第2話
決行の日は来た。忍びに忍んで、機会の到来を待ったのである。
姫はまだ、蔵の中に閉じ込められているようだ。自分のせいで姫をこんな目に遭わせてしまったのであり、そんな自分にできることは姫を蔵から救出することだと業平が考えたのが、そもそものこの計画の発端だった。
そのあとはどうするか……もはや姫は、尋常な生活には戻れまい。そこで彼は、思いを遂げることになる。
官職を喪うのは恐くない。むしろそのようなものはない方がいい。気持ちが楽になる。だから位も官職もすべて投げ打って、都を後にするつもりだ。もちろん、姫と一緒にである。
行き先は……近隣の国ではまずかろう。思い切り遠出する必要がある。
そこで彼は、一層のこと東国にと思った。朝廷の力も、なかなか及ばない所だ。
西に行ったなら、
業平は楽しみながら、計画を練った。下準備もした。たった一つ気になるのは、長岡の母を残していくことだった。母にも同行願いたいが、何しろ高齢である。とりあえずは姫を蔵から救出した後、長岡で母に会わせ、その後に旅立とうと思った。
八月も末になって、いよいよ決行する時が来た。この頃がよいと、
秋の冷気もそろそろ身にしみるその頃、昼間の宮中は大騒ぎだった。
伊勢の斎宮となる恬子内親王が、いよいよ神宮に向かって下向する日も近づいたので、朱雀門の前で大祓が行われていたのだ。
そのような日に当たり、普段は蔵に監禁されている姫も、この日は参内している様子があった。帝の御座近くに侍っている模様だったが、夜は業平がかつて姫と語り明かしたあの曹司に下がるものと思われる。
退出の時刻を過ぎても業平は内裏の中の物陰に身を潜め、夜が来るのを待った。
日が沈んだ。
用のないものは、日没とともに寝てしまうはずだ。
この日の業平は太刀を佩いた朝服の上に弓を持ち、矢を背負うという武装したいでたちだったので、近衛の役人が見回りをしているふりをすれば姫の曹司に近づくのは容易なことであった。
沓のまま、業平は殿上に上がった。今の彼にその資格はないが、些事にこだわってはいられない。
「姫」
声を押し殺して格子の外から呼んだあと、業平はいきなり妻戸を開けて中へ入った。突然の男の乱入に、姫は顔を隠すことすら忘れ、呆然としていた。もはや、お付きの侍女はいない。姫の身は硬直し、震えてもいるようだった。
思ったより自分が落ち着いていることが、業平には不思議だった。大胆に、すべては計画どおりに事は運んでいく。
「蔵よりお救いしとうございます。まろと一緒に来て下され」
姫は黙ったまま、こわばらせた顔を左右に振った。構わずに業平は姫のくびれた腰に手を回し、肩に担ぎ上げた。
「何を! 何をなさいます!」
業平の肩の上で、姫の手と足が暴れた。
そのまま簀子へ出た。姫の声を聞いてほかの侍女たちが駆けつけてきたが、ただ悲鳴を上げるばかりで、どうしようもないという様子だった。
業平はそのまま一気に姫を抱えたまま、門の方へ歩いた。警護の衛士はいたが、業平が太刀を振り回すのに怯えて手出しできず、業平はすんなりと門を出ることができた。閉ざされた門を外から開けるのは容易ではないが、内側からなら片手で十分だ。
門の外に、業平は自分の馬をつないでおいた。一度姫を地面に下ろし、馬の綱を解く。
「さあ、馬に」
まだ姫は、頭を振っている。怯えきって、身を小さく固まらせて震えているだけだ。
「ともに参りましょうぞ、
ハッとした顔を、姫は業平に向けた。業平は優しく微笑んで見せた。実名を知られている――そのことへの諦観からか、急に姫が柔らかくなった。そして業平にすくい上げられるようにして、馬上に舞い上がった。
「後悔は致しませぬか?」
と、姫が問う。
「何の、するものか」
一目散に馬は駆けはじめた。まずは長岡だ。そこにも長居はしておられない。姫を奪ったのが業平であることは、誰もが容易に察するであろう。やがて追っ手が来る。
このまま大宮大路を下るのは危険だ。途中のどの門から追っ手が飛び出してくるか分からない。
そこで少し東へ行き、堀川沿いに南下した。ただひたすら馬を走らせる。夜の闇の中に、ひづめの音だけが響いた。そして馬上では、あれほど、死ぬほど恋い焦がれた女の体が業平と密着している。
堀川大路は道幅こそほかの大路と変わらないが、その名の通り道の中央に堀が川となって流れており、その川が道幅の大部分を占めていた。
二条を過ぎた。さらに、三条、四条と次々に過ぎていく。
ただでさえ月のない闇夜でおまけに空は曇っているから、業平は片手に
人間の肉眼に道は見えなくても、馬の動物としての感覚で間違わずに走って行ける。
六条も過ぎると、民家もまばらになった。
「あ、ちょっとお待ちを。お待ちを」
姫が言うので、仕方なく業平は馬を止めた。
「あれは、あれは何ですか?」
姫が見ている方の野のあちこちに、確かに無数に光っているものがあった。業平の手の松明の炎に照らされているのは、草の上の露であった。
そのようなことかと思う。今は構っている暇はない。まだ先は長いし、いつ追っ手が来るか分からない。
業平は何も答えず、再び馬を走らせた。
九条を過ぎた。ここからはくねる堀川の末の川沿いに、野の中を道は進む。宮中から出た
そのうち、業平の顔に冷たいものが当たった。おやと思って空を見上げたら、それはいきなり水の束となって暗い空から落ちてきた。
突然の雨である。しかもたちまちのうちに豪雨となった。
稲光が走った。すぐに雷鳴が轟く。姫が怯えて暴れるので、下手をすれば馬から落ちてしまう。紙燭の火も消えそうだ。
ただ、うまい具合に、最後の残り火で近くに小屋があるのが映しだされた。
「高子殿、ひとまずあの小屋に」
姫を馬から下ろして自分も下り、その後で業平は姫を小屋に入れようとした。
「このような卑しい所……」
姫は文句を言っていたが、ぐずぐずしているとずぶ濡れになってしまう。閃光と爆音もひっきりなしだ。
「とにかく、早く!」
姫を何とか小屋に入れてから馬をつなぎ、業平は小屋の入り口の軒下に立っていた。早く雨がやんでほしい、夜も明けてほしいと、業平はただ祈るだけだった。雨の音は轟音となって、ほかのすべての音を遮断していた。
いつのまにか軒下に座り込んで、業平は居眠りをしていた。ふと目覚めると、あたりはもう明るくなりかけている。空はまだ曇っているが、雨はもう降っていない。
業平は慌てて蔵の中をのぞいた。
「高子姫」
呼んでも返事はなかった。小屋に入ってみても、中には誰もいなかった。小さな小屋だけに探しようもない。
呆気に取られた業平は、都への道を往復した。早朝の野の道には、誰もいなかった小屋まで戻ってその周囲を馬で走っても、人影一つ見えない。
姫が自力で都へ戻ろうとしたとしても、馬なら追いつく距離はすべて走った。彼女は徒歩のはずだ。
周りは一面の野で、視界を遮るものは何もない。しかも、あの豪雨と雷の中を、あんなに怯えていた姫が一人で外へ出て歩くなど、考えられない。
何が何だか、とにかくわけが分からない。
「高子姫―ッ!」
と、業平は大声で叫んだ。そして狂ったように走り回った。すると、やっと野の中にみすぼらしい老婆がいるのを見つけた。
「このあたりで、やんごとなき姫を見なかったか」
馬から下りた業平は、そう言って老婆につかみかかった。
「ちょいと、お手を……お手を……乱暴な……苦しい」
「あの小屋で、雨をしのんでいた姫がいたんだ」
「ああ、あの小屋かね……」
老婆は無気味な笑みを浮かべた。
「あの小屋はな、鬼が住む小屋じゃ」
「何ッ! 鬼だと!」
業平は老婆をつかむ手を放した。そして、しばらくは頭の中が白くなった。老婆の言葉を、もう一度胸の中で反芻してみる。
姫は鬼に喰われたのか……
「うわーッ!」
突然業平は頭を抱えて叫び、その場に倒れ伏した。そして子供のように仰向けになって、足で宙を蹴り上げながら悶えた。嗚咽が次から次へとこみ上げてくる。
姫は鬼に喰われた。自分が連れ出したばかりに、姫は死んだ。想定外の成りゆきに、彼はただ悶えるばかりだった。
自分の手で殺したも同然だ。恋しい、いとしい存在を自分の手で消してしまったと業平は自分を責め、また一段と声を張り上げた。
そういえば野の露を指さして、あれは何かと姫は聞いた。姫は野の露も見たことのないそんな深窓の令嬢だったのだと、泣きながら業平は思った。そしてそんなことを自分に無邪気に聞いてくる、まだ幼い姫だったのだ。
あの時は先を急いで焦っていたので、姫の問いかけに答えてあげることすらできず無視してしまった。
今はすべてが悔やまれる。その思いが、目の外へと涙をどんどんと流し出す。
白玉を 何ぞと人の 問ひし時
露と答へて 消えなましものを
そうだ。答えてあげるべきだった。
「露というのだよ」など、簡単なひと言ではないか。それも言ってあげずに無視した。そんな思いやりの心もなかった。
あの時はまさかあとほんの少しの時間で姫がこの世の人でなくなるなど、夢にも思っていなかったのだ。
こんな悲しい思いをするのならあの時ちゃんと答えて、自分も露と消えてしまえばよかった……しかも、あんなに嫌がっていた姫を、何も知らずに鬼のいる小屋に無理やり自分の手で入れてしまった……
何もかもが遅い。何もかもが悔やまれる。
小屋に戻って、業平は何か姫が残していったものがないか探した。鬼は明るくなるといなくなるはずだ。だが今は一層のこと自分をも喰ってほしいと、業平は鬼に頼みたいくらいだった。姫の残留物は何もなかった。
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