20 甘い、邪悪な肉の感触
目をかたく閉じて、唇を嚙みながら耐えるしかない。生ぬるい汗が赤みがかった全身の皮膚をうっすら濡らして、服を張りつかせている。ベトつく感触が不快感を
ただただ苦痛だけに
「センセ」
湿った、劣情かき立てる声が耳元でささやかれた。それをきくだけで、喉が一気に乾燥して、気管と
自分が自分でなくなる恐怖を上回る衝動が、いまエントレーを追いこんでいた。彼は必死に耐えていた。
「ねえ、センセ」
白く細い、美しい手がハサミの上を低速で、舐めるようにすべった。
深い夜、街灯ランプに照らされながら落ちる季節外れの雪のように
理性と感情が激突して、教師エントレーは狂いそうになりながら震えていた。
「先生……わたしが先生のこと好きなの、知ってたよね。ずっと、ずっと前から」
「あ、いや……」
「知ってたよね」
「あ……ああ……」
「気持ちよかった? かわいい生徒、ふたりに愛されるのは」
目を
ルーチェのいうとおりだった。愛されることは快感だ。誰かと
「村に
ベッドに横たわるエントレーの隣で、床に膝を突きながら素肌のルーチェが、彼女らしくない低めの声で淡々として話す。
「好きになっちゃったんだもん……仕方ないよ……でも、先生は女の子が好きだから。そういう人だから。リヒもそう、イチヨもそう。美人でかわいい純情な女の子だったら誰でもいいんだ」
「違う……」
「違うの? センセ、違うの?」
「違う……違うんだ……」
詰まった呼吸で、否定の言葉を絞りだす。
「違わないよ。だって、先生はわたしとリヒを会わせて楽しんでたもの。ひどい人……わたしの心をかきむしって気持ちよくなってた。リヒがいるのに、わたしとリヒを嫉妬させて面白がってた」
「やめてくれ……」
「リヒが死んで悲しんでたけど、わたしやイチヨのことも見てたよね。ねぇ……かわいそうだし好きだから、リヒが死んだあと、もっといい寄ってみたけど、わたしのこと抱きたかった?」
「もうやめてくれ……」
「それは、わたしのセリフ。もうやめて、センセ……」
「許してくれ……すまなかった、謝るから許してくれ……」
「わたし、怒ってないよ。先生は優しくて、かっこいいもの。ただちょっと変態だっただけ。クスクス……」
「ルーチェ……」
「わたしとお似合いね、センセ。大丈夫だよ、嫌いになんてならない。いまも好き、死ぬほど好き……先生はそのままでいて。言い寄る女はわたしがどうにかするから、ずっといっしょにいてね。センセ。センセ。センセ」
エントレーはまたぶくりと泡を吹きながら、涙を流した。
薄汚い泥沼に沈んでゆく三角関係にイチヨとオルアは直感的に、村長は経験則で、その先にある狂気的な危険性を感じ取り、彼を遠ざけたのだ。イチヨの助言をきいておくべきだった。
ルーチェがエントレーの上にまたがった。高鳴って
彼女は狂ってしまった。とうの昔に狂っていたのかもしれない。狂わせたのは誰だ。狂わせたのは――
「どくんだ……どいてくれ」
「センセ、抱いて」
「できない」
「嘘つき」
「見ろ、この体を。幻滅だろ、頼むからおれを見限ってくれ」
「自分勝手。アーア。そんなことでわたしがー、わたしの気持ちがとまるわけないのに。そんなの知ってる癖に。安心して、嫌いになんてならないよ」
「ダメだ、ダメだ」
「ううん。嫌いになってあげない。クスクス……嫌いになんて、なってあげないんだから。クスクス……」
「許してくれ、ルーチェ……」
「カニなんかにさせない。あのババア、いらないことを……」
憎悪、
ハサミで傷つけないように、なんとかどかせようと腕を動かした瞬間、唇が
糸を引きながら離れた唇を、舌で舐めてルーチェはもう一度「抱いて」といった。
「ぐげぇ」
絶命寸前の鳥のようなうめき声をあげて、エントレーは魅惑的すぎる女の肉体から目をそらした。そこにいるのがリヒなのかルーチェなのか、わからなくなってきている。ひとつたしかなのは、たおやかな肉を今一度見たときこそ、歯止めがきかなくなるであろうということであった。
「先生、愛してる」
「あがあ」
力いっぱいに、体に乗っかったルーチェを押しのけた。ルーチェが床に落ちた。
好意の渦に流されて不健康な楽しみを見出してはいたが、リヒを愛していなかったわけではなかったし、ルーチェを汚したいわけではなかった。これ以上の泥沼の深みにハマれば、二度と這いあがれないと思い、最後の理性を振り絞って、ルーチェを拒絶したのである。
脳が茹だち、心臓がちぎれそうになっている。乱れに乱れた不安定すぎる呼吸をしながら、体をよじって下を見ようとすると、ルーチェが静かに立ちあがって現れた。
汗だくのエントレーを見下ろしながら、
「そう、わかった」
冷たく言い放つと、ルーチェは服も着ずに家からでていった。歩いていった
水気を吸って違和感の温床となったベッドに横たわったまま、エントレーは窓や玄関から漏れる月の光を見ていた。
しばらくじっとしていれば、この異常な興奮は落ち着くはずと思っていたが、いくら待っても熱が引かない。それどころか、心臓の脈打つスピードがあがっている。目に映るものがザラついて、光の集合へ変わっていく。寒いのか、暑いのか判断できないが、鳥肌と寒気がとまらない。息苦しい。冷や汗が滝のように流れる。脳が壊れていく。加速する。白く、白くなる。
なにかが死んだ。力の重石がなくなったのを感じた。
ぐりんとエントレーは白目を剥いて、泡を吐いた。
ひととおりのなりゆきをレビンに話したイチヨは、レビンを家から追いだしてベッドに潜りこんだ。目を閉じるとすぐに、外からレビンの声がきこえてきた。
「いっしょに寝ようよ~。物理学完全読本よんで~」
「そんな難しい本、読めるわけねぇだろ!」
「おしめして~」
「あっはは! オメーもうおしめ卒業してるだろうが!」
「ぎゃああああああああああ」
家の壁を挟むイチヨとレビンのバカみたいな会話に、男のつんざくような悲鳴が混ざりこんだ。
「なんだ、なんだなんだ」
きこえた方向、距離、声から推測するとエントレーのものとしか考えられない。
パジャマのままイチヨが外へでた。レビンがエントレーの家を指さした。
「あれ!」
「なんだありゃ!」
エントレーの家がブルブルと振動している。いまにも爆発しそうに、膨張の限界といわんばかりに激しく揺れているのだ。
「シニー、伏せろ!」
両手で双眼鏡を作って家を見ていたレビンにおおいかぶさって、イチヨが地面に倒れると、エントレーの家の屋根が弾け飛んだ。木の破片や石が集落の土に墜落し、細かな
「いってて……なんだよ、もう。あぁ!?」
天井のなくなった家から人間サイズのカニが、火と煙を盛大にケツから噴きながらゆっくりと上昇してきた。イチヨの胸に潰されたレビンもぐぐと顔をだし、そのロケットのようなカニを目撃した。
「カニカニィーッ!」
カニは急に加速して、空の
「なんだ、どしたい! どしたいッ!」
「うるせんだよ、バカヤロー」
北集落の村人が、ぞろぞろと家からでてきた。包帯を巻いたアイスマンも、オルアの家のドアを叩き開けて、
「いまのはなんだ」
「ふわ……どうしたんですかぁ……」
目をこすりながらオルアもでてきた。
「あっ、神祇の反応が消えてる」
レビンの神祇レーダーがなんの反応も示さなくなっている。やはりエントレーに反応していたのだろう。いま飛び立ったのはエントレーに違いないのだから。
それにしても、エントレーが完全なカニになるのが思ったより早かった。段階をすっ飛ばしてカニになった感じがぬぐえない。
「オババだ。オババにどうすればいいかきかないと……」
腹の上に乗ったレビンをどかして、イチヨは暗いままのアンの家に入った。
「おい、オババ」
――返事はない。
アンはどうやら机に突っ伏している。寝ているらしい。歳を取ると、あんな爆音にも気づかなくなるのか。いいんだか悪いんだか、わからない。
パンプスの裏で、なにかがじゃりと触れた。水晶玉の破片が床に散らばっている。
「おい、起きろ」
アンの背中をゆする。
彼女の体に触れたことで、イチヨは痺れるように真っ青になった。生命力ともいうべき人間の持つ温かさがなく、なにか小枝に似た硬さが老婆の体にはあるのだ。死んでいる――そう感じた。
「ババアっ!」
むりやり起こしてはじめて、アンの顔が映った。すべての血を抜かれたように真っ白な顔色、
しゃがみこんで、イチヨがアンの心臓部分を拳で叩き打った。どん、どんと何度も。反動でアンの体が浮きあがるだけで、呼吸を再開する様子はみじんもない。胸を押すのは、心臓マッサージを意識したものではなかった。こみあげた感情で手がでただけであり、もうなにもかもが手遅れの状態であることをイチヨは察していた。アンを構成するものは、もうこの場になかった。
「どうした」
アイスマンとレビンが入ってきた。
「暗いや」
筒状の物を取りだすと、レビンはそれについたスイッチを押した。しゅぼっと、なにかがこすれる音をだして、筒の先から火花が散った。
「アンばあちゃん!」
「バーバーアーっ!」
ふたりが叫んだ。
明かりの元を放り投げて、レビンが死体においすがった。服をぎゅっと握って、胸に顔をうずめる。レビン=O、本名シニーもアンには世話になっていたし、同じ村の住人である以上は家族同然である。肉親を亡くしたに等しい悲しみを感じているに違いなかった。
明かりを拾って、アイスマンが、
「心臓だ」
と、一言いった。
「心臓? 病気だっていうのか、こんなタイミングで」
「違う、胸が少し沈んでる。心臓に攻撃を食らったんだ、こんなのできるのは……神祇以外にいねぇだろう」
「……」
神祇がカニさまを恐れているとするならば、カニさまを召喚したアンを狙うのは考えられることだ。なぜその可能性に思い至らず、見張りくらいしようと考えなかったのか。
……
「なんまいだぶ」
まばたきひとつしないアンの目に、レビンは手をかざして、すうとおろした。手の平でまぶたを閉じさせる、アレだ。
「あら?」
アンの目は半目になっただけで、それもすぐに元に戻った。色のない瞳が開いたままだ。
「目を開けるよ。生きてるってこと?」
「死んで間もないってこった。もう少ししねぇと目は閉じらんねぇよ」
「そっか……」
イチヨは険しい表情をしたまま、家の外へでた。
「どうしたんだい」
トゥーサンが不安そうに歩み寄ってくる。
「アンばあさんが死んだ」
「なんだって」
「あとを頼む」
そういって、イチヨは自分の家に戻り、着替えはじめた。エントレーを追わなければならない。なにをどうすればいいのかわからなくても、動かないといけない気がした。
テレポンが鳴った。ジリリリと夜中に鳴られては困る音量で、受話器を取ることを
「もしもし」
「あー、よかった。一発でつながったわ、イッチョン」
「マックスか?」
「ええ、そうよ」
「コッチからテレポンしようと思ってたんだ、ちょうどいいや。ルーチェは――」
ここまでいって、ハッとした。ルーチェはどこにいった?
「おい、チビぃ! ルーチェはいねぇか!」
窓に向かって声を張りあげた。アンの家からでてきたレビンが、トトトとエントレーの家に走る。半壊した家のなかを確認すると、イチヨの家の窓までやってきて彼女は首を横に振った。
「ルーチェがきたんだがよ……消えちまった。エントレーも」
「どーゆーことよ」
「わかんね。あと、アンばあさんが死んだ」
「なんですって。どうしたの、
「急逝には違いないが、アイスマンは他殺だっていってる」
「村兵を送るわ。コッチの用件、いいかしら」
「はいどうぞ」
「神祇のアジトを見つけたわよ」
「神祇のアジトっていった、いま?」
玄関から家に入ってきていたアイスマンがビクリと反応を示した。筋肉を盛りあがらせて、闘志を燃やしているのが伝わる
「カニタマウンマイウンマイ駅の周辺に廃墟群あるでしょ。その一角みたい。出入りする神祇をやーっと発見できたんだから」
「どうする気だ」
「突撃よ」
「やめな。危なすぎるぜ」
「危なくてもやンのよ、村兵ってそういうモンでしょうが」
「せめて、私たちがいくまで待ってろ」
「……三十分」
「よし」
「でも古道に村兵は送りだすわよ、もう。古道に神祇どもが隠れて動いてるから、奇襲かけてやるわ」
「戦うより、上ウンマイの住民を避難させたほうがいいと思う。カニ……エントレーがそっちのほうに飛んでったから、なにか起こる。たぶんな」
「エントレーちゃんがどしたのよ」
「ついたら説明する、それまで待ってくれ。私も村役場職員として仕事ってことにするからさ、協力しろよな」
「村役場からの頼みなら無下にできないわね。でも三十分よ。三十分以上は待てないわ。なんか神祇どもの出入りが活発化してンのよ」
「わかった」
テレポンを切った。
アイスマンとレビンが、イチヨの横に立っている。
「嬉しくないけど、上ウンマイのほうが賑やかになりそうだぜ」
赤い瞳が。群青の瞳が。3が。――薄暗い室内に光った。
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