トランキライザーワールド

獄道流文吉

プロローグ

「トランキライザー。精神安定剤のことです」

 樽ジョッキのブドウ酒を一杯飲んでから、男がいった。

 薄い雲が切れたのか、太陽の光が窓からしこんだ。ふたりの男が向かい合うテーブルと板張りの室内を温かい息吹が柔らかく包みこむ。

 嗚呼ああ、小鳥が鳴いている。チチチとたわむれて歌っている。

 心地がいい。いい昼下がりだ。

「精神安定剤として機能する人間がいるんです。あるいは人間に対して、あるいは人ならざるモノに対して、あるいは世界そのものに対して効力を発揮する特効薬みたいな人間がたまーに」

 男はテーブルの上に広げられた紙をかき集めて、束の底をトントンと叩いてまとめた。

 それは彼が数年に渡り、めげずに聞き込みをつづけて完成させた記録である。多くの人々の生活、あるいは事件、想いを書き記したいわゆるひとつの村の生態。とある村娘を軸にした物語の総計だった。


「金のカニカニ像をてっぺんに!」

 外から女性の声がきこえてきた。若く、ボーイッシュで透き通った声だ。

「命令してんじゃねぇぞ、ババア!」

「誰がババアだ、テメー刺すぞ!」

 窓に寄って、外をのぞいてみる。

 ド田舎の村の風景が眼前に広がる。新緑に囲まれた大きな広場には木造民家が数件ほど建ち、木立が微風に揺られている。

 老若男女がワイワイガヤガヤと寄り集まる中央には巨大な山車だしが鎮座しており、その屋根に乗ったガラの悪そうな若者たちがピカピカと金色に光る大きなカニの像をロープで引きあげていた。大層な力仕事である。

「よっしゃー、そこだそこだ! 合体!」

「わかってらァ! いちいち喋るな、ブス!」

「あんまナマ吐いてっと容赦しねぇぞジャリどもがよー!」

 口の悪い女性と言い合いながら、汗だくの若者たちが金のカニカニ像を屋根の先端に設置した。

 トンカチでくさびを像の足元に打ち、落ちないように固定している。作業が終わると歓声と拍手が響いた。


 窓に映る視界が、上からトンと落ちてきた女性の背中に埋められた。

 彼女はふらりとよろけて、チラリとこちらを見た。少し照れ気味に、頭をかいて笑いかけてきた。うまく着地できなかったのを見られたのが恥ずかしかったのだろう。

 ディアンドルの上に赤いジャージを羽織った長い金髪のその女性。息を呑むような美人である。名をイチヨという。

 家の屋根から指示を送っていたのは彼女であり、男が「精神安定剤として機能する珍しい存在」と形容したのはこの村娘だ。集まってきた村人たちとなにかを話しながら山車のほうへ歩いていくイチヨの背中が、なにやら美しい。

 現在、この集落のなかでもっとも高い位置に君臨する金のカニカニ像が、太陽光を拡散反射させた。神の威光に照らされた人々が影になるが、上着として羽織るジャージのポケットに手を突っこみながら輪の中心に歩み進む彼女だけが、その光を正面から受けとめているようだった。

 ――寛大と哀愁が背中に燃えていた。


 まだ祭りがはじまる前の準備段階でありながら、胸が躍りそうになる。夜が待ち遠しい。高鳴る感情を抑えて、席に戻る。

 男はにこりと笑うと、紙の束から一枚を引き抜いて先頭にやった。そうしてどんどん順番を入れ替えてゆく。バラけさせてもページの順番を記憶しているらしい。

「こんな誰も知らないような辺境のド田舎……カニタマウンマイウンマイ村で最初の種がまかれたんだと思っています。芽のる種です」

 一枚の紙がスッと机の上をすべって差しだされた。

 手に取って見てみると、三年前に王都で開催された大イベントについての記述であった。

「バベルの闘技場、バベル・トーナメントの記録ですね」

「世界中から集められた十六名の猛者が火花を散らした計十五試合。この世界の運命を決定づけたといっても過言ではないでしょう」

 もう一枚が机に置かれる。

「兵団による大陸をまたぐ正義のための大戦」

「本気になった正義の圧倒的な強さを、我々は知りました」

 また一枚、落とされた。

「Qと呼ばれた虚無主義の極悪人とイチヨさんの決闘」

「そこに至って、世界は少しだけ癒されたと私は見ています。……あなたが私に求めたのは、そのビターエンドに至るまでの過程。記録を語るということです」

「私は真実が知りたいだけです、ウォレンさん」

 優秀な一匹狼の記録屋ウォレンは歴史の分岐点に立ち会い、記録を手に入れたにも関わらず、どういうわけかそれを世界に示さなかった。イチヨには「そんなくだらない話ききに、わざわざここまできたのか」のかと呆れられたが、そうする以上の価値があると断言できた。

「まずは私とイチヨさんの出会いから」

 男はフフと微笑した。

 昔を懐かしむように――過去と出会いにいっているようであった。

「少しほろ苦いですが、これは結局のところ楽しい物語なんですよ。蓮っ葉な村娘と愉快なバカたちの……そうですね、おとぎ話なんです。世界にたったひとつの、なんでもないおとぎ話なんです」

 またにっこり笑って、ウォレンはぶどう酒を体のなかに流しこんだ。

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