第三話

第四十一節 混乱した信念を取り除く

「……荒れてるわねぇ」


 ヴァーナヘイムに唯一存在する地下にあるバー。その日の仕事を終えてそこに飲みに来たシャサールは、先客の様子を見て思わずぼやく。カウンターでは彼女が見知った人物であるヴァダースが一人、酒──と言っても彼はまだ未成年なのでノンアルコールだが──を煽っていた。まだ飲み慣れてなんかいないくせに、なんて感想は心の中にしまい込んだ彼女は、彼の隣に座る。

 ヴァダースも、自分の隣にシャサールが座ったことを確認できたのだろう。一言、憎たらし気に返す。


「荒れてなどいません」

「はいはいそうですか。マスター、いつものお願い」


 店員に注文を頼んでから、シャサールは慣れた手つきで葉巻に火をつける。静寂が包む空間の中で、店員がカクテルを作る音だけが響く。


「それで?カーサの最高幹部様がこんなところで一人酒なんて、いったいどういうことかしら?」

「別に、どうもこうもありませんよ……」

「嘘おっしゃい。他の戦闘員やメルダーは気付いてないんでしょうけど、アタシの目は誤魔化せないわよ。最近のアンタ、まるで自分が立ってないもの」

「っ……」

「いったい何年の付き合いだと思ってんのよ。アタシを出し抜こうだなんて、少なくとも三十年は早いわ」


 やれやれ、といった様子で息を吐くシャサールに観念する。確かに今のカーサで、ヴァダースの変化に気付ける人物は彼女以外には存在しない。言い換えれば、今のこの状況で彼女以外に相談相手になりそうな人物は、いないということ。

 その事実を認めてから、ヴァダースはゆっくりと重い口を開く。


「……シャサール。貴女……私に言いましたよね。嫉妬の感情を抱くのは初めてだろうから、正確に理解してなおかつ楽しんでみろって」

「言ったわね」

「貴女に言われてから、自分なりに考えて日々を過ごすようになりました。ええ、そうです……。私は彼のことが嫌いで、憎くて、妬ましいとすら思った。なぜこんな人物が己と同じ最高幹部なんだと、何度も自問自答してきました」

「そう……。自問自答してみて、答えは出た?」


 彼女の言葉に、ヴァダースは力なく首を横に振る。それから額に手を当て、心情を吐露していく。


「わかりません……。それどころか、最近その問いかけの意味すら見えなくなってしまった。自分にはない彼の才能に嫉妬して、それに胡坐をかいているんだと勝手に考えて。勝手に嫌いになっていた……。そんな私に、それでも彼は笑って……」

「……あの子、ずっと言ってるもの。ダクターさんと仲良くなりたいって」


 シャサールが注文した酒が、彼女の前に出される。ヴァダースが煽っていたグラスの中身は空で、ひび割れた氷だけが虚しくカランと鳴る。

 ヴァダースは言葉を止められず、シャサールに次から次へと語っていく。


「闇オークションの任務の時も、彼は己が怪我を負うことなんて顧みずに、私を助けてくれた。嫌っているのだと態度に表していても、関係ないと言いたげに勝手に踏み込んできて、かき乱して……!」

「……」

「それにボスが彼の能力をカーサの戦力とするために、彼に人体実験まがいなことをしてもらうと言った時。私は初めてボスに抗議したんです。そんな、世界保護施設がやりそうなことをして、何になるって」

「らしいわね。ダクターさんが自分のために怒ってくれたって、嬉しそうにアタシに話してきたわ」

「結局、ボスには逆らえませんでしたが……。私はそんなことを彼に強いてまで、新たな戦力が欲しいだなんて思っていないと、後から気付かされました。自覚してからはもう、わからないんです。煩わしいとしか思っていなかった彼の笑顔が、今は素直に受け流せない……」


 お手上げなのだ、ヴァダースは深く肺に溜まった濁りを吐き出すかのように息を吐く。ヴァダース自身が一番、己の心情の変化に混乱しているのだ。

 嫌っているはずなら、彼が傷付こうが人体実験をされようが、どうとも思わないと考えていたはずなのに。あんなに毛嫌いしていたはずなのに、どうして。実際のところその非人道的な言動に憤りを感じ、反発してしまった。

 そのことでメルダーからは自分のために怒ってくれたと、感謝の言葉をかけられたが。何故あの時釈然とした態度で、彼のためではないと言えなかったのだろう。


 シャサールはそんな憔悴しきったヴァダースを一瞥して、彼に質問を投げた。


「……じゃあ、質問ね。今は、メルダーのことが嫌い?」

「そんなの、わかりませんよ……」

「なら少し言い方を変えるわ。カーサの戦力として、メルダーを認めている?」

「……まぁ、それなりの働きをしてくれていることは……確かですから……」

「じゃあ、そのメルダーがカーサの戦力のためとはいえ、犠牲になるのは嫌?」

「っ……」

「素直に答えて」


 シャサールの鋭い指摘に息を呑む。やや時間を要してから、降参だと言わんばかりに弱弱しくヴァダースは告白した。


「……嫌、ですね……。正直、考えたくもありません……」

「……そうね。アタシも嫌よ。でもね、嫌って考えられるってことはそれだけ、あの子がいるカーサに慣れてしまったってことでもあるのよ」


 たとえ無意識であってもね、彼女は付け加えた。慣れてしまったということは、知らずの内にメルダーを許容していることと同意義なのだと、シャサールは説明する。


「きっかけは嫌いであっても、アンタはいつの間にかあの子のことを許そうとしていたのよ。でも今まで抱いていた感情も嘘じゃないって覚えていられるほどに、アンタは頭もいいから。心境の変化を自覚して、ワケわからなくなっちゃったのね」


 ふふ、とどこか楽しそうに、安心しているように笑い酒を煽るシャサール。彼女の指摘に即座に違うと言い返せないのは、ヴァダース自身も薄々その事実に気付いていたからだ。認めたくない、しかし認めざるを得ない。自分が、メルダーをカーサの仲間だと考えている事実を。


「アンタってば、他人に対しては器用なくせに自分の感情となると本当に不器用になるんだから。でもまぁ、それもアンタらしいけどね。それに今のアンタを見てると、昔のアンタに戻ったようで少し懐かしいわ」

「昔の私……?」

「アタシらに吹っ飛ばされた時や、カーサに入りたての時のことよ。手負いの獣って感じかしら」

「……馬鹿にしているでしょう」

「してないわよ。でもそうね……少なくとも少し前の、化け物染みようとしていた頃より断然マシ。すごく人間臭くていいじゃない」

「他人事だと思って……」

「他人事ですもの」


 どこ吹く風、と言わんばかりに酒を楽しむシャサールを横目に、ヴァダースも店主に酒を注文する。良くも悪くも、メルダーがカーサに入ってからヴァダースは変わったと彼女が指摘する。


「どこまで冷徹になろうとしても、アンタは心の奥底では他人を思いやれる、どうしようもなく優しい人間なのよ。でもアンタは演技が上手いし、それを他人に気取られない方法も知ってる」


 どこか懐古に目を細め、空になった己のグラスのふちを指でなぞりながら、シャサールはヴァダースに語り掛ける。


「悪いって言ってるんじゃないの。でも少しは、自分の気持ちに素直になることを覚えなさい。感情を整理するってことも大事なのよ?」

「私は……」

「焦らなくてもいいのよ。まずは自分で、メルダーに対する感情を整理してみなさいな。そうすればきっと、自分の本心ってやつが見えてくるはずだから」

「……見える、ものなのでしょうか……?」

「見えるわ、絶対。アタシにも経験があるから」


 さらっと、まるでそんなの当たり前だと言わんばかりな態度で新しい酒を注文したシャサールに、探るような視線を送る。彼の視線に気付いた彼女は人の悪い笑みを浮かべる。


「女のヒミツを詮索するのは無粋よ、元お坊ちゃん?」

「別にそういうつもりでは……。それに、その呼び方もやめてください」

「これくらい許しなさいよ。せっかく相談に乗ってあげてるんだから」

「まったく……相変わらず可愛げがないですね」

「アンタにだけは言われたくないわね」


 注文した酒が目の前に出されて、ヴァダースはグラスに口をつける。頼んだのはノンアルコールのモヒート。ライムとミントの刺激が強い風味だが、ほんのりと甘さが口の中に広がっていく。シャサールも頼んでいたカクテルを提供されたようで、楽しそうに酒を嗜んでいる。


「一つ、面白いことを教えてあげる。人間ってね、嫉妬が過ぎると別の感情が湧き上がってくるものなのよ。それがどういう感情か、アンタわかる?」

「藪から棒に何ですか。それに、私がそんなことを知るはずがないでしょう。……嫉妬っていう感情を、私は今まで理解できていなかったのですから」


 ばつが悪そうに顔を背けて呟けば、小さく笑ったシャサールの声が耳に届く。それもそうだったわね、なんて言われたら少々癇に障るというもの。


「からかっているんですか?」

「そう怒らないでよ、ちゃんと教えるから」


 すくすく、この状況を楽しんでいるシャサールは、しかしはっきりとその言葉を口にした。


「嫉妬ってね、そりゃあ最初こそは嫌な感情だし耐えられなくなるくらい苦しいこともあるけど……。嫉妬が転じて、その人のことを好きだって思うこともあるの」


 つまり、その人物に恋心を抱いていることになるのよ。

 シャサールのその言葉は、ヴァダースの常識を粉砕するには十分すぎるほどの威力を持った言葉だった。

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