第4章 関 守(せきもり)
第1話
春日野の女との再会は現実ではあり得ないにしても、業平がそのように感じたという事実があったことは現実である。節会の舞姫は、二十年前に見た春日野の少女と同じ十代であった。
今、業平の胸はときめいていた。苦しいくらいだ。この歳になってと自分でも思うが、現実にそうなっているのだから仕方がない。
三十五の男が、十代の娘に……。しかもあの舞姫は、業平の中ではまぎれもなく春日野の少女だった。似ているとか、代用とかいうようなものではない。
そのような気持ちが業平にあるから、紀家の妻はもちろん右大臣家の妻のもとにも通うのが億劫になっていた。
それでもあまり間をあけてもと思い、ある夜業平は車を右大臣家へと向けた。しかし、実は別の目的もあった。妻の兄に会うためである。宮中に出仕すればいつでも会えるはずだが、そのへんは最近ご無沙汰している。しかも宮中では、私事のこみいった話などできない。
私事の話とは、もちろん五節の舞姫のことである。今、業平の頭の中を占領しているのは、そのことをおいてほかにはない。常行は右大臣の息子で蔵人頭だから、何か知っているかもしれない。
しかし、何といっても妻の兄である。露骨に心情を言えるはずもなく、紙燭をともした釣殿で、杯を傾けながら業平は常行と対座した。
外はもう暗く、そろそろ夜風が冷たくなってくる時分だ。
業平はまず世間話をし、話題を自然に五節の舞姫の方にと持っていった。
「あの姫でござるか」
常行にはすぐに分かったようだ。
「将監殿のお耳にも、評判が聞こえたようですな」
「評判?」
やはり宮中でも評判になっているらしい。そのへんの情報には疎い業平だったが、なにしろあれだけ美しい姫だだから評判になっていて当然だと納得した。
「まあ、確かに」
評判になっているのを知らないというのも癪なので、業平は適当に相槌を打った。
「そうであろう。あの姫はまろの
「え?」
業平の心に、ぱっと光がさした。あの舞姫は、意外と身近な存在であったといえる。ところがすぐに、業平の心にさした光は翳ってしまう。関係が近いだけに、逆に舞姫の存在はその分遠のいてしまったのだ。
常行にとって従兄妹なら、妻にとっても従姉妹である。妻の従姉妹を恋愛の対象にするのはまずかろう。しかも……
「あの姫は亡くなった伯父上、枇杷中納言殿の忘れ形見で、今では太政大臣殿の御養女だ」
業平の顔から血の気が引いた。枇杷中納言の娘なら、あのいけ好かない国経や基経の実の妹ではないか。さらに、基経たちとともに右大臣家の政敵である太政大臣の養女となっているという。業平にとって、これは大きな衝撃だった。
「三姉妹の末の姫君でござってな、年が離れたお二人の姉君は今、春日大社の巫女をされているはずですな。まだお若い頃からずっと」
業平はもう、言葉が出なかった。そうなると舞姫は、自分が二十年前に春日野で見た少女の妹である可能性が高い。道理で魂に響いたはずだ。
だがこの事実は、舞姫を二十年前の仮想世界の中の舞姫と重ねていた幻想から、現実世界に生きている存在へと引っ張り出す転機ともなった。
そのあとで業平は西の対に渡り、妻を抱いた。だが彼の頭の中は複雑な感情が入り混じっていて、行為に没頭できなかった。
月末に雪が降った。はじめは雨だったが次第に雪に変わり、数日間降り続いて都を白一色に塗りつぶした。
防寒のため昼なのにすべての格子が下ろされていたが、業平は一箇所だけ上げさせて庭を見ていた。ほとんど簀子の高さに近いくらいに、雪は積もっている。前栽も形が分からないほど雪をかぶってそこだけ盛り上がり、木々の枝や屋根から雪の塊が時折音をたてて庭に落ちる。
そんな雪の庭を見ながら、もう引き返せないと業平はつぶやいた。例の舞姫のことである。今は自分の気持ちに正直になりたかった。もはや遠い昔の女の代用でもなく、またその妹であることも何の関係もない。一人の現実に存在する女性としての舞姫に、業平は今は思いを寄せていた。
しかし彼の前には、年齢差のほかにも大きな障壁がある。つまり、舞姫が自分の妻の従姉妹だということだ。しかも、嫌いな人物の実の妹で、政敵の養女でもある。
だが、かえってそれが彼の闘志を燃えたたせた。障害が大きければ大きいほど燃えるなどという感覚は、とうの昔に忘れたと思っていた。そして大人特有の事なかれ主義に流されていた業平だったが、今ではそれへの反発であるかのごとく、若者のように燃焼し尽くしていた。
それに加え、年の分だけ若者より幾分かは冷静に動ける。まずは情報収集だ。これには本当に気の知れた家司だけを使った。また、気が進まないまでも宮中に出仕して、近衛府の同僚とさりげない雑談を装って舞姫のことを話題にし、それなりの収穫を得た。
彼女は故枇杷殿中納言
さらに彼女は今、彼女の叔母にあたる
その東五条邸は順子の姪で、今の帝の生母として帝に付き添って宮中にいる染殿の皇太后明子が、時折宮中より下がるときの里邸ともなっている。
皇太后明子は太政大臣良房のたった一人の実の娘だから、舞姫にとっては従姉妹でもあって義理の姉妹でもある。
こうなるとなんだかややこしいが舞姫、業平の妻、皇太后明子はいずれも従姉妹なのだ。さらには、舞姫は国経や基経の同母妹だともいう。
情報はこれで十分だった。次に、糸口を作る必要がある。身分の違いは、業平にとってさしたる問題ではなかった。相手が太政大臣の養女で自分が五位の右近衛将監でも、彼は皇孫であって母も内親王である。現に、血筋のせいでか、今は右大臣家の婿となっている。年齢差も気になるが、そこは自分は今二十代前半なのだと自分では思っている。いや、精神年齢では正真正銘の二十代だった。
折しも業平の邸内には、ひじきがたくさんあった。
播磨守となって任国へ下がっている兄の行平が、年末のものいりにと送ってよこしたのだ。ひじきとは、あの海藻のひじきである。海のない都の人たちにとっては、これはかなりの貴重品であった。
業平は、まずはこれを舞姫に贈ることにした。従姉妹の婿からの挨拶ということにすれば名分は立つし、世間でもよくあることである。
だが、とにかく急がねばならない。彼女の容姿は、業平だけが垣間見たのではない。五節の舞という公の場で、その若さと美貌を大衆の前にさらけ出したのである。自分よりももっと若い、彼女の十代の年にふさわしい年齢の貴公子が、つてを作って文を届けていないとも限らない。
業平は家司にひじきを持たせ、まずはそれを五条邸に遣わした。だが、ひじきを贈っただけではただの進物になってしまうので、彼は歌を添えた。
想ひあらば
ひしきものには 袖をしつつも
私の心を受け入れてくださるのなら、こんな身分の低いものでも相手にしてくれましょうね。敷物は袖でも――その歌では、ひ敷きにひじきが掛けてあった。本来はこのような恋の駆け引きの道具に歌を使うことなど、業平には決して考えられないことであった。そのことは業平自身も気がついて、おかしく感じていた。
それからというもの、胸が焦がれ、全身がいらだつ日々となった。歌は見てくれているようだから、あのひじきが単なる身内からの進物でないことは分かったはずだ。それなのに返歌はこない。
業平のいらだちは、日を追うごとにますます激しくなっていった。だが、日々は無情に過ぎていき、年の瀬も押し迫ってくる。もはや、実力行使に出るしかなさそうだった。業平ははやる心を抑えつつも、決行の日取りを決めた。
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