第40話 1990年5月のディナモ・ザグレブ②

 ミロシェヴィチは目を覚ますと、ベッドからがばりと半身を起こした。

 呼吸が荒い。夢だと気づくまで少しの時間を要してから顔を掌で覆う。びっしょりと寝汗をかいていた。


 「ッぅ……!」


 目を覚ました途端、足首の痛みに顔をしかめる。

 そばのサイドテーブルから瓶を引っつかむと、錠剤をふたつ口に放り込んでペットボトルの水で流し込む。

 ふぅーっと深呼吸。だんだんと痛み止めの効能を感じながら壁に立てかけた松葉杖を取って、やおら立ち上がる。

 カーテンを引くと、夏らしい眩しさが部屋に入りこむ。

 ダイニングを兼ねたリビングに松葉杖でひょこひょこと移動し、冷蔵庫を開けた。

 昨夜の残り物を取り出し、次にビールがないか探す。冷蔵庫の上のビール瓶も振ってみるが、いずれも空だとわかると舌打ちをひとつ。

 皿を手にしてソファにもたれ、テレビを点けるとニュース番組が。


 『――今年もザグレブでは暑い日が続くようです。続きまして、昨夜のディナモ・ザグレブ対ハイドゥク・スプリットの試合模様を』


 プツリと画面が切られた。

 リモコンを放りだすと、すぐに朝食を平らげ、皿を乱暴にシンクに置く。

 そして松葉杖を手にして玄関から外に出た。


 ――クロアチアの首都、ザグレブ。天気予報のとおり、太陽から容赦ない陽射しが降りそそぐ。ユーゴスラビアが解体してから実に30年の時が流れていた。



 ――同時刻。クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境線。

 一台のバスが国境警備隊の指示で停まり、警備員が運転手と二言三言交わしてから車内へ乗り込む。

 そして訛りのある英語で乗客に伝える。


 「ここからはボスニア領です。パスポートの提示を」


 乗客がパスポートを手渡し、スタンプが押されると返却されていく。

 このバスはドゥブロヴニク行きのバスではあるが、飛び地のため、ボスニアの国境を越える必要があるのだ。


 「OK。次、パスポートを!」


 差し出された国章のある赤いパスポートを受け取ってチェック。


 「OK!」


 スタンプを押して返す。と、目の前の乗客がはじめて修道服スカプラリオを纏っていることに気がついた。


 「あんたシスターか?」

 「ええ、そうよ」

 「そうかい。俺はボシュニャク人でイスラム教徒だが、誰でも歓迎さ。ドゥブロヴニクへ行くのか?」


 そうだと修道女がうなずく。


 「また国境を越えたらすぐにドゥブロヴニクだ。よい短い旅を」


 制帽のつばをつまんでくいっと挨拶。

 警備員が出るとしばらくしてからバスは走り出した。返却されたパスポートをポケットにしまうと、見習いシスター、フランチェスカはイヤホンを装着して窓の外を見る。

 世界一短いことで知られる海岸線からはアドリア海が陽光を受けて煌めいていた。

 ザグレブに到着し、バスでドゥブロヴニクへ向かう彼女は昨日の出来事に思いを馳せた。


 ザグレブ。イェラチッチ広場の近く――。


 「それ! イヴァン!」と少年のひとりが向かいのイヴァンという名の少年にパス。


 「いくぞっ」


 シュートを決めるべく、蹴りだされたボールはまるで見当違いの方向へ。


 「なにやってんだよイヴァン!」

 「ヘタクソ! なにが第二のルカ・モドリッチをめざしてるだよ!」


 友人たちの罵声を背に受けながらボールを追うイヴァン。ころころと転がったボールはコツンと松葉杖の男の爪先で止まった。


 「ごめん、おじちゃん。そのボールこっちにちょうだい!」


 だが松葉杖の男――ミロシェヴィチは足下のボールを見て、ふんと鼻を鳴らすと松葉杖であさってのほうへと飛ばす。


 「なにすんだよ!」


 イヴァンはふたたびボールを追う。だが今度は革靴がボールを踏んで止める。


 「あ、ありがとう《フヴァーラ》……おねえちゃん《セストゥラ》」


 イヴァンが目の前の、スーツケースを手にした修道服のシスターに礼を言う。


 「ごめんね、あたしクロアチア語はわからないの。でもお礼はいいわよ」


 きっと松葉杖の男の背中を睨む。


 「ちょっとあんた! いくらなんでもひどいじゃない!」


 英語が通じたかどうかはわからないが、返礼の代わりにミロシェヴィチは地面に唾を吐き、その場を立ち去った。


 「なによあいつ! と、ボール返すわね」


 踏んでいたボールを爪先で弾くようにして上に飛ばし、足の甲でぽん、ぽんとリフティング。そして最後にくるりとボールを中心にして弧を描くとイヴァンへとパスした。

 「またね♡」とウィンクすると、スーツケースを転がして路地の奥へと進む。

 後に残された少年たちはあんぐりと口を開けるだけだ。


 「すげぇ……まるでボバンだ」


 †††


 聖マルコ教会。

 ネオゴシック様式のその教会は屋根がカラータイルで覆われ、向かって左側がクロアチア・スラヴォニア・ダルマチア王国の紋章が、右側にはザグレブの紋章が象られている。

 教会の木造の扉をフランチェスカがごんごんと叩く。

 やがて扉が開かれ、中から年配の修道士が出てきた。


 「トコ シ ティ?(どなたですか?)」

 「あー……あたしクロアチア語は話せないの。英語かドイツ語とかわかります? イタリア語でもいいんですけど……」

 「モグ ゴヴォリチ サモ フルヴァツキ(私はクロアチア語しか話せません)」


 このままでは埒が空かない。「ちょっとまっててね」とポケットからスマホを取り出す。タッチして操作するとスマホに向かって話しかける。


 『私はフランチェスカです。スペインから来ました』


 英語からクロアチア語へ翻訳された言葉で修道士が目を見開く。


 『私の言っていることがわかりますか?』の問いにこくこくとうなずく。


 『ここにシスターアデリナはいますか? 彼女は私の友だちです』

 「シスターアデリナ! 彼女ならよく存じております!」


 修道士の顔がぱっと明るくなった。だが、次の瞬間には残念そうな表情を浮かべる。


 「残念ながら、彼女はいまここにはおりません」


 スマホの画面に翻訳された文章が表示されていく。


 『彼女はどこにいるのですか?』


 修道士からの答えは翻訳の必要はなかった。そこは世界でも美しい街のひとつに数えられる場所だからだ。


 「ドゥブロヴニクです」




③に続く。

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