第37話 マイ・フェア・シスター
イギリス ロンドン――
テムズ川沿いのサウスバンクセンター内のロイヤルフェスティバルホールでは指揮者の指揮の下、ローブに身を包んだ学生たちのゴスペルが高く響き渡っていた。
ピアノの荘重な伴奏に乗せて混声はクライマックスへと向かい、指揮者が伸ばした右手をくるりと回すと余韻を残して音色は
指揮者が観客席のほうへ向きなおり、一礼を。次に割れんばかりの拍手がホールを包んだ。
「素晴らしい! さすがは常勝のブリストル校だ!」
「この調子なら今回の大会もブリストル校の優勝で決まりですな。オコンネル先生」
「いやいや、イーストン校もよく頑張っていましたから、まだ分かりませんぞ。ええと、次の学校は……」
パンフレットを取り出して審査員の一人であるオコンネルは老眼鏡をかけながら確認する。
「ウッドラム校? 聞いたことありませんな」
「ウッドラム校といえば、あの問題児が集まるところで有名な学校ですぞ。しかも十数年ぶりの参加ときています」とこれまた審査員のギデオンが説明する。
「問題児? それではウッドラムではなく
英国風のジョークでふたりがはははと笑う。パンフレットにふたたび目を戻す。
「指揮者はフランチェスカ……シャビエル? いやハビエルか?」
「ザビエルです。フランチェスカ・ザビエルですわ」
そう訂正したのは最後の審査員の女性であった。
「彼女は私の神学校の同期が務めている教会にいる見習いシスターです。私が頼み込んだのです」
聞けば、荒れ果てたウッドラム校の生徒たちに意欲を持たせるためにコンクールに参加させることを企画したそうな。
そして白羽の矢が立てられたのが、フランシスコ・ザビエルを先祖に持つ見習いシスターだったというわけだ。
「彼女たちは必死に練習してきました。きっとやり遂げてくれると信じております」
「ミスウェザビー。そうは言いますが、その、フランチェスカ女史は見習いシスターなのでしょう? そんな彼女にブリストル校をしのぐような力があるとは思えませんが……」
オコンネルが先を続けようとした時、ウェザビーがしっと唇に細い指を当てる。
「まもなく開演ですわ」
彼女の言うとおり照明が消され、舞台の手前にスポットライトが当たるとそこには修道服に身を包んだ少女がヴェールから腰まで伸びた金髪をなびかせながら中央へと歩く。
中央まで来ると観客席に一礼。そして振り返ってピアニストへ目配せを。
だが、舞台上には誰もいない。まったくの無人だ。
「どういうことだ? 聖歌隊がいないとは」
「問題児だから尻尾を巻いて逃げたのでは?」
「そんなはずはありませんわ」
そう言うウェザビーは慌てるふたりの審査員とは対照的に落ち着き払っていた。
信じていますわよ。シスターフランチェスカ……。
指揮者の見習いシスターが腕を振り下ろすのと同時に前奏曲が奏でられる。
だがそれは荘重な調べではない。ポップのそれだ。軽快なリズムに乗って舞台袖からワイシャツに黒のズボンをサスペンダーで留め、頭にシルクハットを被った、およそ聖歌隊とは言えない出で立ちの男女たちが現れた。
腕と腕を組みながら舞台の中央まで進み、全員揃うとシルクハットを取って一礼。
次に帽子を胸に当て、同時に首を右に向ける様はまるで訓練された兵士のようだ。
フランチェスカの腕を振りながらの指揮でパントマイムを演じたあとはリズミカルに足を踏みならす。
♪さあ讃えよう! 偉大な神を讃えよ!
力強いアルトと高く響くソプラノが合わさってホール中に響く。
♪生きることを恐れるな。生きていることは素晴らしいことだから
見習いシスターが激しく腕を振ってそれに伴ってテンポを上げていく。彼女がぴょんと跳ぶと聖歌隊も後に続いて跳ぶ。
♪主は我らとともにある。主こそ我らが命!
左端の男性がシルクハットを脱ぐと次々とウェーブのように脱いでいく。右端の女性までくると次は反対にシルクハットを被っていく。
フランチェスカが両腕を高く掲げる。いよいよクライマックスだ。
♪生きることを恐れるな
徐々に低音から高声へと。それにともなってフランチェスカも腕を天へと伸ばす。
♪生きていることは素晴らしいことだから!
余韻を響かせ、指揮者が両手をくるりと円を描くように回す。
そして観客席に向かって一礼。少しの間があったが、やがて割れんばかりの拍手が巻き起こった。
「エクセレント!」
「ブリリアント!」
「ファンタスティック!」
そこかしこから惜しみない拍手と賛美が贈られ、ふたりの審査員も拍手を贈るなか、シスターウェザビーは涙を流していた。
†††
「みんなお疲れ! よくやったわよ!」
舞台袖の奥の楽屋でフランチェスカが全員に労いの言葉をかける。
「アマンダ、やれば出来るじゃない」
「ありがとう……あんなに声が出るなんて」
「だから言ったでしょ? あんたには才能あるんだから」とウインク。
「シスター! 大成功だったな!
黒人のマイキーがスラングで喜びを表す。
「マイキー、あんたのシアタータップのアイデア良かったわよ。ふつうの人にあんな組み合わせ思いつかないわ」とハイタッチ。
そこへスタッフが入ってきて結果発表の時間ですと知らせてきた。
「OK。みんな行くわよ」
†††
「栄えあるこのコンクールも50回目を迎え、各校ともに実に素晴らしい歌声を披露してくれました。ついにその結果を発表するときが来ました」
舞台上でオコンネルが封筒に入った紙を取り出す。
「まずは優秀賞です。優秀賞は――」
観客席では観客だけでなく、各校の聖歌隊も固唾を飲んで見守る。
「イーストン校!」
名前を告げられた学生たちが席を立って喜ぶ。
オコンネルが静かにするよう言い、次の発表に移る。
「続きまして、最優秀賞の発表です」
別の封筒から結果の書かれた紙を取り出す。
「最優秀賞は――ブリストル校!」
ふたたび観客席から歓声が。常勝のブリストル校の聖歌隊が喜びを露わにする。
かたやウッドラム校では全員が落胆していた。そこをフランチェスカが慰める。
「これで優秀賞と最優秀賞の発表を終わりますが、最後に審査員特別賞を発表します。栄えある特別賞は――」
オコンネルが観客席を見回す。まだ選ばれていない学校の聖歌隊は手を組んで祈る。
「ウッドラム校です!」
自分たちの学校名が告げられたことに気付くのにほんの少しの時間を要した。だが次の瞬間には全員が喜びを露わにした。
ある者は手を取り合い、ある者は抱きしめ合う。
「みんなやったわね!」
周囲から惜しみない拍手が贈られ、フランチェスカを中心にしてウッドラム校の生徒たちが「フランチェスカ! フランチェスカ!」と指揮者の名前を連呼する。
そのなかで彼女に救いを求めたシスターウェザビーは静かに手を組んで礼を述べる。
ありがとう……シスターフランチェスカ。
「みんな、帽子を上に!」
マイキーの提案でシルクハットがホールの天井めがけて高く放り投げられた。
†††
「はい。おかげで審査員特別賞に選ばれました。マザー」
「そうですかご苦労さまでした。あなたならきっとやってくれると信じていましたよ。シスターフランチェスカ」
「いえ、お礼は結構です。それより約束の件なのですが……」
「約束の件? 何のことでしょう?」
「ですから、ウッドラム校が結果を残したら休暇をくれるって……」
「ああ! そういえばそうでしたわね。年を取ると物忘れがひどくなっていけませんわ」
よく言うわよ……。
ロンドン市内のパブにてコンクールから帰ったフランチェスカはひとりカウンターでこぼす。
「いいでしょう。十日間の休暇を与えます」
「ホントですか!?」
マザーからそう言われ、ぱあっと明るくなる。まさか十日間も休めるとは思わなかったのだ。
「私だって鬼ではありませんよ? シスターフランチェスカ。ちゃんと休んだらすぐ日本に帰ってくるのですよ」
「はい! ありがとうございます! マザー」
よろしいを最後に通話が切れる。スマホをしまうとちょうど夕食のフィッシュ&チップスが出てきた。
「これは俺のおごりだ」とマスターからビールが出された。
「ホントに!?」
「ああ。俺はウッドラム校の卒業生なんだ。あんたには感謝してるよ」
上面発酵による琥珀色のエールを喉に流し込む。
「っはー! やっぱ本場のエールは違うわね! 18歳になってよかったわ!」
口についた泡を手で拭い、かりかりに焼けた白身魚の衣にフォークを刺して口に運ぶ。
「うん。まずくはないわね」
「ビネガーをかけ足りねぇんだ。このフィッシュアンドチップスはここの名物だからな。それとタルタルソースにつけて食うのが伝統的なスタイルだ」
言われたとおりビネガーをかけ、タルタルソースにつけて食べる。
「美味しい!」
「だろ? うちのはロンドンいちじゃなくてイングランドいちだ」
「確かにね。ここにいる間で食えたのはこれとスコーンぐらいなものよ」
「ちげぇねぇ」
マスターががははと笑いながら奥に引っ込む。
ふたたびエールを喉に流し込んでチップスをぱくりと。
どこ行こっかな……?
十日間といえば長いようであっという間だ。行き先を頭の中であれこれと考える。ひとつの国に絞るか、それともあちこち回るか?
いずれにしてもスタート地点は肝心だ。
そろそろ美味しいご飯食べたいのよね……。
そうだ! とスマホを取り出す。何度かタッチして通話を押す。
三度目の呼び出し音で相手が出た。
「はい。こちらはヒースロー国際空港の窓口です」
「明日の午前中に飛行機に乗れます? 行き先は――」
行き先を告げられたオペレーターが端末を手際良く操作する。
「お待たせしました。9:45の便なら空いておりますわ」
「じゃ、それでお願い」
パスポート番号と氏名を告げる。
「手配完了です。明日カウンターでお待ちしております」
「どうもありがとう」
「どういたしまして。また何かあればお呼びください」
通話を終えるとスマホをしまう。
さぁ楽しいバカンスの始まりよ!
意気揚々とエールのグラスを傾ける。
次話に続く。
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