第38話 A Spanish in Paris ~パリのスペイン人~④
翌朝の9時前――
パリの1区にあるルーヴル美術館への入り口のひとつである、メインエントランスにあるガラス張りのピラミッドの前には観光客が長蛇の列よろしく並んでいた。
開場時間は9時からだが、名画や他に類を見ない数多くの美術品を一刻も早く目にしたいと朝早くから並んでいるのだ。そしてその列の中にはあの見習いシスター、フランチェスカもいた。
この日の彼女は修道服でなく私服だ。昨日セットしてもらった奇抜な髪型はなんとか元の髪型に戻してある。
「お待たせしました。まもなく開場いたします。手荷物検査がありますので、バッグなどを開けてください」
近年のテロ事情によって導入された検査を済ませ、そのままエスカレーターでピラミッドの下へと降りていく。
角を曲がり、通路を歩くと横にこれまたガラス張りの逆さピラミッドが見えてきた。そのピラミッドの下には小さな石のピラミッドがちょこんと鎮座するかのように位置している。
噂によればそれはフリーメーソンのシンボルらしいのだとか。
通路を直進すると美術館のちょうど中心に位置するナポレオンホールに出た。
現在地を中心にして左側がリシュリュー翼、正面がシュリー翼、そして右側がドノン翼。
案内所で手に入れたパンフを広げる。
「まずはドノン翼から見てまわるのがよさそうね」
ホールの右側へと出、階段に向かう途中でミロのヴィーナス像が。
ミロス島で発見された半裸の像は両腕を失っていてもその美は色あせていない。階段を上って二階へ出る。
パンフを開いて二階の地図を見ると、お目当ての絵画があるのはアポロンギャラリーと呼ばれる場所だ。
高い天井のフレスコ画が観光客を見下ろすなか、フランチェスカはアポロンギャラリーへと。
深紅に彩られた壁には金の額縁に納められた名だたる名画が。そして通路の中心にはロードス島で発見されたサモトラケのニケの女神像。
ちなみに女神の履いているサンダルは世界的なシューズブランドの名前の由来にもなっている。
壁沿いに歩くとラファエロ作の『聖母子と幼き洗礼者聖ヨハネ』の聖母子像の傑作を眺めていき、角を曲がると目当ての名画――『モナ・リザ』だ。
晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチが描いた、防弾ガラスで防護された肖像画の前には世界中から集まった観光客が謎と言われる
「こちらの絵はダ・ヴィンチの名作として知られていますが、いつどこで描かれたものか、モデルは誰なのかははっきりとわかっていません」
添乗員らしき女性が英語で団体客に説明をしているのが聞こえた。
「また、ダ・ヴィンチは自身の絵に象徴や暗号をさりげなく取り入れるのが特徴のひとつです。このモナ・リザにも暗号が隠されています」
ほぉおと観光客から嘆息。
「瞳の中にアルファベットのLVが描かれていることが最新の研究で明らかになりました。このLVはダ・ヴィンチの頭文字ではないかと言われています」
へぇ……! まるで映画みたいね。
前方にいた見学者が鑑賞を終えたのか、はけてきたので前に移動する。『モナ・リザ』は縱77㎝×横53㎝と意外と小さな肖像画だ。
だが、その微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見える表情はある一種の神秘性があった。母性とも呼ぶべき表情がそこにはある。
「この絵のモデルはリザ・ジェラルディーニともダ・ヴィンチのパトロンであったジュリアーノ・デ・メディチの愛人とも言われています。変わった説としてはダ・ヴィンチ自身を女体化して描いたとか」
見習いシスターが隣で添乗員の説明を聞く。そしてあらためて肖像画を見上げる。
もしかしたら、ダ・ヴィンチのお母さんだったりして……。
ふとスペインにいる母親を思い出し、じわりと目頭が熱くなった。
ママ、どうしてるかな……? もうずっと会ってないもんね……。
ごしっと目を擦ってモナ・リザから離れる。ふと右側の壁を見るとそこにはドラクロワの『民衆を導く自由の女神』が架かっていた。
†††
「ふぅ……」
ひと通り見てまわってから入ったカフェでオレンジジュースを飲んでひと息つく。
「さすがルーヴルね。30万点以上もあるんじゃとても一日じゃ回れないわ」
ここはルーヴル美術館の地下にあるカルーセル・ド・ルーヴルのフードコートである。
そのカフェにて案内パンフを見ながらパスタをぱくりと口に運んで柔らかい食感のパスタをもむもむと咀嚼。
「んー……やっぱパスタはアルデンテに限るわね」
ウェイターを呼んで会計を済ませ、階段を上がって元は宮殿だった美術館を出る。
見上げると空は
ルーヴル美術館を離れ、左側に
傘はおろかバッグには折り畳み傘もない。
「もぅ! 最悪!」
小走りで屋根のあるところまで避難し、そこでハンカチを取り出して拭く。
ふと見上げるとアーチ型の入り口の上部にかけられたプレートが見えた。
『GALERIE VIVIENNE』
奥のほうを覗いてみると、そこはアーケードになっていた。気になって進むと古書店やアンティークショップが並び、レトロな雰囲気に包まれている。
パッサージュと呼ばれる19世紀後半に建てられたままとなっているそのアーケードを歩くと、天井のガラス屋根にぴちょんぴちょんと当たる雨音が不思議と心地良い。
やがて角にあるポストカードの店のところまできた。店先にはエッフェル塔、凱旋門、ベルサイユ宮殿などといった観光名所のモノクロのポストカードが並んでいる。
ふと気になった一枚を手に取る。昔のポスターのようだ。
「おや、それが気になるかね?」
店主らしき眼鏡をかけた初老の男がのそりと緩慢とした動作で出てきた。
「あ、はい。これ、ポスターですか?」
すると店主が気をよくしたのか、にっこりと微笑む。
「お目が高い。それは19世紀末にロートレックという画家が描いたポスターさ。これはティオ・ぺぺというシェリー酒の広告だね」
「ロートレックって……なんか聞いたことある」
「ムーランルージュを知ってるかい? 彼はあそこのクラブの常連で、そこのポスターを描いてたんだ」
こっちに来なさいと手招きしたので奥に入る。天井のランプの淡い光が棚を照らす。棚には使い込まれた皮の背表紙、小さな額縁に収まった古い切手などが並ぶ。
店主が棚から大判の本を取り出す。ぺらぺらとページをめくり、ぴたりと止まる。
「これを見なさい」
そう言って見せたのはロートレックの写真だ。背が低く、まるでシルクハットを被った子どものようだ。
「彼は背が低かったのね」
「というより病気で身長が伸びなかったんだ。足の成長が子どものまま止まってしまってね」
ぺらりと次のページ。賑やかなクラブの絵だ。当時の熱気がそのままこちらまで伝わってくるようだ。
「ムーランルージュね」
「そのとおり。ここに赤い風車があるだろ? それが
へぇと感心していると今度は壁にかかったものが目に留まった。ブリキ板のようだ。
「あれは?」
指さしたのは酒瓶の周りを妖精が飛んでいる絵だ。
「あれはアブサンという酒の広告板さ」
「アブサンってあの幻覚を見るやつでしょ?」
「昔は質の悪い酒がかなり出回っててね……当時、貧乏な芸術家たちはその安酒で身を滅ぼしたもんさ。質の悪いアブサンは覚せい剤のようなもんなんだ」
「それで幻覚を見たのね」
うんと店主が頷く。それで肉の乗った頬がぷるんと垂れた。
「でも中にはインスピレーションを得るために呑む芸術家もいてね。有名なのはあのゴッホもいたな」
「芸術家って短命よね……」
「『生命は短く、芸術は長し』さ。それで欲しいものはあったかな?」
「あ、じゃあこのポストカードを」
代金を支払って紙袋に入れられた商品を受け取る。
「毎度。誰かに手紙でも書くのかね? 手紙はいいもんだ。近頃はメールで済ませる人が多いがね」
良き昔を思い出してふるふると首を振る。それでまた頬がぷるんと揺れた。
†††
アーケードを出て、タクシーを拾ってホテルへと戻ったフランチェスカは部屋へと入るなり、ベッドにぼすんと倒れ込む。
「あー疲れた!」はふぅと溜息をひとつ。
ごろりと横になってポーチから紙袋を取り出す。裏がエッフェル塔のモノクロ写真のポストカードのものだ。
ふと思いついてベッドから起き上がると書き物机へ。次いで引き出しからペンを取り出す。
『
その後になんて書こうとしばし窓の外に目をやる。相変わらず雨はまだ降り続いていた。
少ししてから自分がいまパリにいること、日本での暮らし、教会の務めなどを書き出す。
それでもまだ余白があった。やや考えてから書き始める。
『――あたしね、日本で新しい友だちが出来たの。ふたりいてね、ひとりは男の子のアンジローで、年はあたしと同じくらい。で、もうひとりは神社で巫女さんやってるまいまいって女の子なの。
前に手紙で書いたすみちゃんのこと覚えてる? 彼女が亡くなってからは寂しい日が続いていたけど、今はふたりがいるから楽しいの。
だから心配しないで。愛してるわ、ママ』
最後にスペインの自宅の住所を書くとペンを置いてふぅっとひと息つく。
ふたたび窓を見ると、あたりはすでに暗くなっていた。
椅子から立ち上がってシャワーを浴びるために風呂場へ。
二十分後、バスローブを羽織った見習いシスターは新しい下着を身に付け、その上に服を着ると部屋を出て階段を降りていく。夕食の時間なのでロビーにあるレストランへ向かうつもりだった。
ロビーに着くとまずフロントへ向かった。
「この手紙出してくれる?」
「かしこまりました」
郵送料とチップを渡して、レストランのドアを開ける。すぐにウェイターが案内してくれた。
受け取ったメニューを開く。鴨のコンフィがあったのでそれを食べることにした。
メニューを返すと、思い出したようにウェイターに聞く。
「ね、アブサンはある?」
「ございますが?」
「じゃ、それを
「かしこまりました」
程なくしてウェイターがトレーを手にして戻ってきた。
「どうぞ、アブサンです」
出されたのは緑色の液体が入ったショットグラスだ。
興味津々で手に取って匂いを嗅いでみると、つんとした強烈な匂いが鼻腔を刺激する。
物は試しとグラスを傾けると、そのなんとも言えない未知の味に見習いシスターが顔をしかめる。
「
次話に続く。
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