第2章 神の斎垣(かみのいがき)

第1話

 逢坂山を越えるのは、業平にとって二度目だった。瀬多を過ぎ、東国へ行った時に通った甲賀路に入る。

 今度は盗賊の心配もない。泊まる所を探す苦労もいらず、ましてや野宿の憂き目に遭うことも絶対にない。なにしろ伊勢への、帝の勅使なのだ。通る国々では、国司の接待攻めだった。ただし、往路では酒は出ない。

 すました顔で厳かに、しかも偉そうにふんぞり返って業平は勅使を演じなければならない。

 だからといって、まあまあというわけにはいかない。やがて鈴鹿峠を越えると、目の前には壮大なパノラマが展開された。海までの平地のすべてが見える。海の向こうには知多半島が、まるで島のように横たわっていた。

 かつてもここまでは来た。しかし前は、この海岸から北上して尾張へと出て、そのまま東国に赴いたのだ。

 業平の胸は熱くなった。また、このまま東国へ行ってしまいたい気もする。だが今は馬上ではなく牛車の中で、道中といえども堅苦しい朝服を着し、これらすべてがしがらみとなって彼を縛っている。

 伊勢の国府はその鈴鹿にあった。国司は斎宮頭さいくうのかみを兼ねているので斎宮寮の方にいて、ここにはいない。

 国府にあって国を治めているのは介の藤原是縄であった。年配の男だ。太政大臣や右大臣の従兄弟に当たるが、この年齢になってもまだ五位の受領であった。だから業平が到着すると、かなり下がった位置から平伏して業平一行を迎えた。

 いよいよ道は伊勢路へ入る。東国への一種の郷愁のようなものを感じていた業平の感傷を残酷に引きちぎるかのように、道は尾張に背を向けて南下する。そして、一志にて一泊したら、翌日はいよいよ伊勢の大神宮となった。その前に彼は、禊川で再び潔斎をしなければならない。

 明ければ、身も心も清々すがすがしい朝だった。山と海に挟まれたわずかな平地だが、不思議に狭いとは感じない。海の方は海岸線沿いに松林が続くので水平線は見えず、その向こうもずっと大平原が続いているような錯覚に陥る。山も遠くに低い山並みが見えるばかりだ。だから、広いというのが業平の実感だった。

 行列はいくつかの川を渡った。特に大きな川は空の青さを反映して、とてつもなく青かった。その河口近くにある渡しが、大淀の渡しである。

 とりあえず、斎宮寮さいくうりょうは素通りした。業平は紀家の妻の叔母である更衣静子から、その娘の斎王への慰問の挨拶を伝えるという使命をも持っていた。だが、あくまで大神宮への奉幣の方が先である。

 だから、斎宮寮は今は横目に見て通り過ぎていかなければならない。だが、斎王は妻の従姉妹でもあり、その母からのことづけがある以上、通り過ぎながらも業平は斎宮寮を充分に意識していた。大淀の渡しで舟に乗り換えながら、その斎宮寮はどのあたりにあるのだろうかと業平は思った。

 舟が出る。業平の中に歌が浮かんだ。

 

  みるめかる かたやいづこぞ 掉さして

    我に教へよ 海人の釣舟


 都ではしばらく忘れていた歌心が、ここに来てからは不思議なくらい、水が湧き出るがごとく頭の中に歌が浮かんでくる。

 まずは外宮げぐうへの奉幣を終えてそこで一泊し、翌日のまたもやよく晴れ渡った清々しい青空の下で、行列は内宮へと向かった。ここは少し内陸にあり、平地から山に近くなったところにある。

 神域全体が森となって盛り上がり、五十鈴川が俗界と聖なる地とを分けていた。その聖俗の境となる宇治橋を、行列はゆっくりと渡った。すぐに右に折れて広い参道を少し行くとまた小さな橋があり、車はそこまでだ。それより先は木沓きぐつを履いて、白砂利を踏んで徒歩で行かねばならない。行列の人々の砂利を踏む音が、静寂な木立の中に響いた。すぐに参道は五十鈴川に接し、ここが最終の潔斎の場となる。

 ここではただ、流れに手を浸すだけでよかった。そしていよいよ本殿である。風までもが清浄に感じられ、業平は心が引き締まっていく思いだった。


 次の日は斎宮寮に赴くのが慣例だ。大神宮へ行く時に平地の中に屋根が密集している一角が見えたので、もしやあれがそうではと業平は思っていたが、果たしてその通りだった。

 区画は溝で仕切られ、それに沿ってずっと柳が植えられている。塀は都のような築地塀ではなく、質素な板垣だった。それでも驚くほど洗練された都ぶりの建築群である。南の門から入ると都よろしく、町は道が縦横に走る都城となっていた。

 しかし、全体的に小振りで、都の一坊がここでは一町に相当した。門を入った大路の右は大庭で、ふちに木が並んで植えられているほかは、建物はない。

 左は外院のひとつの薬部司ということで、萱葺きの小さな建物が並んでいる。そして、最初の辻の左は中院の寮庁で、右が内院たる斎王御殿だった。斎王の居住するのはここではなくて一つ北の坊であり、ここは儀式の場であるという。

 行列は辻を右に折れ、斎王御殿の南門の手前で車は止まった。

 ここからは徒歩である。南門をくぐると正面に正殿があり、その手前の左右に二つずつ、対の屋のような建物が独立して建っていた。みな桧皮葺ひわだぶきで、何の着色もない白木造りだ。この内院以外の建物は萱葺きか板葺きで、屋根に重しの石が乗っていたりする。

 門の中には朝服を着た官人が三人ほど立っており、業平を立礼で向かえた。まずはその案内で、右手奥の建物に入る。

 そこには出迎えの斎宮頭兼伊勢守である源すずしが待っていた。業平より少しだけ若い。

 令は先帝の弟で、源姓を賜った一世源氏である。つまり今の帝の叔父だが、それが受領階級にいる。帝の外叔父ならかなり政治的に強くなれるが、内叔父ではだめなようだ。

 まずは勅使の業平が、身をかがめる。今や斎宮頭は斎王の代行者である。

「斎王様よりの賜り物でございます」

 そう言って斎宮頭は業平の肩に被物かづけもの――すなわち女物の衣類をかけた。それがしきたりである。

「これはまた、たいそうご立派な御物を」

 やはりしきたりどおりに、業平は辞令を言った。次に一度庭に出て本物の斎王のいる正殿に向かう。

 そして向かって右側のきざはしを昇り、正殿の端近の円座の上に業平は座った。斎王は目の前の御簾の、そのまた奥にいる。

「斎王様には、すこぶるお健やかなご様子。御母君も御案じなさっておりましたが、さぞやご安心めされることでしょう」

「神のご加護で、対面かないました」

 御簾の奥からの声に、業平は思わずはっとした。十代の、若い女性の声である。昨日は厳粛さの中で身を硬くしすぎたようで、今はその反動がきたのかもしれない。しばらく業平は、言葉も出なかった。

「御母君からもよろしうにと」

「こちらも母より承っておりまする。このたびの御勅使殿は身内ゆえ、特に懇ろにと」

 そして斎王は、クスッと笑ったようだ。その時、業平の中で何かが大きくはじけた。勅使と斎王、その儀礼的な関係を越えた何かを業平は感じたのだ。

 思えば斎王は十代という多感な、恋に浸りたいであろうはずの年代に、すべてを断ち切って、都から遠く離れた地のこのような所に閉じ込められ、神に仕えることを余儀なくされているのである。

 業平は斎王にもともとそういった憐憫を感じていたが、それが一気に特殊感情になった起爆剤は、やはり斎王の微かなクスッという笑い声だったようだ。

 ゆっくりと話がしたい、二人きりで――業平は切実にそう思ったが、もちろん許されることではない。ましてやこの場で、そのようなことが言いだせるはずもなかった。

「都が恋しうございますか」

 業平は、何とか話題を選んだ。少し沈黙があった。その間、業平の胸は高鳴っていた。やがて御簾の中から小声で、

「いささか」

 と、いう返事があった。これは斎王としても、大きな声では言えないことだった。それを、たとえ小声であれ斎王は言った。正直な性格のようだ。

 斎王は都を出るときに、「都の方に赴きたまふな」と帝から言われているはずである。都に戻るのを望むのは、凶事を望むに等しい。凶事がない限り、都には戻れないのである。いわば、都への一切の執着を持つことを禁じられている。

 ついに業平は、自分でも信じられないような行動に出た。懐から紙を取り出し、筆を執ったのである。少し間があって、彼の筆は紙の上を滑りはじめた。


  恋しくは 来ても見よかし ちはやぶる

    神のいさむる 道ならなくに


 それを小さくたたんで、取り次ぎの巫女に渡した。これだけ小さくたたんでおけば、取り次ぎの巫女が見ることもあるまい。業平の胸は、苦しいくらいに波打っていた。とにかく今は、これができることの限界だった。

 あとは儀礼的な言葉を述べて、彼は退出した。それにしても自分のどこからあのような行動が出たのか、彼自身にも分からなかった。いい歳をしてとも思う。

 しかし、いくら暗に誘ったとて、斎王はその立場上、誘いにのってくるはずがないことは分かっている。だからあの歌は自分を納得させるための歌だと、業平はしきりに自分に言いきかせていた。変な期待を持つな、早く平穏に都に帰ればいい――そう自分を説得する。

 続いて西隣の斎宮頭の館で、あらためて斎宮頭源令との対面となる。今度は勅使として、業平が上座につく。

「いやあ、勅使殿のお蔭ですな。都から来られただけあって、都の風を運んでくださった」

 業平は苦笑した。

「おもしろいことをおっしゃいますね」

「堅苦しい所ですが、何日でも御逗留なさって、都のお話でも聞かせてくだされ」

 斎宮頭は斎王と違って、何の禁忌もないだけに直情的である。斎宮頭も都からはるか遠くこの地に来て、都を恋しく思っているようだ。

 だから勅使としての業平の来訪を、このように心底喜んでいる。都の人と話した、都の話が聞きたい――その思いはひしひしと伝わってくる。業平の東国行きは自分の意志で行ったものだったが、彼らはお上からの辞令ひとつで飛ばされて来たのだ。気の毒といえば気の毒だ。

「今日はお疲れでしょう。とりあえずよくお休みになって、お話はまた後日」

 やっと業平は、斎宮頭から解放されるようだった。賜姓源氏とはいえ先帝の皇子である。やはりお坊ちゃんなのだ。

 業平が宿として与えられた部屋は斎宮頭の館の東奥で、塀ひとつ隔てて斎王の居館に接する位置だった。

 もしかして斎王が本当にここに来たら……あり得ないことが、ふと業平の頭に浮かぶ。ところがすぐにその妄想は、ますます肥大化していく。来たりして……いや、来てほしい……来るのでは……そんなことを考えているうちに、夜はどんどん更けていく。来るはずがない、来るわけがないと、その都度業平は自分に言いきかせた。

 甘い期待はするものではない。このまま夜も更け、夜が明ければ明日は斎宮頭との宴、そしてあとは都に戻るだけだ。そう思いつつも、ここに来るまでは思いもよらなかった自分の心情の動きに、業平は戸惑っていた。

 何かが大きく変わっていく。自分の中でとてつもないものが動いている。そしてそれは、とうの昔に忘れていたものであるようだ。それを取り戻しつつあるといった感覚が、戸惑いの一方で業平の中で望郷にも似た快感になっていたのも事実だ。

 だが、完全に取り戻せるはずはない。なぜなら彼は、もう十分大人になりきっている。

 一人になり、明かりも消えた部屋で横になり、御帳台の天井の裏布のあたりの闇を目を開いて見つめ、業平は考えていた。

 業平にとって女といえば、自分と同世代の女は異性を感じられない存在になっている。だからといって若い女には、心のときめきを感じない。人格としては子供すぎて相手にはできない。少なくとも今日の昼間、斎王と対面するまではの話だ。

 斎王は十代の後半であろう。世間の姫ならとうに婿を取り、人の子の親となっていてもおかしくはない年齢だ。だが、もうすぐ四十に手が届く業平にとっては、十分に若い娘といえる。

 おかしい……胸がときめいている。熱くもある。なぜこのような気持ちになるのか……分からない。斎王の顔をちらりとでも見たわけではないのだ。それでも大神宮での余韻が、まだ残っている。

 威圧感を受けるほどの荘厳さと目に見えない力に圧倒されたまま、業平はやはり聖域である斎宮寮で眠ろうとしている。斎王は道ひとつ隔てた御殿で、やはり眠りについているだろう。

 初めてこの地を踏んで、遠くから斎宮寮の屋根を見た時、さらには都で斎王の母から娘によろしく伝えるよう言われていた時、まさかその斎王に今のような感情を持ってしまうことになろうとは、業平には予想だにできないことであった。

 業平は目を閉じた。寝ようと思った。それが甘くもおろかな期待を打ち切らせるための、自分への説得だった。もう待っていないということを、眠るという行為で示そうとしたのだ。

 さすがに旅の疲れもある。いつしか業平はうとうととし眠りに落ちていった。

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