第3話
そのまま業平は帰宅した。
だが、まだ心は燃えている。ついに姫と直接に接した。髪にも触れた。瞳も見た。それによってこれまでの過程に、新たな進展が見られた。
しかし、同時に見たのは禁色の背子だった。過去から考えれば進歩だが、これからのことを考えたら一抹の不安を感じてしまう。
しかし、引き返すことはできない。
あとは押しの一手で突き進むか、玉砕するしかない。何しろ現場を、ほかの侍女たちに目撃されている。
業平の心の中から姫のまなざしが消えないうちに、都を激しい嵐が襲った。暴風は一晩中音をたてて吹き付け、雨も横殴りに屋敷の格子を叩き、爆音が鳴り続けていた。寝られたものではない。
業平の屋敷の侍女たちも一部屋に集まり、かたまって怯えていた。そんな侍女たちの塊を励まして歩きながらも、業平の心だけは姫のもとに飛んでいた。
一晩明けると、庭の木々の何本かは根から掘り起こされた状態で倒れていた。風雨も収まってはおらず、とても出仕できるような状況ではなかった。以前の業平なら、出仕を怠けるいい口実ができたと喜んだであろう。しかし、今は違う。
午後になって家司の一人が聞いてきた情報によるとまた鴨川が氾濫して堤防が決壊し、七条以南は水浸しだという。
その嵐が収まると、一気に秋は深まった。だが、紅葉までにはまだ間がありそうだ。この年は十月の後に、閏の十月が入るのである。
業平は、自分でも驚くほど無鉄砲になっていた。とはいっても、あれから新しい行動を起こしたわけではないし、起こせるような状況でもない。無鉄砲なのはその考えていることが、だ。
彼はまた、機会を狙い続けていた。今度は夜がいい。そうなると、
その宿直の夜が来た。業平はほかの近衛の役人の目を盗んで、そっと
当然のこととして、格子は下がっていた。沓を脱いで簀子に上がり、そのまま沓を持って業平は、姫の部屋の妻戸の前へと進んだ。場所は昼に一度下見して、確認してある。
業平はまた、咳払いをした。返事はない。そこで、思い切って妻戸を開けた。
「な、何と御無体な! いつぞやの将監殿」
姫付きの侍女たちははじめ慌てていたが、業平が
「姫にお取り次ぎを」
「だまらっしゃい。身分をお考えあれ」
「身分? 姫君も五位なら、まろも五位」
「しかし……」
女房は口ごもった。后がねであることは、まだ公ににはされてはいないから言うわけにはいかないことは、業平も十分に分かっている。その後の言葉は、急に弱々しくなった。
「姫様は、大き
「まろは皇孫、父は親王で、しかもまろは宮腹ぞ。何の身分に差し障りがあるか」
それには女房は反論できず、しぶしぶと立っていった。そしてすぐに出てきては、姫はすでに寝ているという。
「それならば、その事実拝見!」
業平は御簾を押し上げた。女房たちが慌てて抑えようとしたが、
業平は姫と二人きりとなった。姫は几帳の後ろにいる。室内には淡い灯火が、まだ灯っていた。
「お休みになっておられたというのは、偽りでしたね。それほどまでに私がお嫌いか」
「いいえ、あなた様の身を案ずるがゆえに、この前もご忠告申し上げたのです。身を滅ぼしますぞ」
「いえ、決してご無礼は致しません。物越しのままで結構です。せめてまろと一夜の物語を」
二人の間には、しばらく沈黙が漂った。業平は座り込んで、とにかく語り始めた。父のこと、まだ在世中の母の話、そして自分の生い立ち、信条、さらには五節の舞で姫を見初めたいきさつを途切れがちに語った。姫は聞いているのかいないのか、反応は全くなかった。
今なら几帳の薄い布などかきあげて姫に抱きつくのも、今では状況的に可能だ。もはや侍女も来るはずがない。若い肢体を思い切り抱きしめて、それを味わうこともできる。今まではやけに度胸が据わっていたが、それを思うと急に胸がまた高鳴りだした。
「もう、夜も明けましょう。明るくならないうちに早くお引き取りを」
はじめて姫が口を開いてそう言ったのは、確かにかなりの時間が経過してからだった。それまで、ずっと業平だけがしゃべり続けていた。もっともそう多くを語ったわけでもなく、互いに沈黙していた時間の方が長かった。
業平は席を立った。
「また、参ります」
返事はなかった。簀子へ出ると、冷たい風が頬に当たった。空はうっすらと白くなりかけている。月はとうに沈んでしまっているので、その方が都合がよかった。
持っていた沓を置き、庭へと降りた。その時、目が合った。男だ。前方の立蔀の陰に、男はさっと隠れた。
見られた――男は
宿直所では宿直を抜け出していたことがばれないようにと、沓を端に置かずに中に投げ込んでから上がった。
兄が業平の屋敷に来た。今では従四位下内匠頭になっている行平だ。その兄、行平は渋い顔をしていた。
「まずいぞ、まずいぞ」
と、いきなり兄は言った。
「宮中はおまえの噂で持ちきりだ」
「え?」
「摂政太政大臣殿の娘御のもとに忍んで行ったとか」
「そんな噂に?」
「みんな嘲り笑っておる。いい年をして、二十歳前の娘のところに通うなど」
「これくらいの年の差の夫婦は、ざらにいるではありませんか。十五、六離れたくらいの」
「夫婦だと? おまえ、本気であの姫を妻にしようとしているのか」
行平はうなってから、言葉を続けた。
「相手が悪い。確かにわしは、あの一族には取り入っておけとは言った。それでおまえは、右大臣家の婿になった。その時はわしの言うことを聞いてよくやったと、わしは思っておった。しかしだな、さらに太政大臣の姫にもとなると、それは行きすぎというものだ。第一、右大臣と太政大臣のご兄弟の中は……」
「
業平は手で制した。
「そのような政治的な、どろどろとしたことは、私の眼中にはなんいですよ。ただ、純粋に……」
「ちょっと待て。いいか、これだけは言っておく。あの姫だけはまずい。あの姫は、后がねなのだ。その入内を阻めば舅殿の右大臣にとっては好都合ではあろうが、太政大臣が許すかどうかだ。何しろ太政大臣には後がない。もう持ち駒がないからな。下手をすると、おまえの身が危険にさらされるぞ」
「私はどうなっても結構です」
業平はそうは言ったものの、たまに出仕すると、兄の言ったとおり好奇の目が一斉に彼に向けられた。物陰で袖で顔を隠し、くすくす笑っているものもいる。笑いたいやつには笑わせておけと腹をくくっていた業平だったが、意外にも早くに兄の言葉はさらに実現した。
業平は従五位下から正六位上へと位階を落とされたのである。六位では蔵人ではない限り、
つまりこの降格によって、業平は殿上人の資格を剥奪され、
さらには、もはや今後は宮中での宿直はできないことになり、つまりは姫とは二度と会えないということをも意味していた。
だが官職はもともと六位相当の右近衛将監だったのでそれはそのままであり、近衛府での宿直なら今後もできる。
この処置は姫の兄である国経や基経が噂を聞きつけて、養父の太政大臣良房を動かしたからに違いない。つまり自分は遠ざけられたのだと、業平は感じていた。
「畜生!」と、業平は悔しさのあまり、自分の屋敷の庭を見ながら簀子に座り、何度も勾欄をこぶしで叩いていた。
年が明けて貞観三年、業平は三十七歳になった。
姫はこの正月で、二十歳の春を迎えたはずである。思えば業平があの春日野の女に恋をして悶々としていた頃に、ちょうど姫は生まれたことになる。
その赤子が成長して二十歳になり、姉の春日野の女に代わって同じ業平の恋の対象となっている。
しかし今後は、会えるあてはない。会えないと余計に、想いは燃え上がる。何も手につかない。
そんな時、右大臣家の常行から
あの宮中の事情通の妻だ。おそらく業平の噂も耳にしているだろう。だからこのような歌をよこしたに違いない。業平の足が遠のいているのも、別の女とのことが噂になるのも、妻としての自分が至らないからで、決してあなたを恨みますまい――そんな内容の歌に、思わず業平は哀れと感じてしまった。
右大臣の娘ともなると下々の女のように夫のほかの女についての恨み言は言わないものらしい。しかし、とりようによっては皮肉ともとれる歌である。
だが妻には申しわけないが、今は姫のことで頭がいっぱいだ。たとえ今妻のもとへ通ったとしても、妻を姫の代用として抱いてしまうであろう。その方がかえって妻がかわいそうになる。
姫と会える手立てはない。何しろ業平はまだ、姫の実名を知らないのだ。
苦しかった。本当にあの五節の舞さえなければ、こんな苦しみを味わわずに平和な日々を送っていたはずである。できれば、あの日の朝に戻りたい。そうすれば彼はどんなに命じられても、豊明の節会の警護は欠勤したであろう。しかし、今そう思ってもどうにもならないことである。
やがて庭に、梅の匂いが漂う頃となった。梅といえば、五条邸の姫のところに通い、すでに姫は他所に移されて西の対が空き家になっていたことに唖然とした時、庭から梅の香りが漂ってきた。
あれからもう一年たつのだ。その一年の間に、いろんなことがあったと業平は思う。前にここに来てからちょうど一年目の同じ月の形の夜に、業平は供もつれずに久しぶりに東五条邸に向かった。
今では、姫がそこにいないことは分かっている。だがせめて面影だけでもと思って、彼は出かけたのである。
当然もう、衛士もいなかった。西ノ対は無人となっただけに全く手入れはされていないようで、そこにたどり着くまでの庭も雑草が茂り、対の屋自体も簀子の上に塵や木の葉が積もって荒れ果てていた。
その簀子に座り、業平は一年前と同じように月を眺めた。梅の花は心なしか、去年よりも色が褪せたようだ。
そんな唐詩が、業平の頭をよぎる。去年の今月今夜、彼はやはりここで月を見ていた。そしてその同じ日付けに、同じ場所に戻ってきた。その間に、姫と語らうことはできた。だが、結局はすべてがふりだしに戻ってしまった。
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ
わが身一つは
すべてが変わってしまった、ただ私の心以外は……吟じているうちに、業平は涙さえ出てきた。春は春とて巡り来ようとも、同じ春は二度と巡っては来ない。
やがて涙は、号泣へと変わった。まるで赤子のように、業平は床板に頭をこすりつけて激しくこぶしで叩きながら大泣きに泣いた。
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