第2話
翌朝、まだ明るくなりきらないうちに、業平は退出しようとした。
「どうか末長う」
出かける業平を送り出した時の、姫の言葉だ。その感情は、全く読めない。
自分をどう思っているのか、好きなのか嫌いなのか、そんな気持ちをあらわにしないのも兄や父の指示だろう。それでは自分は、操り人形を抱いたのか……業平はそう思うと、ふと溜め息が出そうになった。
自邸に戻ってから、
我ならで 下紐解くな 朝顔の
夕影待たぬ 花にはありとも
かなり露骨な歌である。
朝、二人は互いの下着の紐を結んだ。業平は姫の、姫は業平のを、だ。これが風習だった。それを詠んだ歌だった。いわば自分以外の男の前で下着を脱ぐなということだ。
業平がこのような歌を詠んだのは、一抹の不安もあったからだ。若い人でさえ、一人の姫と結ばれるのは血と汗と涙の苦労を経た上でのことだ。それなのに、自分はいとも簡単に姫に受け入れられた。いや、姫がいとも簡単に自分を受け入れたと言った方がいいかもしれない。裏を返せば、あの姫は誰でも簡単に受け入れるのではないか、そう思ったのだ。
ところが、姫の返歌はこうだった。
二人して 結びし紐を 一人して
あひ見るまでは 解かじとぞ思ふ
素直といえば素直だ。だが、自己主張というものが全くない。「こうしろ」―「はい」、それだけの歌だ。
常行かあるいは女房の代作かとも思う。あるいは、あの一門の息女は幼い頃からそう躾られているのかもしれない。帝の后にという父親の思惑に、娘が「いや」といえばすべてがだめになる。
しかも業平の歌は、「自分以外の男に下着を脱がせるな」という意味であるのに対し、姫の返歌は「あなたが脱がせる以外には、自分では脱ぎません」の意だ。観点がずれている。ほかの男などあり得ない証拠である。
とにかくその夜も、業平は忍んで行った。こうして三日通って、はじめて結婚が成立する。男が三日通わなければ女は傷ものになっただけで婚約は解消、逆に女からの拒絶は後朝の文の返歌を送らないことである。
返しは来た。業平は通った。
この夜は、昨夜には感じなかったほどの快楽を業平は体験した。自分の体のすべてが溶けて、女の中に入っていくような気がした。
そして三日目――この日が
室内の
業平は、今ひとつ実感がわかなかった。ことの成りゆきが、まだ信じきれていないのだ。感動よりも、今は緊張のほうが強い。
やがて几帳の中に入り、三日夜餅を食べる。これで名実ともに業平は、右大臣家の一員となった。そうなるに当たって、気がかりなこともある。
右大臣
しかし、そのようなことを気にするのは、業平の信条に反することだ。今まで通りの生活を自邸で送り、夜に時々ここへ通ってくればいい。そうしていれば業平の身に経済的援助が、今までの紀家からだけではなく加えて藤氏の右大臣家からももらえる。それはありがたかった。
翌日からしばらく、業平は夜な夜な西三条邸に通った。もはや侍女たちからは、「お帰りなさいませ」といって迎えられる身だ。新しい妻とも、少しずつ語らいも増えてきた。
最初の妻と違って、今まで全く別の人生を歩んできた二人だ。まだ互いのことをよく知らない。だからそれを埋めるべくよく語った。そして語らいのあとは、無言で一つになる。業平は夢中だった。今までおさえていたものが、ことごとく爆発したとも言える。
しかし、それで万々歳というわけではなかった。
直子との行為の最中に、なぜか遠い昔の春日野の女の面影が頭をよぎるようになった。すると、この新しい妻との逢瀬も急に虚しく感じられてきた。またもや倦怠のうちに、夏が過ぎていく。
兄の行平はこの新しい縁に限りなく喜び、これを機に弟が少しはまともになるのではと期待していたようだ。だが業平は、その期待をあっさり裏切った。秋
になっても続く残暑の中、体の不調も加わって、業平はまたもや宮中に出仕しなくなった。たまに通う新妻も、今では性欲を満たすための自慰の道具と成り果てていた。
酒を飲みすぎるせいか、食欲もない。常に吐き気もする。頭もボーっとしていることが多い。脱力感、倦怠感、そのようなものに生活を支配されたまま、月日だけが流れていった。
秋が深まっても、一向に体調はすぐれなかった。暑さもなかなか引かない。だが、体の不調は欠勤の口実としてはうってつけだ。そして自邸にいて、自然の成りゆきとしてまた酒を飲む。また体調を崩すという悪循環に、業平は陥っていた。体は三十の峠を越えても心は二十代のままだから、ついつい無理をしてしまうのだ。
新しい妻のもとへ通うのも、次第に間があくようになっていった。
遅すぎる性の目覚めを迎えた彼は、若い頃になるべくしてなった人々と違い、急激に嵐の中に放り込まれた。夫婦とはいってもともに生活しているわけではなく、夜にその行為のためにだけやってくる。だから、ただ欲望のみで妻を抱いていた。そのような状況が長引けば、虚しくなるに決まっている。だがその虚しさを、彼は欲望の未充足と誤解した。
ついに自邸の侍女に手をつけた。老女ばかりだった中に、最近になって仕えるようになった若い侍女だ。それを深夜に自室に侍らせたのである。しかも、かなり酒に酔ってのことであった。貴人の邸宅ではよくあることだが、新しいその若い侍女は古参の侍女から、この屋敷では今までそのようなことはなかったと聞かされていただけに、衝撃も大きかったようだ。
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