第121話 このメス、発情してるよ!
「はあッ!!」
凄まじい勢いの踏み込みと共に繰り出される鈴夏の掌打。
それをスウェーでかわした虎太郎が鈴夏の勢いを逆に利用しようと、腰をひねりながら腹部に肘打ちを繰り出してカウンターを狙う。
その肘打ちをパンッと音を立ててはたいていなし、鈴夏は虎太郎の膝に向かって素早く蹴りを繰り出す。
「つっ……」
鈴夏の蹴りを喰らってしまった虎太郎が小さく舌打ちする。中国拳法では足技が使われることが少ないので油断した。ズキリとした膝の痛みと共に、虎太郎の脚運びが鈍る。
虎太郎の脚を
だが虎太郎もその大振りを黙って喰らうわけではない。鈴夏の伸ばした腕を左手の甲で弾き、逆にジャブを入れて劣勢を覆そうとする。
パンパンパンッと小気味よい音を立てて互いの腕を弾き合いながら、軽い拳技の応酬が繰り出される。ジリジリと真夏の太陽が2人の顔を照らし、止めどなく汗が噴き出ていく。汗の滴を伸ばしながら、2人は無言で殴り合い続けた。
どこまでも続くかと思われた技の応酬は、唐突に終わる。
鈴夏の鋭い拳をスウェーでかわした虎太郎が、その場でくるりと高速回転しながら裏拳を鈴夏の顎に向かって飛ばした。当たれば意識を持っていかれること必定の、脳を揺らす一撃。
「シッ!!!」
だが鈴夏はそれを身をかがめながら踏み込んでかわす。空振りした虎太郎の裏拳が彼女の髪をかすめた。
その勢いを殺さずに鈴夏は両手で掌打を繰り出し、虎太郎の腹部に必殺の一撃を繰り出す。
「うっ……!」
虎太郎の小柄な体が宙に浮き、勢いよく吹き飛ばされる。
落下の仕方によっては後頭部を打ちかねない技の入り方だったが、虎太郎はしっかり頭部を上げながら着地の瞬間に受け身をとって、ダメージを殺した。
何事もなく起き上がった虎太郎に、鈴夏が再び基本の構えをとる。
だが、虎太郎は苦笑しながら首を横に振った。
「参った、僕の負けです」
その言葉に、鈴夏はすっと構えを解いた。
周囲で見ていた数人の子供たちがおーーーっとどよめきながらパチパチと拍手を送ってくる。
「すげー! 本物のカンフーだ! 初めて見た!!」
「あれってCGじゃなかったんだ……」
「お姉ちゃんたちすごーい!!」
……7月の暑い盛り、虎太郎と鈴夏の師弟は公園で組み手をしていた。
鈴夏から武術の心得について訊かれた虎太郎が稲葉流を修めていると答えたところ、ぜひリアルで手合わせしようということになったのだ。
そんなわけでアパートの近くの公園で組み手を始めたところ、夏休みに入った子供たちが物珍しそうに見物しに来たというわけなのである。
虎太郎は綺麗な一撃を受けた腹を撫でて、いつつと眉を寄せる。
「あいたたた……いいのもらっちゃったな」
「師匠、ご無事ですか!?」
心配そうな顔をして走り寄ってくる鈴夏に、虎太郎は笑顔を向けながら手で制した。
「大丈夫です。それより、鈴夏先輩はやっぱ強いんですね。打ち合いじゃ相手にならないや」
「そんな、師匠が投げ技を禁止していたからですよ。腕を弾くのじゃなくて取られていたら、危ないタイミングが何度もありましたから」
今回は投げ技は使わず、お互い打撃技だけを使う約束をしていた。
道場ならいざ知らず、コンクリートで舗装された固い地面での投げ技は危険すぎるという判断だ。
「……稲葉流はやっぱり面白いですね。打撃や投げだけじゃなくて骨法も取り入れている。何が飛び出してくるか予想もできませんでした」
「まあ、使えそうなものは何でもパクってぶち込んだ節操のない流派ですからね。古武術なんて言えば聞こえはいいけど、要するに他流派のごった煮なので」
虎太郎のそんな言葉を聞きながら、鈴夏はベンチの上に置いていたポーチから水道水の入ったペットボトルとタオルを取り出す。
「はい、どうぞ」
「ありがとう、先輩」
「さっきからまた先輩、なんて。鈴夏って呼び捨てにしてくれていいんですよ?」
ちょっと不満そうな鈴夏の言葉を無視して、虎太郎はペットボトルの蓋をひねった。ごくごくと水をあおると、たちまちぶわっと額から汗が噴き出してくる。
「ねーねーもうカンフーしないの? これで終わり?」
「ごめんねー、お姉ちゃんたち疲れちゃったからまた今度ねー」
「ちぇー」
にっこりと優しい笑顔を浮かべながら鈴夏が子供たちに応対している。
腰を子供たちと同じ高さに屈め、いかにも優しげな笑顔を浮かべている姿からは、本当に子供好きなんだなということがうかがえる。
先ほどまでの冷たく尖った闘士としての気迫が嘘のようだ。
(……保母さんとか似合いそうだなあ)
ペットボトルを飲み干しながら、虎太郎はそんなことを思う。
……夏場だが怪我を防止するためにジャージを着ていたので、服の中が大量の汗でものすごく蒸し暑くなってきた。
「あちち……」
ジャージの上着を脱ぎ捨てると、下に着ていたTシャツがぐっしょりと汗で濡れていた。べたべたと肌に貼り付いて気持ち悪い。
虎太郎は無造作にTシャツも脱いで、ハンドタオルで身体の上半分を拭いていく。乾いたタオルの肌触りを心地よく感じる。
(…………?)
ふと、何やら粘ついた感覚を感じて虎太郎が視線を上げると、数歩離れたところから鈴夏がじーっと虎太郎のお腹を見つめていた。
小柄で童顔な虎太郎だが、体はよく鍛えられていて腹筋も割れている。
その6つに割れた腹筋に鈴夏の視線が釘付けになっていた。
「師匠って着やせするタイプなんですね。そこまで筋肉が付いてるなんて思いませんでした」
「着やせ……?」
それって主に女性に使う言葉なんじゃないかなあと首をひねりつつ、虎太郎はうんまあと生返事を返す。
高1のときに稲葉流道場に入門して以来、虎太郎はずっとトレーニングを続けてきた。【シャングリラ】が消滅してからも、稲葉道場に通うのはやめなかった。
いつかバーニーが帰ってくるかもしれない。いつかみんなが帰って来たとき、鍛えた技が役に立つかもしれない。
その一心で鍛錬を続けていたのだ。半ばムキになって。
“特区”を脱出して東京に出てきてからも、虎太郎は筋力を維持するためのトレーニングを毎日欠かしていない。
その鍛え抜かれた体に、じりじりと鈴夏がにじり寄ってきた。
「あの……お腹、触ってもよろしいですか……?」
「うん、まあ、いいけど……?」
わけもわからず頷く虎太郎。
すると鈴夏はほう……♥と熱い息を吐きながら、すりすりと虎太郎の腹筋を指先で撫でる。
「わあ……♥ すごいカチカチですね。こんな可愛い顔の下に、こんなカタいのを隠してたなんて……なんだか意外だなぁ……♥」
「…………」
虎太郎はなんだか妙に気恥ずかしくなって、そっと顔をそむけた。
それをいいことに、鈴夏はうっとりしたような目つきで腹筋のすじをつーっと指で撫でて、その固さを満喫している。
「ちょっとくすぐったいですよ、先輩……」
「えへへ、ごめんね」
口ではごめんねと言いながら、鈴夏は虎太郎の腹筋を撫でるのをやめない。
鈴夏の指の感触に身悶えする虎太郎は、なんだかいかがわしいことでもされている気がしてすごく恥ずかしくなってきた。
いかがわしいも何も完全に性的な目で見られているのは明白なのだが、そっち方面には淡白な虎太郎はいまいちピンと来ていない。
あっほら見ろ、チロリと舌なめずりしたぞこいつ。
これはよろしくありませんよ。
「ししょぉ……♥ 身体、お拭きしますね?」
「い、いや……いいよ。自分で拭けるし」
何やら肉食獣に狙われているようなぞわぞわした感覚に、さすがに申し出を拒否する虎太郎。
断り方が甘えよ。
「でも、背中とか手が届きにくいでしょう? 私がきれいきれいしてあげますね……♥」
ほら見ろ聞いちゃいねえ。
タオルを手にした鈴夏は、にゅるりと蛇が巻き付くように虎太郎の背後に回り込み、熱い息を吐きながら肩回りの僧帽筋にタオルをあてる。
「師匠って……顔は可愛らしいのに、体はとっても男の子なんですね。うふふ……こんなに筋肉ついてる♥♥」
「…………」
自分の童顔にコンプレックスがある虎太郎は、真っ赤になって顔を伏せる。
「あー……まあ、筋肉つきすぎてると女の子から気持ち悪がられるっていうし」
「そんなことないですよー。逞しい男の子って、私好きですよ?」
「あ……そ、そうなんだ……」
おかしい。虎太郎は心の中で首をひねる。
これが2か月ほど前、鈴夏と出会ったばかりの頃に彼女の口から逞しい男の子って好きだなーと言われたら、虎太郎は無条件で嬉しくなってウキウキしただろう。
だが今、彼女の口から同じことを言われているはずなのに、嬉しさと同じくらいの大きさで胸をざわつかせるこの危機感は一体……!?
「あ、あの……もう拭き終わったよね? もうそのへんで……」
「えー、ダメですよぉ。ちゃんと綺麗にしないと風邪引いちゃいますよー?」
「す、鈴夏先輩だって汗かいてるでしょ。僕はいいから、鈴夏先輩も自分を拭いてください」
「あ、そうですねぇ……」
自分の上着を見下ろした鈴夏は、にんまりと笑う。
そしてたわわな胸をジャージ越しに虎太郎の肌に押し付け、耳元で囁いた。
「じゃあ……今度は師匠が私の体、拭いてくれます……?」
「ふえっ!?」
飛び上がらんばかりに驚いた虎太郎は、慌てて鈴夏の方を振り返ろうとする。
しかし鈴夏の手は的確に虎太郎の背中の要所を抑え、上半身を振り向かせない。
鈴夏は顔を赤らめながら、虎太郎の耳にふっと息を吹きかける。
「ダメですよ。私だって恥ずかしいんですから、見ちゃだめです。だから手だけ伸ばして……私のジャージの裾から手を入れて、汗拭いてほしいな……♥♥」
「ふわわわわわ」
虎太郎は目を白黒させ、ぶわっと汗を掻いた。
えっ、何それは。めちゃくちゃインモラルな行為をさせられそうになっている気がする。下手に汗を拭くよりえっちな気がするんですがそれは。
鈴夏は乾いた唇をもう一度チロリと舌で舐める。
「私、汗かきで……稽古した後、いつも汗が溜まっちゃうんです。だから、念入りに拭いてくださいね……?」
「溜まっちゃうって……どこに?」
「うふふ。さあ……どこだと思いますか?」
ごくり。
鈴夏のからかうような言葉に、虎太郎の胸が早鐘を打つ。
ちょっぴり性的に未熟なところがある虎太郎は、あまりエッチなものには興味がない。それよりゲームすることに熱中していたいと思っている。
だけど別にまるで興味がないわけではないし、年上で胸の大きな女性は好みだ。
思いっきりびしびし誘惑され、ウブな虎太郎は瞳にぐるぐると渦が巻くほど動揺していた。
別にこいつとてハニトラの達人というわけでもないし、なんなら男性経験は絶無である。
じゃあなんでこんなに虎太郎を誘惑できているのかといえば、常日頃から悶々と妄想し続けていた賜物である。こういう感じで年下のショタっ子をお姉さんの魅力で誘惑してみたいなーということばかり考えてオカズにしているのだ。
なんならマンガでそういうシチュばかり描いていた。
かえすがえすもヤベー女である。おさわりマンこいつです。
真っ赤になった虎太郎が震える手でタオルをぎゅっと握り、鈴夏の長年の妄想が実現するかと思われたそのとき……。
「おねーちゃんたち何やってるのー?」
子犬を連れた女児が小首を傾げながら鈴夏をじーっと見ていた。
ナイスちびっこ!
子犬はおんおんと鳴きながらしきりにリードを引っ張っているが女児は気にした風もなく、このクソ暑いなか背後から男の子に抱き着いている女子大生をピュアな瞳で見つめている。
「あ、あはは……何でもないのよー」
さすがに純真な子供の前でそれ以上公然わいせつを続けるわけにもいかず、鈴夏は真っ赤になりながら体を離した。
解放された虎太郎が、ほうっと安堵の息を吐く。
というか白昼堂々、子供もいる衆人環視の公園でコトに及ぼうとしていたのだからムッツリドスケベ処女の暴走は恐ろしいものがあった。マジで通報5秒前である。
「ちょっと汗を拭き合ってただけだから」
「そーなのー? でもお姉ちゃんたち真っ赤で汗だらだらだし、救急車呼んだ方がよくない?」
「ほ、ホントに大丈夫っ! 病気とかじゃないからっ!」
「わんわんっ」
子犬はしきりにリードを引っ張り、女児をどこかへ連れて行こうとしている。
「か、可愛いワンちゃんだねー。きみと遊びたくて仕方ないのかなー?」
「もうー! 暴れちゃめーでしょ!」
「わうー」
「どれどれ、何て言ってるのかなー?」
ここは話を変えるっきゃねえ。鈴夏はズボンのポケットからスマホを取り出し、アプリを起動して子犬に向けた。
アプリに内蔵された犬語翻訳システムが起動して、動画撮影された犬語をたちまち人の言葉に翻訳して画面に表示する。
『あっちへ行こうよ! このメス、発情してるよ! そこの小さいオスと交尾したがってるから邪魔しちゃだめだよ!』
「…………」
笑顔を浮かべた鈴夏の瞳の温度がすうっと下がる。
その表情を見た子犬が、きゅうん!? と怯えた声で鳴いた。
女児は不思議そうに首を傾げる。
「ねー、何て言ってるのー? 私スマホ持ってないから、この子が何言ってるのかわからないの」
「ううん、何でもないのよー。この2人は仲良しだから邪魔しちゃだめだよって言ってるみたい」
「そっかー」
女児に見えないようにスッとスマホをポケットにしまい、鈴夏はにこにこと作り笑顔を浮かべた。
その光景を、虎太郎は信じられないものでも見るように眺めている。
人間と犬が当たり前のように会話できる世界。
それは虎太郎にとって、まさに異世界に近いものだった。
犬語翻訳アプリは16年ほど前に実用化され、世界的なブームを巻き起こした。スマホで犬を動画撮影するだけで、鳴き声や仕草から的確に人間の言葉へ翻訳するという、非常に画期的でお手軽な翻訳システムが組み込まれている。
当時はまだ弱小だったソフトハウスがリリースしたそのアプリは、その後メーカーを世界的大企業へと押し上げる最初の一歩となったという。
現在ではもはや人間と犬が会話できることに違和感を覚える者などいない。
犬とは意思疎通できる生き物であり、それが当たり前の常識なのだ。
だが、“特区”から来た虎太郎にとっては……。
こんなのはまるで魔法だ。
スマホの存在すら周知されていない“特区”では、犬と人間が会話するなんてありえないことだ。もしそんなことを口にしたら、頭がおかしくなったのかと思われるだろう。
上京した直後にスマホとネット環境は絶対に揃えるようにと大学に言われた虎太郎は、スマホを使えば犬と会話できると聞いて死ぬほど驚いたものだ。
だがそんなものは序の口にすぎず、外の世界では虎太郎が想像もしたことのない文明が当たり前のような顔をして普及していた。
たとえばドローンによる高速工法。無線電力供給。試作建造中の軌道エレベーター。VRポッド。
20世紀後半の文明を再現した“特区”で育った虎太郎だからこそ、その違和感が気になって仕方がない。
確かに文明の進歩というのは、これまでの社会の常識を軽く覆すだろう。
だが……あまりにも、進歩が早すぎやしないか?
この2038年の外の世界と“特区”は、およそ半世紀ほど文明に開きがある計算になる。ネットとデジタルの発展は、世界の在り様を大きく変えた。
しかしその急激な発展の中で、本来流通すべきでないものまでが大手を振って普及しているような気がしてならないのだ。人間が知恵を絞って50年努力したところで、決して届かないような産物が混ざっているようなこの違和感。
まるで人間ではない何者かが、人間の発展に手を貸しているような。
虎太郎は小さく首を振って、妄想を振り払った。
目の前ではなんだか鈴夏を気に入ったらしい女児がいろいろ話しかけては鈴夏を困らせ、子犬にぐいぐいとリードを引っ張られ続けている。
……帰ったらいよいよジョンを連れて傭兵働きといこうか。
そんなことを思いながら、虎太郎はなんだかおかしくなって小さく笑った。
かつて『
だけど、いざ“特区”の外に出た自分にとっては、この2038年の世界は。
「この世界こそ、まるで異世界みたいだ」
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犬語翻訳アプリについては拙作『催眠アプリで純愛して何が悪い!』に詳しく登場しているので、よろしければそちらもよろしくお願いします。
小説家になろう様、ハーメルン様に投稿しております。
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