には、十一年にも及ぶ虐待生活に耐えてきた強力な人格が宿っていると言うのに。
飛鷹は何も知らない二人から目を離し、若干の焦燥感を持って歴史書の文字をなぞった。彼は、一秒でも早くこの「異世界」についての情報を掻き集めなければならないからだ。
ーーはじめは未来だと思っていた。けど、違う。ここは未来なんかじゃない。
彼がそう確信する二つの根拠。それは、ほぼ全ての歴史書の序章に記されている二つの事件に起因する。
ーー2016年6月3日、地球全土で起きた大地震、通称「世界震」。そして、6月6日の午前0時から降り始めた「毒の雨」。こんなもの、僕の世界には存在しなかった。
人間社会を大混乱に陥れた天災と、この星の99%の生物を絶滅させた大災禍。その両方に殴りつけられたこの世界は、真世界都市トーキョーは、かつて緋山有が生きていた世界であるはずがなかった。
ーー僕は転生したんだ。未来ではない、別次元の東京に。
知らなければ。獲得しなければ。別の世界で生きていたことを誰にも悟られないように。もう二度と、迫害や暴力を振るわれ、虐げられないように。
そして何より、この穏やかな幸せにいつまでもひたっていられるように。最近の飛鷹は、ただひたすらにそればかりを考えていた。
ーー人間を「真人」と「穢人」に分けた毒の雨。いや、地球外生命体の侵略。
それが毒の雨の正体だ。この世界の雨には、超々極小の生命体である「ウイルス」が紛れ込んでいる。そいつらは他生物の外皮や粘膜からその体内に侵入し、寄生し、増殖しながら細胞を死滅させていく。汚染された動植物を食べることでも感染は広がり、その感染力は地球産のものとは比べようのない速度と粘り強さを有していた。
そして、2016年のその日から、生物にとって有害でしかないウイルスを大量に含んだ雨がきっちり100日間降り続けたのだ。ウイルスは今なお雨に含まれており、人間社会はもちろん、この星の生態系はぐちゃぐちゃにされた。
だが、そんな状況下でもしぶとく生き残った生命もあった。それらは生存戦略として歪な進化を遂げ、緋山有が生きていた世界で言うところの「怪物」となって地上に現存している。その一種が「穢人」だった。
「ワクチン」に適応できず、ウイルスに細胞を破壊されながら地下で這いずり回っている、かつての人間。
ーーだが、「僕ら」はそうじゃない。これは本当に、本当に運が良かった。
真人。死に逝く人類が奇跡的に開発したワクチンに適応できた一握りの人間達。彼らはウイルスによる細胞破壊を完全に停止させ、逆に飼い慣らし、強靭な肉体と
ウイルスがウヨウヨする水を飲んでも死なない。ウイルスに侵された動植物を食べても死なない。真人は、飛鷹は、生命として一つ上のステージへと登り詰めたのだ。
だがしかし、その数は極めて少ない。現在の真人の人口は約50万。そして、その全てが日本人だ。日本で開発されたワクチンは日本人にしか行き渡らず、この星でまだ都市として機能しているのはトーキョーとオーサカ、サッポロのみ。
歴史書を読み進める度に飛鷹は身震いする。よくぞこの生存競争の勝者に生まれ付いたものだ。
ーー
優しい世話係のお姉さんと、自分を溺愛する父。どうしてか母にはまだ会えていないが、これ以上無いほどの幸せを享受できているのだ。
真人から穢人などという名前で蔑まれ、虐げられている人々には同情する。ウイルスに細胞を壊されながら、僅かな食糧を奪い合っている彼らに、心から同情する。人間だった頃の記憶を持つ飛鷹は、「穢人」を見下すことはしないし、できない。
ーーでも、ごめんなさい。僕はあなた達を助けてあげられない。せめて知らないままではいないから。
基本的には自分のためだが、僅かながらの祈りを込めて、飛鷹は調べ続けた。この世界のことを赤子の頭に叩き込んで行った。風早家と言う家の裕福さも彼に味方した。
飛鷹は鈴本におんぶされて穏やかに眠り、父に抱っこされて遊んだ。それは「緋山有」が経験した初めての幸福な生活だった。そして、彼がこの世界に転生してから16カ月後、目を覚まして13か月後のある日、
「では、行ってまいります」
「あぁ。結果はわかっているが、終わったら連絡してくれたまえ」
鈴本におんぶされた飛鷹は、生まれて初めて風早家の外に出た。その目的は、生後16ヵ月の子供に義務付けられている「適応力」の測定だった。これが高いとより強力な
まぁ、とは言え、飛鷹は両親が一級真民なため、ほとんど測定の必要がないと言って良い。等級に相応しい適応率を持っていることは明らかだからだ。
だが、ルールはルールなので、飛鷹も測定をしなくてはならない。適応率測定を請け負う研究所は風早家のすぐ近くにあったため、鈴本は飛鷹をおんぶし、徒歩で向かった。測定自体もすぐ終わる簡単なものだ。
測定の結果、飛鷹の適応率は0.7%と診断された。
「はい。そうです。えぇ、はい」
鈴本が飛鷹の父に電話で報告している。電波塔は
「わかりました。はい。では」
電話を切った鈴本のその表情に普段との違いはなく、実に平然としたものだった。適応率の高低の判断をどうやってつけるのかわからない飛鷹も、それを見て安心した。自分の適応率が一級に相応しくないものなのかと心配したが、そう言うわけではなかったらしい。飛鷹は改めて安心し、彼女の背中の体温に身を預けて目蓋を閉じた。
果たしてどれだけ眠ったか、飛鷹は頬に当たる風で目を覚ました。陽光の眩しさに一度目を細め、再び周囲を見渡す。そして視界に飛び込んできた光景に、思わず声を上げた。
ーーおぉ!!
そこは展望台だった。
ーー地上があんなに下に! 農地があんなに広く!
飛鷹の感情が一気に昂まる。人生の殆どをあの狭いアパートで過ごした彼には、外の世界は信じられないほど美しく見えた。自分の人生が広がっていく期待感に胸が震える。小さな右手を空に伸ばしたその時。
「え」
地上に投げ捨てられた。
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