第42話 SKYFALL⑩
モロッコでは学校は月曜から土曜の午前まである。見習いシスター、フランチェスカが「今日はここまでね」とテキストをしまうと、それで土曜の授業は終わりだ。
「
「はい。
生徒全員が教室を出ると、フランチェスカははふぅと大きな溜息をつく。同時に肩の荷がおりた気分だ。
生徒たちは全員、富裕層かつ、話し方も上品なので、こちらもそれに合わせないといけない。
「こんなの、あたしのキャラじゃないし!」
トントンとテキストを揃えて教室を出ると、廊下の窓から生徒ふたりがなにかを指さしながら話していた。
気になって見てみると、学校の外の道路脇で物乞いが外国人観光客にちょっかいをかけられていた。
生徒のひとりが指さしながら笑う。
「みじめだな」
「だな。ぼくらは勉強できるから、将来は安泰だけどね」
ぎゃはははと揃って笑うふたりの頭に拳骨が振り下ろされた。
「いっ!」
「なにすんだよ!」
振り向くとそこにはフランチェスカが立っていたので、ふたりはたちまち顔を曇らせる。
「自分より貧しいひとを指さして笑うなんて最低よ! 勉強が出来るからってなに? あたしはそんなことのためにフランス語教えてるわけじゃないわよ!」
仁王立ちで叱りつけると、ふたりは反省したらしく、小声で「ごめんなさい」と謝罪した。
「ん、よろしい。もう帰っていいわよ」
その場を逃げるように走り去る生徒ふたりを見送ると、ふぅと溜息をひとつ。そこへいきなり背後から声がした。
「フランチェスカ先生」
「わっ! ナディア理事長!」
振り向くといつの間にか理事長のナディアがいた。
困惑顔で首を振り、「あなたにお話があります。すぐに理事長室へ来るように」と踵を返す。
†††
理事長室ではフランチェスカが机を挟んでナディアと向かい合うように立つ。
「フランチェスカ先生、当校は我が国でも有数の名門校です。よって学生だけではなく、教員にもそれ相応の振る舞いをせねばなりません」
「はい」
「生徒たちを叱りつけるのは構いませんが、暴力を振るうことは許されません。最悪、保護者の方から訴えられることもあるのですよ?」
「はい……肝に銘じておきます……」
「よろしい。あなたは入院されたマルタ先生の代理で来ているのですからね。マルタ先生の退院が延びたとのことですが」
「一日延びただけです」
「そうですか……ではあと五日お願いしますね。フランチェスカ先生、あなたは彼らにフランス語を教えるだけでいいのですからね」
話は以上ですと締める。
「あ、あの」
「なにか?」
「確かに、私はフランス語を担当していますが、それよりも大事なことがあるのではないかと……」
「というと? どこかカリキュラムに不備や不足がありましたか?」
「そういうわけでは……教師というのは、勉強を教えることがすべてではないと思うんです」
「フランチェスカ先生」
ナディアが眼鏡を外す。
「あなたの担当はフランス語を教えることです。それ以外のことは担任の教師がやってくださいますから、それ以上のことは不要です」
話はお終いと言わんばかりに眼鏡をかけ直すと書類仕事に戻った。
「わかりました。失礼します……」
一礼して理事長室を出る。
†††
学校からの帰り、フランス語教師の見習いシスターは車内の窓に肘をついてもたれていた。
「フランチェスカ先生、どうされましたか?」と運転手のカリムが声をかける。
「別に。なんでもない」
そう答えるフランチェスカはむすっとしかめ面だ。ガムを口に放り込んでくちゃくちゃ噛む。
「さようですか……」
信号が赤になったので停車する。
フランチェスカがふと外を見ると、十歳くらいの少女が白い紙を手にして道行く人に声をかけているのが目に入った。
「ねぇ、あの子なにしてるの?」
「ああ、あれはティッシュを売っているんですよ」
「わざわざ路上で売るの? スーパーとかに行けば買えるのに」
「フランチェスカ先生、この国はあの子のような貧しい子が多いんです」
しかも、と続ける。
「手に入ったお金は子どもの手には渡らず、大抵は親か、元締めが全部取り上げるんです」
「そうなの……」
ふたたびティッシュ売りの少女に目をやる。手を勢いよく振ったためか、ぱらぱらとティッシュが風に乗って飛ばされる。
日本じゃ、タダで配ってるって聞いたことはあるけど……。
「ねぇカリムさん」
「はい?」
「今度、車を呼ぶことになるかもしれないけど、いい?」
「もちろんです。御用命の際にはこちらに電話してください」
電話番号が書かれた名刺を渡す。
「ありがとう。近いうちに電話するわね」
†††
リヤドに帰宅すると、案の定アルが待っていた。今日は仕事が休みの日だそうな。
「じゃ今日も始めるわよ!」
九九は六の段まできていた。だが、段が進むほどに数が大きくなっていくので、アルは覚えるのにひと苦労だ。
「こんなにたくさんの数、かぞえたことないよ!」
「ここが肝心なのよ。覚えると後がラクになるの」
「うー……」
中庭のテーブルでアルが頬杖をつきながら、黒板に書かれた式をノートに書きつける。
大丈夫かしら? あと四日しかないのに……。
見習いシスターが見上げると空には太陽が頭上に近づきつつあった。
「そろそろお祈りの時間ね」
はたして彼女の言ったとおり、街の
「礼拝いってくる!」
「あたしも行くから一緒にモスク行くわよ」とファティマおばさんが手を繋ぐ。
フランチェスカがふたりの背中に「いってらっしゃい」と声をかける。
ふたりが外へ出るのを見送ると、ミントティーのグラスを口に運ぶ。
ミントの爽やかな香りが口の中で広がる。
ふぅっとひと息ついてからふたたび空を見上げ、まだ流れ続けているアザーンが耳に心地良い。
なんとなくノートに手を伸ばしてぱらぱらとめくる。何度も繰り返して書いた数字や式、アルファベットがびっしりと白紙を埋めつくしていた。
家に帰っても復習をしてきたようだ。
「ちゃんと頑張ってるわね」
うんうんと感心していると、礼拝を終えたふたりが戻ってきた。
「ただいま!」とアルがテーブルへと駆けよる。
「おかえり。ね、遊びにいかない?」
「ホントに!? あ、でも勉強は」
「息抜きも大事よ。ずっと勉強してたら解けるものも解けなくなっちゃうわよ」
やった! とアルが両手をあげて喜びを露わにする。
†††
アルに連れられてやってきたのはスークを抜けた先にある模擬店が並ぶ街路だった。
的当て、輪投げ、似顔絵などの屋台が並ぶなか、アルとフランチェスカはボールで空き缶を狙うゲームに興じていた。
見習いシスターがボールを手に狙いを定め、集中して一点を狙うように投げると見事に缶に命中した。
「やったわ!」
両手をアルの前に出す。だが、アルはその意味がわからず、ぽかんとするだけだ。
「ハイタッチよ。成功したり、嬉しいことがあったらお互いに手を叩くの」
アルが両手をあげると、すかさず叩いてぱちんと小気味良い音。
屋台の店主から景品のキャンデーを受け取ってふたりは歩く。
街路には屋台のほかに移動遊園地もあり、地元の子どもたちが遊具できゃっきゃっと戯むれる。
「あれ?」
キャンデーを舐めながら歩いていたフランチェスカが足を止める。
「どうしたの?」と同じくキャンデーを舐めているアル。
「あれって映画館?」
彼女が指さす先には路地の奥にある古い建物だ。壁に貼られた新旧ない交ぜになった映画のポスターがなければ映画館とは思えない外観だ。
気になって近づいてみる。
「これ、もう十年以上も前の映画よ」とポスターを指さす。
ポスターはハリウッド映画やインド映画、モノクロ映画などがあった。
「あ、これ知ってる! 『カサブランカ』だわ! ハンフリー・ボガートがカッコいいのよね」
「おれ、映画みたことない」
その時、ドアが開いたのでふたりはぎょっとした。
出てきたのは顔に幾重もの皺が刻まれた老人だった。
「映画はやってねぇよ」とスペイン語でぶっきらぼうに言い放つ。
「ということは、ここはやっぱり映画館なのね」
「ああ。ここらへんがフランスが統治してた頃からあるんだ」
老人がアルに気づく。
「ぼうず、映画に興味があるのか?」
「うん、でもみたことないんだ」
「そうか……映画は良いぞ。よかったら中を見せてやろうか?」
「ホント!?」
老人がついてこいとでも言うように指をくいくいと動かして中に入るよう促す。
入口の横にはパンフレットが乱雑に置かれたカウンターが、コンクリート剥き出しの壁にも様々なポスターが貼られていた。
ふたりが興味津々で見ていると、老人がこっちだと階段を指さす。
階段を上がったところにある部屋は映写室であった。
机の上には使い込まれた映写機、壁の棚にはフィルムを入れる缶がずらっと並んでいた。
「すごい! 映写室なんてはじめて!」
「ガキの頃からここが仕事場でな。ぼうず、これが映写機だ。ここにフィルムをセットして、スイッチを入れるとあそこの穴から映像が映し出されるんだ」
壁に空いた穴からは座席が見下ろせ、正面にはスクリーンがかかっていた。
「どうかね? なにかひとつ映画でも見せてやろうか?」
この提案に賛成したふたりは一階の客席へと向かった。
プラスチックの座席に腰かけると、それを合図にスクリーンに映像が映し出された。
映画はアメリカのスパイ映画で、CGが出来る前のチープな作りだが、映画が初体験のアルにとっては新鮮に映ったようだ。
主人公が敵の組織に捕らわれ、肩を机にぶつけて関節を外して脱出するシーンでは思わず「うわ、痛そう!」と声を上げた。
クライマックスに近づき、主人公とヒロインのラブシーンが流れたときには、フランチェスカがアルの目をすばやく手で隠す。
「子どもは見ちゃダメ」
⑪に続く。
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