5 最弱にして最強の素質
無機質な鉄や小さな歯車・ゼンマイ・バネを皮革でコーティングした携帯式のテレポンがポケットのなかで震えていた。
記録の職についた際に上司たちにどやされ、しぶしぶ貯金を崩して購入した高価品だった。
抗いがたい恐怖と嘔吐感が押し寄せる。安全な領域に踏みこんできた異物に痺れる小動物と化した彼は、床に釘打たれて立ち尽くしていた。
思考がめぐる。――早くでないと、あとで大変なことになる。もう遅いけど、せめて完全に切れる前にでないといけない。
息の根をとめて、ウォレンは通信に応えた。
「どこにいやがる!」
セカンドのすさまじい怒気が飛んだ。出会い頭に殴られた形だ。
どう答えていいかもわからず、ウォレンは情けなく単音を吐くのが限界だった。
「取材と思って放っておいたが、まさかお前、休みだと思ってんじゃねぇだろうな。ぶっ殺すぞコラァ!」
普段、面と向かっていると、静かに冷えきった口調で嫌味をいうセカンドは電話先だとかならず怒鳴る。
ミキならば歯牙にもかけずに電話を切るだろう。イチヨならば負けじといいかえすだろう。どちらもウォレンにはできなかった。――とてもできなかった。
もはやなにを恐れているのか、彼にはわからなくなっている。
上司たちが怖い、というのとは少し違った。彼らも犠牲者であり、か弱い存在だとみなしていたのだからそれを恐れるのはおかしい。
では職を失う可能性を恐れているのかといえば、それもそうとはいいきれない。ほかの職を探せばいいだけの話だ。次の職はこんな環境ではないという保障はないが、とにもかくにもここから離れること自体は恐怖ではないはずだ。
となると、自身の夢が打ち砕かれることが最大の恐怖なのだろうか。
記録屋として生きることが、夢だった。子どものころから記録屋の残した書物に触れて憧れを抱いたのがはじまりで、自身も先人たちと同じように、歴史の語り部となることを強く望んできた。そのために頑張ってきた。
そんな愛してきたはずの記録というものが、過酷である必要のない部分で過酷な職場によって、嫌悪の対象になってしまうことが怖いのだろうか。
そうとも思えたし、そうでないかもしれないと、まるで判然としない。得体の知れない這いあがる恐怖だけがあった。
電話先で延々と鳴っている怒声を、ウォレンは冷や汗を流しながら、黙ってきいていた。
村人たちはもう、切り離した別の世界の事象になり果てている。彼の視覚と聴覚には入っていない。
涙をこらえて、耐えるしかなかった。
……いつもそうだった。
泣いたら終わりだ、負けだ。それだけはできないと、彼はこの職をはじめてから一年、職場で涙をこらえつづけてきた。どうしようもなく
不当な扱いを思いだしたり、上司たちによるウォレンという人間の存在そのものを否定するような扱いを思いだして泣くのではない。真っ白になった脳内が、なんの理由も感じさせずに涙を流させるのだ。
そう、理由はなかった。あったのは繰りかえしになるが、惨めさと情けなさ。悔しさ。それだけだ。
彼の心はそういう意味では、すでに壊れていた。死に
早朝、目が覚めなければいいと何度も思ったし、職場に隕石でも落ちててくれと何度も願った。きっかけがあれば、眠りつづけていたかった。
死にたかったわけではない。生きるのが怖かっただけだ。
なにかを望んでも、
どこで道を誤ったのか、自分がなにをしたのか、神に問いただしたかった。
親に申しわけがなかった。手塩をかけて育ててくれた親に合わせる顔がなかった。おれを愛してくれた両親が
癖で涙をこらえながら、救いを乞う目でウォレンは顔をあげた。あいかわらず同じことを繰りかえす声に「すみません」とだけ何度もつぶやきながら。
にじんだ視界に、たしかに女がいた。
せわしなく動く人々の影のなかに
ウォレンはうめき、喉を鳴らした。彼女の前で死に様をさらすのが嫌だと思えた。
「あの……すみません……」
「あ?」
それ以上の言葉が喉からでない。変わらず女は、こちらを見ている。
――オメーは、オメーの話をしてんだ。
おれという概念だけを残すと、冷静さがじわりと息を吹きかえした。
夢は、この地獄からしか生まれえないとは思えなかった。夢というものは、いろんな道筋から伸びてつながっているはずだ。すべてを嫌う前に、似た道を、あるいはまた別のアプローチで同じ道を探すこともできるのでは。もっと自由なはずである。
――背負うものすべてを放り投げて知らぬ存ぜぬと歩いた。歩くと、いい出逢いがある。人生とは、そういうもの。
いままで思いつかなかったその当たり前を、ウォレン自身はずっと前からわかっていた。沈んだ感情が曇らせていただけで、わかりきっていたことだった。
彼は村人たちの輪に混ざりたかった。自分はもともと、ああして笑っていた子どもだったはずなのだ。もっと自由に、青空とともに広がっていたはずだろう。
ウォレンは、
彼は泣かなかった。うるませるだけで、こらえきった。
「もう、辞めます……」
「なに?」
ウォレンは通信を切った。
そして、床に叩きつけて蹴り潰した。歯車やバネが砕け飛んだ。
悪い夢は終わったんだ――
気分が一気に晴れた。音がすぐに回復してきた。
肩で息をして、視線を戻す。祝いの一団は列に戻って、イチヨの家から離れてゆく途中だった。
ズレた服、髪をぐちゃぐちゃにさせたイチヨがゆっくりと歩み寄ってきて、壊れた携帯式テレポンを見た。
「どうしたよ、不良品だったか」
「ええ……高い買い物だったんですけどね」
「いくら?」
「大体、十五ゴールドでした」
金貨十五枚、これはたいそうな値段である。銀貨百五十枚、銅貨にして千五百枚。国につかえる記録屋が月に得る収入とほぼ同じと見れば、かなり高価な品だ。
「とんでもねぇ」
目をぎゅっと結び、
ウォレンも全体重を預けて椅子に座る。
イチヨはなにも触れずに、もみくちゃにされたことを話しだした。表面上は嫌気がさした風に話しているが顔はにこやかだった。暴れた美しい髪の毛をとかして整えながら、呆れつつも笑っていた。
「おっ、一年前のモデルじゃん」
いきなり窓から顔をだした少女が携帯式テレポンの
「うひゃっひゃっひゃっ」
奇妙な笑い声を発しながらレビンがタタタと駆けて、机の前までやってきた。部品をひとつひとつ品定めするように見ると、ニンマリ邪悪に笑った。
「おい、シニー。そりゃ旅人さんのだぞ」
「シニーって呼ぶな! アタシはレビン=O《オー》……」
「あにがレビン=Oだ。わけわかんねー偽名を名乗るなよ、恥ずかしい」
自称レビン=O、本名シニーの少女はイチヨを無視して、慣れた手つきで携帯式テレポンを細かく分解しはじめた。「うひゃひゃ……」と薄気味悪く笑いながら作業に没頭する少女の姿は、どこかの古い記憶で見た絵本の魔女を想起させる。
「悪いね、こうなるととめられねぇ。コイツに十五ゴールドの返済念書でも書かせようか」
「いえ、いいんです。それよりシ……レビンさんはどうしたんです。突然、気が狂いましたが」
「こんなチビでも、いっぱしの
バカ呼ばわりされたあげく、これまでの発明品をまとめてガラクタ呼ばわりされても、夢中のレビンは反応を示さない。
分解と選定を終えて部品をリュックサックに詰めこむと、軽く握った手を腰の高さまであげて、えっほえっほと駆けだした。
「おい。もらうモンもらったんだ、いうことあんだろ」
「まりなとうー」
間延びした声で感謝らしき言葉をのべると、レビンはウォレンに向かって「ピッ」と敬礼のポーズを取って、ビシと前に突きだした。
少女と交代するように、次から次へと村人たちがイチヨを訪ねてきた。玄関から入ってくる者もいれば、レビンよろしく窓から顔をだす輩もいる。畑の玉ねぎが元気ないという愚痴や、ぞうきん貸してくれという要求、上ウンマイの誰が
それらに対応しつつ、イチヨは家のなかをせわしなく移動していた。
「ミツバチみたいな女性だ」
一息置いて、その不可思議な自身の言動を
ばたばたと動きまわって、しかし軽やかに飛びまわる
いままで考えられたことではなかったが、もしも人を花だとするなら、本質的に「いい」とされる正の感情を蜜としたい。イチヨという事象はそんな蜜を集める天才であり、集めた蜜をまたほかの花にさしだせる
ウォレンはおだやかな心地で、それらしいことを思った。
実際のミツバチの性質とは異なるが、いよいよもってイチヨが彼には熱心なミツバチに映った。
笑って、ウォレンは先ほどより大きな声で、今度はきこえるようにいった。
「あなたはミツバチみたいな女性ですね」
「なに、ミツバチ? 正気か、
ぶっきらぼうな返答がかえってきたが、これにまたウォレンは笑った。
こういう言葉をたくまずしていう人間ではあるが、どうにも不愉快さがないのだ。むしろ楽しくなってくる魅力があった。声色もあるだろう。調子や拍子もあるだろう。いろいろな要素が複雑にからみ合い、暴言に近い言葉が魅力的に耳を抜けるのだ。
頼んでもいないのにだされたオレンジジュースにやっと口をつける。絞ったオレンジの果汁を水で薄めただけの粗末な飲み物であったが、染み入るものがあった。新鮮な甘味と、
――なるほど、美味い。
「おい、余興役。一発、頼むぜ」
「私に余興やって欲しけりゃ、ウチにこいといっておけ。旅人さんのウオレンがウチにいる、みんなで飯でも食おう」
突然、巻きこまれてびっくりしたが、ウォレンは嬉しさを隠せなかった。村人たちの反応も彼が思ったとおりのものだった。
「結構なことだ。さっきよりスッキリした顔してるな、ウオレンさん」
「なんなら祝辞でもいってもらうか」
「イチヨに観光対応されたの? 災難だったわね」
わいわいと壁へだたりなく、村人たちは見知らぬウォレンを迎え入れた。
――精神が安定してゆく。薬をいれられたようにじっくりと。
この世には、
イチヨという女は一介の村娘でありながら、その素質十分の隠れた逸材であった。
ウォレンが村をでるころには、すっかり夜になっていた。
「これからどうするかな。バイト?」
ひとりでブツブツ楽しそうに喋りながら、彼は残り一本の汽車を駅で待っていた。一日二本だけの汽車、彼は運がいい。
五日目は雨だった。六日目は晴れた。では、七日目は?
……青年には、わかりえないことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます