第二十七節 急速に変化する日常

 それからのヴァダースの日常は、大きく変化した。ヴァダースの執務室内部に、新たにメルダー用のデスクが置かれ、一人だった執務室は二人の執務室に。その当の本人は基本的に潜入調査などの現場指揮官の最高幹部ではあるが、最初はデスクワークのノウハウを身に着けてもらう必要がある、らしい。これはローゲから直接説明を受けたことだ。そしてこともあろうに彼はその指導を、ヴァダースに命じたのだ。


 これにはヴァダースは頭を抱えた。そもそもヴァダースは、このメルダーという人物を心から認めてはいない。確かに実力は己とほぼ互角なのだろうが、ヴァダース自身は己の努力を積み重ね、今の最高幹部という立場を手にした。それを横からかすめ取られてしまうような感覚を覚え、どうにも納得することができずにいたのだ。


 体の内をぐるぐると怒りが渦巻いている。そんなヴァダースの心情はいざ知らず、仕事の日々は待ってはくれない。何枚目かの調査報告書に目を通し、必要事項を記入していると、背後で資料をまとめていたメルダーから声をかけられる。


「あの、ダクターさん。この資料ってここにまとめておけばいいんでしたよね?」

「それを聞くのは何回目ですか?30分ほど前にそうだと答えましたよね?」

「あっ……そ、そうでした!すみません、物覚えが悪くて」

「同じことを何度も聞かないでくれませんか。そのたびに私の仕事も止まるんです」

「すみません。以後、気を付けます……」

「それを聞くのも、もう10回目ですがね」

「す、すみません……」


 このやりとりを、いったい一日に何十回繰り返しているのだろうか。あまりにも多すぎて途中から数えることを放棄したくらいだ。メルダーが最高幹部に就任してからというものの、ヴァダースのそれまでの日常から"平穏"の二文字は消え去った。毎日メルダーによって何かしらのミスが起きて、その都度共にそれを修正する。そんな慌ただしい時間を過ごすことになっていた。

 それだけならまだいいだろう。しかし彼の起こしたミスを修正するたびに強制的に手を止められ、その分己の仕事も溜まってしまっていくことに、ヴァダースは苛立ちを禁じえなかった。何度羽ペンのペン先を折りそうになったことか。


 そんな慌ただしい日常の中で、今日は久々に一人で執務室で仕事をしていた。何日ぶりかの平穏に、ヴァダースは安心感すら覚えたほど。いつになく仕事が順調に進む中、執務室を訪問する人物が一人。ドアをノックされ短く返事をすれば、そこにはシャサールが立っていた。手に報告書を持っているあたり、それを提出にでも来たのだろう。勝手知ったる場所だと言わんばかりにシャサールは部屋に入り、ヴァダースのデスクの前まで来る。


「はいこれ、先日の調査報告書のまとめね」

「ありがとうございます。そこに置いててください、あとで確認しますので」


 そう指示を出し、いつもなら報告書をデスクに置いてその場を去るシャサールなのだが。今日はどうやら様子がおかしいのか、一向に報告書を置くそぶりを見せない。不審に思い、手を止めてから見上げればどこか不満そうな彼女の表情が視界に入る。


「……なにか?」

「ヴァダース、アンタ今晩ちょっと付き合いなさい」

「はい?」

「その様子じゃ、今日は残業はないみたいでしょうし。とにかく、今晩仕事が終わったら街の地下バーに来なさいよ。わかったわね」


 言うだけ言って満足したのか、ヴァダースの返事を聞く前にシャサールは報告書を指定の場所に置くと、足早に執務室を後にした。残されたヴァダースは思わずため息をつき、報告書に目を通す。

 彼女の言った通り、今日はあともう少しで仕事を終われる。そのあとも特段用事もない。しかし突然の提案に少々面食らったことは事実だ。確かにシャサールはヴァダースにとって、一番気心を許せる仲であり同僚だ。今は各々最高幹部と四天王という立場になり、昔ほどの交流もなくなってしまったが。

 そんな彼女の理解できない行動の理由を考えながらも、ヴァダースは残りの仕事を片付けていくのであった。


 ******


 この惑星カウニスの北側、ヴェストリ地方。太陽の光がほとんど当たらず、鬱蒼とした山々が多く点在している大陸は山岳地帯とも呼ばれている。山や渓谷に囲まれ、侵入者を寄せ付けないそこは、カーサが活動のための拠点を設置するにあたって理想的な場所でもあった。

 カーサの本部がある場所は、大きく分けて二つある。一つは各大陸へとすぐに出立できるように作られた、黒い塔。これはヴェストリ地方の玄関口であるアルヴという町から少し離れた、荒廃の街ボースハイトに存在している。この塔は基本的に任務を請け負った戦闘員の、仮の居住区のようなもの。会議室や執務室も存在するにはしているが、ヴァダースはほとんど使用したことがない。そも、行く理由がない。


 そしてもう一つはカーサの総本山である本部アジト。これは大陸の奥側に存在するヴァーナヘイムという都市に設立されている。このヴァーナヘイムは事実上、カーサが支配する都市だ。そこに住むわずかばかりの住人はカーサの支配のもと、生かされている。そして彼らは、カーサの支配を受け入れている。

 支配から脱走しない理由は簡単。何故なら脱走しようにも、都市は凶悪な魔物が棲みつく通称"黒い森"と、険しい山岳に囲まれている。とてもではないが、力のない者が生きて大陸の外まで辿り着くことはできない。命知らずな愚か者ならいざ知らず、力のない人間は支配を甘んじて受け入れるほか、選択肢がないのだ。


 そんな街に唯一存在する、地下にあるバー。もちろん地上にも飲み屋をはじめ、飲食店も存在する。しかしこの地下のバーはそれらと違い落ち着いた雰囲気であり、邪魔が入らない環境で会話をするにはうってつけの場所なのだ──と、シャサールがのちに語った。


 仕事を終え、一応は着替えてから指定された場所へ赴けば、一足先にシャサールが一人で酒を楽しんでいた。カウンター席に座っていた彼女はヴァダースを視界に捉えると、小さく手招きをする。ヴァダースはまだ15歳だが、大人染みた雰囲気が功を奏したのか、特にお咎めもないままに店内に入ることができた。

 シャサールの隣に座り、彼女から話を聞こうとする。


「それで、いったい何の用ですか?こんなところまでわざわざ呼び出して」

「アンタ……ちょっとは風情ってものを感じたらどうなの?」

「生憎とこういった場に慣れていないのでね」

「相変わらず生意気。ノンアルコール出してもらうから、何か飲みなさいよ」

「そう仰いましても」

「まったく仕方ないわね……。マスター、この子にバージンブリーズお願い。アタシはアキダクトを」


 シャサールの注文を受けたバーのマスターらしき男が、それぞれカクテルを作る。

 ヴァダースに差し出されたグラスには、クランベリーの色をしたノンアルコールカクテルが。シャサールのグラスには淡い黄色のカクテルが注がれていた。グラスを傾けあうだけの乾杯をしてから、一口飲んでみる。


 アルコールの味はまだわからないヴァダースだが、このカクテルからはお酒のような味わいはないと感じた。シャサールいわくグレープフルーツとクランベリージュースを合わせただけの飲み物らしいが、爽やかな口当たりと味わいで、フルーティな香りが鼻から抜けていく。喉を通って体の中にすうっと入っていく感覚が心地よい。

 シャサールも同じように美味しそうに渡されたカクテルを一口飲んでから、重い腰を上げるように口を開く。


「……アンタ、あの子の何が気に食わないの?」

「あの子?」

「とぼけないで。アンタの同僚のことよ」


 同僚、と聞いて今日一日脳内の奥底に追いやっていた人物の顔がよぎった。一つため息をついてから答える。できることなら一日と言わず、ずっと忘れていたかったのだが。


「ああ……彼のことですか」

「随分と可愛がっているようね。あの子とこの間一緒に仕事をしたけど、アンタのこと聞いたら可哀想なくらいに怖がってたわよ」

「へぇ、そうですか」

「なんて冷たい反応だこと。何がそんなに気に食わないの?」


 その言葉に、思い返されたのはここ数日で起きた彼のミスだ。書類の記載ミスをはじめ、資料整理のミス。加えて提出された書類の山を誤って崩し、一から手作業でまとめ直した時にはさすがにエッジで切り刻んでやろうかと思ってしまったほど。ほぼ愚痴のように不満をぶつければ、そういうことじゃないと返される。


「どういうことですか」

「アンタがここまであからさまに誰かを毛嫌いするなんて、初めてのことじゃない。だから気になったのよ。何がそこまでアンタの気に障るのかなってね」

「だからそれは──」

「話は最後まで聞きなさいな。アンタ、メルダーのこと嫌いなんでしょ?けどどうして嫌いなのか、アンタ自身その理由はわかってるのかしらって言いたいのよ」


 仕事でミスを犯すからという問題ではなく、彼の人間性から嫌っているのか、そうでないのか。彼女の言葉の真意がわからず、ヴァダースは腹いせのようにノンアルコールカクテルを煽ってから尋ねた。

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